歴史教育では、平安時代初期の「弘仁(こうにん)・貞観(じょうがん)文化」の一例として「天台宗(てんだいしゅう)」や「真言宗(しんごんしゅう)」を学び、それぞれの開祖である「最澄(さいちょう)」と「空海(くうかい)」の名を記憶することになります。
比叡山(ひえいざん)の「延暦寺(えんりゃくじ)」を建立(こんりゅう)した最澄は「伝教大師(でんぎょうだいし)」と称され、高野山(こうやさん)の「金剛峯寺(こんごうぶじ)」を建立した空海は「弘法大師(こうぼうだいし)」と称されました。
この二人のうち、今も広く使用される「弘法にも筆の誤り」「弘法筆を選ばず」などのことわざで有名な空海の方が、一般的な知名度は高いようですね。また、神奈川県川崎市の平間寺(へいけんじ)は別名を「川崎大師」とも呼ばれ、毎年の正月には初詣の参拝客で大変な賑(にぎ)わいとなっています。
今回の講座は、空海と最澄のそれぞれの生涯から平安前期の仏教史を振り返りますが、まずは仏教そのものの誕生から探ってみたいと思います。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なお、ガウタマ=シッダールタは「釈迦(しゃか)」、あるいは尊称として「ブッダ」とも呼ばれていますが、彼が「釈迦」と呼ばれるのは「シャカ族」の出身だからであり、また「ブッダ」は「悟(さと)りをひらいた人」を意味する称号でもあります。
ガウタマは「苦しみとは地位や財産や他人への執着、愛情、欲望を断たれることだが、この世に永遠のものはないから、苦しみは必ずやってくる。苦しみから逃れるためには、執着を捨てねばならず、そのためには8つの修行法が必要である」と説きました。
なお、8つの修行法とは「正しく見(正見=しょうけん)、正しく考え(正思=しょうし)、正しく話し(正語=しょうご)、正しく行動し(正業=しょうごう)、正しく生活し(正命=しょうみょう)、正しく努力し(正精進=しょうしょうじん)、正しく思いめぐらし(正念=しょうねん)、心を正しく置く(正定=しょうじょう)」ことであり、「八正道(はっしょうどう)」と呼ばれています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、そのためには家を捨て、また社会を捨てなければならず、さらに救済の対象は自身のみに留まり、広く他人を救済することはできませんでした。
そのためなのか、自身の悟りよりも人々の救済が重要と考え、出家しないまま修行を行う意義を説く「菩薩(ぼさつ)信仰」がいつしか広がりを見せるようになりました。
なぜなら、日々の生活に追われる多くの人間は家族を捨ててまでの本格的な修行ができないため、ブッダ(=悟りに達した者)になる決意をした修行者を意味する「菩薩」を崇拝するようになったからです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なお、大乗とは「あらゆる人々の大きな乗りもの」という意味であり、釈迦の教えに従って出家し悟りをひらくことは、自分一人のためではなく、広く人々を救済するためのものであるという考えに基づいています。
大乗仏教の発展によって、旧来の仏教は自身のみの悟りを目的とした利己的なものと批判され、「小乗(しょうじょう)」と呼ばれるようになりました。
しかし「小乗」は大乗側から与えられた蔑称(べっしょう)であるため、今日では多くの部派に分かれたという意味の「部派仏教」と称されています。部派仏教のうち、最も厳格に戒律(かいりつ)を守り、伝統を継承しようとした保守派は「上座部(じょうざぶ)」と呼ばれており、いわゆる「上座部仏教」のことです。
上座部仏教はインドのマウリヤ朝のアショーカ王に保護された後、前3世紀にスリランカに伝えられて発展し、さらに東南アジア各地に伝えられ、現在もタイなどで行われています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ヘレニズム文化の影響を受けた初期の仏像はギリシア彫刻の技法によって造られており、同時代のローマ帝国で盛んにつくられた神々の像とも似ているという大きな特徴があります。
その後、イラン系のクシャーナ朝の保護を受けた大乗仏教は、ガンダーラを中心とする仏教美術とともに各地に伝えられ、中央アジアからチャイナ、さらには朝鮮半島を通じて我が国にまで影響を及ぼすようになりました。
なお、我が国で仏教が伝えられたのは、「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)」などによる538年説と、「日本書紀」による552年説とがあります。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
やがて蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)との間で587年に本格的な戦闘が行われ、蘇我氏が勝利したことで我が国に仏教が定着し、その後に聖徳太子(しょうとくたいし)によって篤(あつ)く信仰されるようになりました。
