祐宮さまは御年9歳の万延(まんえん)元(1860)年旧暦9月に父君の孝明天皇から親王宣下(しんのうせんげ)をお受けになり、睦仁(むつひと)という諱(いみな、天皇など身分の高い人の実名のこと)を賜りましたが、当時はアメリカのペリーの浦賀への来航がきっかけとなった開国をめぐって、国内が混乱を極めた真っ最中でもありました。
そんな中、孝明天皇はご自身を犠牲になさるお覚悟で、我が国を守るためにひたすら祈られるとともに多くの御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)を詠(よ)まれ、睦仁親王はそんな父君の背中をご覧になられて成長されましたが、親王と父君との日々は長くは続きませんでした。
慶応(けいおう)2年旧暦12月(1867年1月)に、孝明天皇が天然痘(てんねんとう)によって崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されたのです。深いお悲しみの中、睦仁親王は翌慶応3(1867)年旧暦1月に御年16歳で践祚(せんそ、皇位の継承のこと)され、122代天皇となられました。
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しかし、その前途は多難であり、我が国が並みいる欧米列強による植民地化を防ぐため、どのように独立を守るかという大きな命題を突き付けられていました。そんな中、明治天皇は我が国の元首として堂々と君臨され、海外においては近代国家の象徴として、国内においては慈愛(じあい)に満ちた君主として、我が国を支えてこられたのです。
明治政府は内政あるいは外交の諸問題を、時間をかけながら粘り強く一つひとつ解決していきましたが、その中でも代表的な事業に「大日本帝国憲法(=明治憲法)の制定」があります。
明治22(1889)年2月11日に我が国で大日本帝国憲法が発布(はっぷ)された瞬間に、我が国はアジア初の近代的な立憲国家となったのですが、その過程においては様々な歴史の流れがありました。
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こうした事実から「大日本帝国憲法は外国の憲法の引き写しだ」という印象が歴史教育などにおいて強くなっているようですが、実際に伊藤がベルリン大学教授のグナイストや、ウィーン大学のシュタインなどから受けた教えは「日本の憲法は自国の歴史や伝統に立脚したものでなければならない」というものでした。
帰国した伊藤は、井上毅(いのうえこわし)が作成した憲法草案をもとに検討作業を行いましたが、草案の第1条には「日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇ノ治(しら)ス所(ところ)ナリ」と書かれていました。
「治ス」とは「お知りになる=公平に治める」という意味であり、天皇による統治行為を示した大和言葉(やまとことば)でした。条文そのものは最終的に「統治ス」に変更されましたが、大日本帝国憲法が決して外国の憲法の模倣(もほう)ではなく、第1条から我が国の国体(こくたい、天皇を中心とする我が国の体制のこと)を明確に意識していたことを示したエピソードであるといえるでしょう。
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伊藤らが完成させた憲法草案は、明治21(1888)年に創設された天皇の最高諮問機関(しもんきかん、諮問は「意見を求める」という意味)である枢密院(すうみついん)で、天皇ご臨席のもとで審議されましたが、実は明治天皇は、それ以前から憲法に関する本格的な講義を受けておられました。
先述のとおり、伊藤はシュタイン教授から憲法学について学んでいましたが、その内容に感激した伊藤は、シュタインの憲法学を明治天皇にも是非学んでいただきたいと考え、シュタインを我が国に招こうとしましたが、高齢を理由に固辞されてしまいました。
そこで伊藤は、明治天皇の侍従(じじゅう、天皇のそばに仕える人のこと)でご学友でもあった藤波言忠(ふじなみことただ)を、天皇の名代(みょうだい、ある人の代わりをつとめること)としてウィーンに派遣し、シュタインから直接憲法学の講義を受けさせ、その内容を明治天皇にご進講申し上げることにしました。
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侍従であるとともにご学友だった藤波に対して心を許された明治天皇は、講義を熱心にお聞きになり、お分かりにならなかったところはご下問(かもん)されるなど、シュタインの憲法学を懸命にご勉強なされました。
そして明治21(1888)年4月、憲法について徹底的に勉学を重ねられた明治天皇のもとに、憲法の草案が捧呈(ほうてい、敬意を示して手でささげ持ち差し上げること)され、枢密院での審議にかけられることになりましたが、その開院式の行事をめぐって大きな事件が起きてしまいました。
開院式を前日に控えた5月7日、枢密院の議長であった伊藤博文が、宮内(くない)大臣を通じて開院式の勅語案(ちょくごあん、勅語とは天皇によるお言葉のこと)を差し上げたところ、明治天皇は激怒なさり、次のように仰られました。
「勅語の下賜(かし、天皇が臣下に物を与えること)は極めて重大であるのに、博文(=伊藤)はなぜ自分でこれを奏上(そうじょう、天皇に申し上げること)しないのか。前日になって突然奏上して、朕(ちん)にそのまま朗読させるとは何事か。博文がかくも不誠実な態度をとるのであれば、朕は明日の開院式には臨みたくない。勅語の案文は博文に突き返しなさい」。
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天皇の憲法への強いご関心は、それだけではありませんでした。枢密院での審議は明治21(1888)年5月から翌明治22(1889)年1月までの8か月間に49回行われましたが、明治天皇はその審議にほとんど出席されました。審議において天皇は一言も発せられませんでしたが、それはご自身のご発言で審議における自由な言論が妨げられることを好まれなかったため、敢えて一切の発言を控えられたからでした。
