好況の背景には、欧米列強の好景気がありました。松方財政によって我が国は銀本位制を確立させましたが、その銀の価格が下落したことで、列強が日本の商品を求めやすくなったことから、我が国の貿易が大幅な輸出超過となったのです。
当時の我が国の輸出の主力は紡績(ぼうせき)や製糸などの繊維(せんい)産業でしたが、輸出超過はこれらの産業に活気をもたらすとともに、物価の安定や金利の低下によって、我が国の有力企業への貸付が活発化し、またこれらの企業の株式配当が増加したため、全国で株式の取引が広く行われるようになりました。
かくして、我が国では紡績や鉄道を中心として「企業勃興(ぼっこう)」と呼ばれた会社設立の大きなブームが起こり、機械技術を積極的に利用した産業革命が本格化しました。
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その後に米の豊作や、銀の価格の下落による生糸(きいと)などの輸出の回復などもあって不況を脱した我が国では、日清戦争の勝利によって得た莫大(ばくだい)な賠償金を基本として戦後経営に取り組みました。
我が国では、明治13(1880)年に貿易のための為替を取り扱う横浜正金(しょうきん)銀行が設立されていましたが、これに加えて、債権の発行権を持つ日本勧業銀行や、企業のための長期の融資を行う日本興業銀行、あるいは新たに我が国の領土となった台湾での中央発券銀行である台湾銀行などの特殊銀行を次々と設立しました。
金融面からの産業の振興をはかった我が国は、明治30(1897)年に貨幣法を制定したほか、同年に日清戦争の賠償金を準備金として金本位制を確立し、欧米列強と肩を並べた国際的な経済あるいは金融の秩序に加わりました。
金本位制とは金を通貨価値の基準とする制度であり、各国の金の保有量で通貨の発行高が決まると同時に、貿易での金のやり取りが景気を左右することになるため、一定の金を常に保有することが原則となりますが、その資金として賠償金を活用したことになりました。なお、横浜正金銀行は大東亜戦争後に設立された東京銀行(現在の三菱UFJ銀行のルーツの一つ)の実質的な前身であり、また日本勧業銀行や日本興業銀行は現在のみずほ銀行の前身にあたります。
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しかしながら、国民の負担にも限度がありますし、無い袖(そで)は振りようもありません。このため、政府は租税負担に耐えられるだけの経済力の育成にも力を入れることになりました。
こうした政府の方針もあって、鉄道や紡績などによって再び企業勃興が生じ、産業界が活気づいたことによって、19世紀末頃までに我が国でも繊維産業を中心に資本主義が本格的に成立しました。
ただし、資本主義は経済の発展をもたらす一方で、その反動ともいうべき不況も発生しやすくなります。当時の我が国でも、明治33(1900)年に過剰生産を主な原因として資本主義的恐慌が発生し、地方中小銀行の多くが破産する騒ぎになりました。
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こうした海運業奨励政策によって、我が国では遠洋航路の開設が次々と行われましたが、なかでも日本郵船会社は、明治26(1893)年にインドのボンベイ(現在のムンバイ)航路を、明治29(1896)年には欧米やオーストラリアへの各航路を開きました。
遠洋航路の開設もあって貿易は飛躍的に拡大し、我が国からの生糸や綿糸(めんし)・石炭などの輸出が増えた一方で、綿花(めんか)などの原料品や機械・鉄材などといった重工業製品の輸入が増加したため、結果として我が国の大幅な輸入超過となってしまいました。
なお、貿易品の取扱いを主に行ったのは、三井物産会社などの商社であり、横浜正金銀行が貿易の金融にあたりました。また日本郵船会社は、明治18(1885)年に三菱と半官半民の共同運輸会社とが合併して設立され、現代に至っています。
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綿織物業の業績回復は、原料糸を供給する紡績業にも大きな発展をもたらし、明治16(1883)年に渋沢栄一(しぶさわえいいち)らが大阪紡績会社を設立すると、イギリス製の紡績機械や蒸気機関を使用して経営に成功しました。
これに刺激を受けたかたちで、我が国では鐘淵紡績会社(かねがふちぼうせきがいしゃ、後のカネボウ)や摂津紡績・尼崎紡績など大規模な紡績会社が次々と誕生し、機械制生産が急増しました。