奈良時代に入ると、謀殺(ぼうさつ)された長屋王(ながやおう)のタタリを鎮(しず)め、政情不安をなくすためには仏教への信仰を深めることが大切と考えられた聖武(しょうむ)天皇によって、仏教に国家を守る力があるとする鎮護国家(ちんごこっか)の思想のもとに、仏教の興隆が政策の最重要課題とされました。
そして天平(てんぴょう)15(743)年には、大仏の造立(ぞうりゅう)によって我が国の平安を築こうとする壮大な計画のもとに、大仏造立の詔(みことのり、天皇によるお言葉やその文書のこと)が出されました。
8世紀当時の最新の技術によって造られた大仏は、約10年の歳月を費やして天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4(752)年にようやく完成し、東大寺(とうだいじ)で僧侶(そうりょ)1万人が参列した盛大な開眼供養(かいげんくよう)が行われました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
鑑真は弟子たちに「誰か日本に渡る人はいないか」と問いかけましたが、誰も手を挙げようとしないので、「それなら私自身が行く」と自らの渡日(とにち)を決意しました。
しかし、鑑真のような高僧が日本へ渡るということは、大変な苦難を伴いました。弟子たちの密告などによってことごとく失敗し、ようやく船に乗ったと思ったら、嵐に遭(あ)って難破してしまいました。
5度にわたる渡日に失敗するうちに、鑑真の両目は失明状態になったと伝えられています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)の機転で、密かに別の船に乗ることができた鑑真は、清河らを乗せた船が難破した一方で、無事に我が国にたどり着き、ついに悲願の渡日を果たしました。
鑑真は我が国に戒律の他に彫刻や薬草の知識を伝え、唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建して我が国に留まり、天平宝字(てんぴょうほうじ)7(763)年に76歳の生涯を終えました。ちなみに、彼の死後に造られた彫像(ちょうぞう)は、我が国最初の肖像彫刻(しょうぞうちょうこく)とされています。
余談ですが、大伴古麻呂は唐における753年の新年の儀式の際に、我が国の席次が新羅(しらぎ)より下になっていることに対して猛烈に抗議し、結果的に席次を入れ替えさせたというエピソードが残っています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なお、桓武天皇は遷都の際に南都、すなわち平城京付近の寺院の移転を許可されませんでしたが、これは「旧来の仏教勢力の抑制」のほか、長屋王などのタタリ封じで大仏を建立したにもかかわらず、道鏡への譲位問題などが起きたことで、旧来の仏教が「怨霊(おんりょう)封じ」に対処できなかったからだという説もあります。
しかし、平安京に遷都はしたものの、新たな仏教の寺院は建立できたとしても、仏教のさらなる発展や平安京以後の国家の安定をどうするかという大きな課題がありました。
そこで、桓武天皇は平安京の「鬼門(きもん、東北の方角をさし、不吉であるとされる)」に位置する比叡山に寺院を建立していた一人の僧に白羽の矢を立て、彼の求めに応じて唐に派遣させることにしました。
その僧こそが同時すでに名声を得ていた最澄であり、また彼と同時期に遣唐使として海を渡ったのが、当時はほぼ無名の存在であった空海だったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
帰国した翌年の延暦25(806)年、最澄の教えは天台法華宗(てんだいほっけしゅう)として国家に認められましたが、彼が本格的に目指していたのは独自の大乗戒壇(だいじょうかいだん)の設置でした。
先述のとおり、奈良時代に鑑真が来日して我が国に戒律を伝えて以来、当時の僧は戒壇と呼ばれた場所で戒律を授けられることが必須の条件とされていました。当初は奈良の東大寺に戒壇がありましたが、最澄は、奈良仏教からの独立を確固たるものとするために、独自の戒壇を求めていたのです。
最澄の動きは南都の宗派からの激しい攻撃を受けましたが、最澄は「顕戒論(けんかいろん)」を著して反論しました。弘仁13(822)年に最澄は56歳で死去しましたが、その直後に大乗戒壇の設置が認められました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
その後、貞観8(866)年には清和(せいわ)天皇より「伝教大師」の諡号(しごう、貴人や高徳の人に死後贈る名前のこと)を賜(たまわ)りました。また、最澄の教えは弟子の円仁(えんにん)や円珍(えんちん)によって広められました。
しかし、二人は後に教理上の争いから分裂し、円珍派は園城寺(おんじょうじ、別名を三井寺=みいでら)に下って寺門派(じもんは)と呼ばれ、延暦寺に残って山門派(さんもんは)と呼ばれた円仁派と対立しました。
