その一方で、明治天皇の他の皇子あるいは皇女が相次いで幼くして薨去(こうきょ、親王などがお亡くなりになること)されたこともあり、明治22(1889)年11月に嘉仁親王が皇太子になられました。
しかし、嘉仁親王のご病弱は変わらず、明治27(1894)年に学習院を中途退学されると、以後は有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王を教育係に任じて、数人の教師によって個人指導を受けられました。
その後、明治30(1897)年に満18歳で貴族院議員となられると、明治33(1900)年には貴族院議員で明治天皇の相談役を勤めていた九条道孝(くじょうみちたか)の四女である節子(さだこ)とご成婚されました。後の貞明皇后(ていめいこうごう)です。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
皇室における側室制度が法的に廃止されたのは昭和天皇の時代でしたが、側室制度自体を事実上廃止されたのは大正天皇でいらっしゃったと言えそうです。そして、貞明皇后や4人の親王様とのご家庭を大切にされた大正天皇のもとでお健やかに成長された若き日の昭和天皇にとって、ご自身がご家庭をお持ちになられた際に大きな影響をお受けになられたのも間違いないことでしょう。
ご家庭に恵まれた嘉仁親王はその後に急速に健康を回復され、有栖川宮威仁親王とともに、精力的に地方巡啓(じゅんけい、皇太子などが外出されること)を重ねられました。嘉仁親王は普段から思われたことをすぐに口にされ、行動なさるという気さくなご性格であられたため、巡啓先の関係者らを慌てさせることもありましたが、皇太子の時代から国民の人気は高いものがありました。
ただし、皇太子の度重なる大胆なご行動を快く思われなかった父君の明治天皇は、先述のとおり皇孫にあたられる裕仁親王に対してご幼少の頃から乃木希典将軍を教育係に任じるなど、英才教育を強化されておられます。
なお、嘉仁親王は明治40(1907)年に皇太子として初めて大韓帝国(当時)の地を踏まれた際に韓国皇太子との親交を深められ、お自らの意思でハングルを勉強されたとのことです。ただ、その3年後の明治43(1910)年には日韓併合が実現し、朝鮮半島は日本の支配を受けることになりました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ご即位後は全く自由が許されない、極度に多忙な日々を送られることになられた大正天皇は、山県有朋(やまがたありとも)ら元老との折り合いも悪く、ストレスが増大されたことから健康状態が再び悪化されました。
ご病状の悪化に伴い、大正10(1921)年には皇太子の裕仁親王が摂政となられると、これ以降大正天皇が政務に復帰されることはありませんでした。しかし、大正天皇は日常的に漢詩を詠まれるほどのご聡明であり、知性あふれる天皇であったと伝えられています。
なお、大正天皇が帝国議会の開院式で勅語を読み上げられた後に、お持ちの証書をクルクルと丸められ、まるで遠眼鏡(とおめがね)のようにして議場を見回したとされる「遠眼鏡事件」が知られていますが、これを事実とする一次史料はなく、信憑性(しんぴょうせい)は低いとされています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
血のにじむような苦難を乗り越えて短期間で近代化を成し遂げ、我が国を世界の一等国にまで成長させた明治時代と、世界を相手に大東亜戦争(=太平洋戦争)を戦い抜き、敗戦後も決して挫(くじ)けることなく奇跡の復興を実現した昭和時代に挟まれて、15年にも満たない大正時代はどうしても影が薄く、それに伴って大正天皇のご存在も、日本国民の記憶あるいは日本史の記録にもあまり残されていません。
しかし、明治天皇の皇子としてただひとり成人されて皇位を継承し、昭和天皇をはじめ4人の男子に恵まれた大正天皇のご存在こそが、皇統ひいては我が国の国体(=天皇を中心とする我が国の体制のこと)の安定的な継承を導いたことは間違いありません。
気さくで子煩悩、かつ知性あふれる大正天皇の真実のお姿が、もっと多くの日本国民に知られることを願ってやみません。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。