その一方で、従来の手紡(てつむぎ)やガラ紡(ぼう)による綿糸生産は衰えましたが、明治23(1890)年には綿糸の国内の総生産高が輸入高を上回ったほか、日清戦争後にインド産の輸入綿花を原料とした綿糸の生産が増えたことで、中国や朝鮮への綿糸輸出が急増し、明治30(1897)年には輸出高が輸入高を上回るようになりました。
その後、日露戦争を迎える頃には、大紡績会社が合併などによって独占的地位を固めて綿織物の大量生産を行った一方で、豊田佐吉(とよださきち)が発明した木製の国産力織機(りきしょっき)が多くの中小工場に普及したこともあり、明治42(1909)年には綿布(めんぷ)の輸出額が輸入額を超えるようになりました。
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農村による養蚕(ようさん)を基礎とする製糸業は、幕末の頃は簡単な手動装置の座繰(ざぐり)製糸が中心でしたが、輸出の激増によって機械生産の必要性が高まったため、政府は明治5(1872)年に富岡(とみおか)製糸場を開設しました。
いわゆる官営模範工場の設立を通じて政府が見本を示したことによって、器械製糸は長野県や山梨県などの農村地帯を中心に我が国で急速に普及し、やがて明治27(1894)年には器械製糸の生産高が座繰製糸の生産高を上回りました。
また、政府が生糸の輸出を増やすと同時に、品質改良にも積極的に取り組むなどの努力を重ねた結果、日露戦争後にはアメリカを中心に生糸の輸出がさらに伸び続け、明治42(1909)年には清国を抜いて世界最大の生糸輸出国となりました。
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また、松方財政によるデフレの影響で、全農地における小作地率が増加していましたが、この傾向はこの後も続き、結果として大地主自身が農業を経営せず、小作人からの現物による小作料収入に依存(いそん)するという寄生地主が増加しました。これを「寄生地主制」といいます。
当時は都市人口の増加によって米の供給が不足がちとなり、米価が上昇傾向にありましたが、そんな中で小作人から高額な現物による小作料を集めて、定額の金納で地租を納めた地主の収入は莫大(ばくだい)なものとなり、地主の多くが企業を興(おこ)したり、あるいは公債や株式に投資したりするなど、資本主義経済に積極的に関わるようになりました。
一方、政府は明治26(1893)年に農事試験場を設置して米や麦の品種改良をめざすなど、農業技術の研究を進めることで農産物の増産をはかりました。また、農村の経営を救済する目的で明治32(1899)年に農会法を、翌明治33(1900)年には産業組合法をそれぞれ制定しました。
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「高額な小作料の支払いに苦しむ小作農の中には、子どもを工場へ出稼ぎに出したり、副業をしたりして何とか生活を営(いとな)むという有様でした」。
寄生地主と比較して貧富の差を強調することで、いわゆる「貧農史観」を前面に押し出す姿勢がみられますが、このような「富(とみ)を憎む」といった社会主義あるいは共産主義的な見方だけでは、当時の歴史を正しく理解することはできません。
当時の我が国は、政府をはじめとして「富国強兵」や「殖産興業」を国是(こくぜ)とし、国全体の経済力を高めること、すなわち国富(こくふ)を増やすことが何よりも重要視されていましたが、実は寄生地主の存在こそが国富の増大に大きく貢献していたのです。
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もちろんすべての寄生地主が成功することはなく、様々な興亡を繰(く)り返したうえで、より大きな寄生地主が誕生することになるのですが、成長した寄生地主が、より多額のおカネを国内で投資することで、さらに国家全体の財政が潤(うるお)うという側面もあったのです。
とはいえ、寄生地主の下で働いていた小作農の生活が貧しかったのは事実ですから、そのこと自体を教科書に記載することは決して間違ってはいません。
しかしながら、寄生地主を一方的に「悪の象徴」と決めつけ、現代からの視点のみで断罪するのではなく、彼らが「歴史の大きな流れ」の中で果たした役割を正当に評価してこそ「歴史の真実」を見極めることが可能になるのではないでしょうか。
※次回(6月9日)からは第76回歴史講座の内容について更新します。
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いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。