ところで、最澄は唐において1年足らずで様々な教えを受けましたが、それゆえに密教に対する知識が不十分であることを自覚していました。そこで、同時期に唐で密教を学んだ空海にしばしば密教経典の借覧(しゃくらん)を申し込みましたが、当初は快く応じていた空海も、やがては拒絶するようになるのです。
なぜ空海は最澄の申し出を拒絶したのでしょうか。その謎を探るためにも、空海の生涯を簡潔に振り返ってみましょう。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
地方官たる郡司(ぐんじ)を父に持った真魚は、幼い頃から聡明さを称えられ、15歳の頃には京都(=長岡京)に出て、叔父で儒学者の阿刀大足(あとのおおたり)から学問の手ほどきを受けると、18歳で当時の官僚育成機関であった「大学」に入りました。
しかし、大学での勉強に飽(あ)き足らなかった真魚は、やがて私度僧(しどそう)として山林での修行に身を投じ、その頃に「空海」と名乗るようになったと伝えられています。
そして延暦23(804)年、31歳になった空海は東大寺戒壇院で授戒を受け、派遣期間20年の私費留学僧として遣唐使船に乗り込みました。先述のとおり、彼と同時期に別の船に乗っていたのが最澄です。
造船や航海技術が未熟であった当時は、遣唐使による航海は命がけであり、4艘(そう)あった船のうち、無事に中国大陸にたどり着いたのは、最澄と空海がそれぞれ乗っていた船のみでした。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
そして805年旧暦5月、当時の密教の第一人者で青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)を訪ねました。空海を一目見た恵果は「あなたが来ることは知っていた。いつ来るかと待っていたものだ」と喜んで彼を迎え、すぐさま教義の伝授に取り掛かりました。
驚くべきスピードで密教を習得した空海は、わずか3か月後の同年旧暦8月に密教の最高位となる「阿闍梨位(あじゃりい)」を授かりましたが、その後、程なくして恵果は病に倒れました。
同年旧暦12月25日(806年1月12日)に60歳の生涯を閉じた恵果は、死の直前に空海を呼ぶと、「一刻も早く日本に帰り、密教を広めなさい。それが私への報恩になる」と諭(さと)しました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、帰りの船はまたしても暴風雨に遭い、あわや難破かと思われたとき、空海は唐で彫った不動明王像(ふどうみょうおうぞう)を帆先に立て、帰国できるように祈祷(きとう)を行いました。すると、不動明王は右手に持った剣で押し寄せる波を次々と切り裂き、大同(だいどう)元(806)年旧暦10月に、空海らは無事に大宰府(だざいふ)に帰着しました。
空海が持ち帰ったとされる「波切(なみきり)不動明王」は、現在も高野山南院の本尊として祀(まつ)られていますが、このエピソードにちなんで、同じ名を持つ不動明王が全国で海難除けあるいは航海安全の神様としてお祀りされるようになりました。
なお、高知県土佐市の青龍寺は、空海が師である恵果を偲(しの)んで、唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したものですが、ここの本尊も波切不動明王であり、またモンゴル人初の横綱である朝青龍(あさしょうりゅう)の四股名(しこな)の由来にもなっています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
先述のとおり、桓武天皇が延暦13(794)年に都を平安京に遷(うつ)された頃、桓武天皇の子で皇太子の安殿(あて)親王は身体が弱く、病気がちでした。
そんな親王の后(きさき)としてある女性が選ばれた際に、その女性が幼かったため、彼女の母親も後見役として一緒に迎えられましたが、ここでとんでもないことが起きてしまいました。
何と、后の母親が、自身に夫がいるにもかかわらず、親王と「男女の関係」になってしまったのです。その母親こそが藤原薬子(ふじわらのくすこ)であり、安殿親王と薬子との不倫(ふりん)ともいえる関係に激怒された桓武天皇によって、やがて薬子は朝廷から追放されてしまいました。
しかし、桓武天皇が崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)され、安殿親王が平城(へいぜい)天皇として即位されると、薬子は再び召(め)し出されました。二人の関係が深くなることで、薬子の兄にあたる藤原仲成(ふじわらのなかなり)も出世を重ね、朝廷では仲成・薬子兄妹による政治の専横が続きました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
兄の不穏(ふおん)な動きに対して、嵯峨天皇は大同5(810)年旧暦3月に天皇の命令を速やかに伝えるための秘書官としての役割を持つ蔵人所(くろうどどころ)を設置され、側近の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らが、その長官に当たる蔵人頭(くろうどのとう)に任命されました。
大同5(810)年旧暦9月、平城上皇はついに平城京への再遷都(さいせんと)を宣言され、朝廷に反旗を翻(ひるがえ)されましたが、事前に動きを察知された嵯峨天皇によって阻止されました。敗れた上皇が出家されると、仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自殺しました。
この事件を「薬子の変」、もしくは「平城太上天皇(だいじょうてんのう、もしくは「だじょうてんのう」)の変」といいます。なお、太上天皇とは、退位された天皇の尊号である「上皇」の正式名称です。
薬子の変に際し、空海は自ら嵯峨天皇側に売り込んで、鎮護国家のための大祈祷を行いました。その功を賞されて、以後の空海は嵯峨天皇の庇護(ひご)のもとで急速にその存在感を発揮し始めるのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
最澄の申し出に対し、当初は快く応じていた空海でしたが、弘仁4(813)年に「理趣釈経(りしゅしゃくきょう)」の借覧を申し込まれた際、遂にこれを拒絶しました。
なぜなら、理趣釈経は「理趣経(りしゅきょう)」の注釈書であり、人間の欲望を肯定(こうてい)する教えが書かれていたからです。これをもし文字のみで読み違えれば、危険な方向に進みかねないことを空海は恐れたのでした。
そもそも、本当に密教を身に付けたいのであれば、空海の弟子になって何年も修行を重ねるのが本筋というものでした。しかし、比叡山を抱えて多忙の身であった最澄にはそれができず、やがて二人の仲は決裂してしまったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
程なくして下賜が認められると、空海は早速弟子たちを現地調査に差し向け、弘仁9(818)年には空海自身が高野山に登り、翌春には密教の秘法を7日間行って伽藍(がらん、寺院を構成する主要な建造物群のこと)の配置を決めました。
空海が独自の理論によって構想した根本道場たる「壇上(だんじょう)伽藍」は、高野山の自然の中に大日如来(だいにちにょらい)の宇宙観を創出するものであり、空海の没後、数十年を経て完成しました。
なお、高野山はその後も日本仏教の聖地の一つとされ、平成16(2004)年にはユネスコから世界遺産に登録されました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
東寺は平安京遷都に際して、西寺(さいじ)とともに鎮護国家の中心寺院として創建された由緒ある寺であり、これを空海に託すということは、嵯峨天皇が空海を仏教界の第一人者として認めておられたことを意味しているといえます。
高野山とは別に、都にも真言密教の根本道場を建てることを目指していた空海は、下賜された東寺を「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」と号し、立体曼荼羅(りったいまんだら)をつくって国家鎮護の道場としました。
真言宗が公文書に登場するようになるのはこれ以降のことであり、その意味においても、宗教としての真言宗が確立したのはこの頃とされています。なお、東寺も平成6(1994)年に「古都京都の文化財」の構成資産として世界遺産に登録されました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
綜芸種智院は空海の没後10年を経て廃絶されましたが、その伝統は、現在の種智院大学に承継されています。
また、弘仁12(821)年には、讃岐国の満濃池(まんのういけ)の改修を指揮して、アーチ型の堤防など当時の最新工法を駆使し、わずか数か月で工事を成功に導きました。
香川県仲多度郡(なかたどぐん)まんのう町にある満濃池は、現在も日本最大の灌漑(かんがい)用のため池として存続しており、また空海が採用したアーチ型の堤防は、現代でもダムを造る際の技術として応用されています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
実は、このうち「弘法にも筆の誤り」の由来が、平安時代末期に成立したとされる「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」に収められているのを皆さんはご存知でしょうか。
空海が平安京の応天門(おうてんもん)の額を書いた際に、「応」の一番上の点の字を書き忘れたまま門に掲(かか)げられてしまいました。しかし、間違いに気づいた空海は、慌(あわ)てることなく筆を額に投げつけて点を打ったそうです。
ちなみに「弘法にも筆の誤り」の本来の意味は、空海のような書道の名人は、書き直し方も常人とは違うものだという称賛も込められているそうです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。