先述したように、明治天皇は事前に憲法学を究められたことで、審議の内容を詳しく理解されており、また終了後には毎回のように議長の伊藤や草案をつくった井上毅をお呼びになって、疑義(ぎぎ、疑問に思われる点のこと)のある内容を確認されたそうです。
枢密院における憲法審議の中心的ご存在として毎回出席され、その内容をすべて理解されておられた天皇の御前でしたから、伊藤とはじめとする枢密院の顧問官(こもんかん)らは常に緊張感を持って審議せざるを得ず、それらが完成した憲法における権威や正当性を自然と高める結果につながったことは言うまでもありません。
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そこまでの重責を感じておられたからこそ、明治天皇は枢密院での審議にほとんど出席を続けられました。長い審議の間も、天皇は肘掛け椅子にじっとお座りになり、背中を椅子の背に寄り掛からせることも、姿勢を崩されることもありませんでした。
さらには審議中のある日に、天皇の第四皇子の昭宮猷仁親王(あきのみやみちひとしんのう)が薨去(こうきょ、親王などがお亡くなりになること)されたという悲報が届いた際にも、伊藤による審議中止の進言に耳を貸されず、何事もなかったかのように審議がそのまま続行されました。
大日本帝国憲法の制定は、単なる「外国の真似をしてつくられた憲法」ではなく、我が国の伝統や文化に根差(ねざ)すとともに明治天皇による重大なお覚悟によって「君主が国民に下(くだ)された」欽定憲法という国家の一大事業だったのであり、それは明治天皇ご自身による後年の御製からも明らかでした。
「さだめたる 国のおきては いにしへの 聖(ひじり)のきみの み声なりけり」(明治43年=1910年)
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もちろんそれは正解ではありません。大日本帝国憲法によって示された立憲君主制は、皇室をいただく我が国の伝統的な政治文化と、西洋を起源とする国家の基本法である憲法を中心とする政治体制とを調和させただけなのです。
第72回歴史講座でも述べたとおり、神話の時代をさかのぼれば2680年も前から我が国にご存在され続けておられる歴代の天皇の皆様におかれましては、古代にこそ政治の実権をお持ちになられた方もおられましたが、時代が下るにつれ、幕府の誕生などによって天皇お自らが権力を行使されることはなくなり、時の権力者をして天皇の権威によって政治を行わせしめる手法が定着しました。
すなわち、我が国では「天皇は政治的責任を持たない」という形式が伝統であったところへ、西洋の政治体制の根幹をなす基本法として成文化されたのが大日本帝国憲法であり、これは我が国が得意とする「他の文化を我が国に根差した伝統と融合させ、独自の新たな文化をつくりだす」という流れに沿ったものでした。
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折しも憲法制定当時は、急激な近代化によって我が国の歴史や伝統が軽視される傾向にあり、そのことを深く憂慮された明治天皇は、大日本帝国憲法と並んで日本人の精神の拠(よ)り所となった「教育勅語」を発表されるご決意をなさったのです。
我が国では幕末より尊王攘夷(じょうい)運動が活性化し続けましたが、このうち攘夷運動は「外国人を撃ち払う」、すなわち異国による我が国侵略を阻止することでしたが、やがて当時の自国の実力では欧米列強に到底太刀打ちできないことを悟った我が国は、国を挙げて欧米に学び、近代化することによって独立を守るという「開国攘夷」に踏み切りました。
しかし、あまりに急速に近代化したことによって、我が国では西洋文化を重視する一方で、従来の伝統や文化を顧みない風潮が見られるようになり、当時の大きな問題となっていました。また、この傾向は教育界においても同様であり、特に道徳教育の基礎を何に置くかという根本的な問題について一致した見解がなかったため、我が国伝統の倫理や道徳に関する教育が軽視される傾向にありました。
これらの事態を重く受け止められた明治天皇は、井上毅と元田永孚(もとだながさね)に起草させ、天皇ご自身も熱心にお考えを示されたうえで、明治23(1890)年10月30日に「教育ニ関スル勅語」(通称:教育勅語)を発せられました。
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なお、教育勅語は明治天皇が親しく国民に発せられたお言葉として御名(ぎょめい、公文書における天皇ご自身による署名のこと)だけが記され、国務大臣の署名は副署されませんでした。
勅語は当時の国民世論から大いに歓迎され、小学校修身科(しゅうしんか)の教科書に掲載されたほか、学校行事において校長先生が奉読(ほうどく、つつしんで読むこと)するなど、多くの児童や生徒の日常の中にごく当たり前のものとして存在したほか、英・独・仏・中の各国語に翻訳され、海外にも広く紹介されました。
ところで、昭和に入ってから勅語の文章中の「天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)」や「億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ」などの部分が、軍部を中心に特に強調されるようになりましたが、これは勅語本来の精神とは全く別の問題であると解釈できます。
なぜなら、勅語が発せられた明治23(1890)年といえば、国民の間でもようやく「幕府や藩への忠誠心」から「国家への忠誠心」へと明らかに変化した時期であり、それを踏まえて「これからは国の元首たる天皇の下で国家の繁栄のために力を尽くしなさい」という意味が、勅語において伝統的で古風な手法で述べられているからです。
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ただし、排除・失効決議がなされたからといって、教育勅語そのものが「廃止」されたわけではありません。そもそも天皇陛下のお言葉である「勅語」を廃止できるのは陛下ご自身のみであり、それを国民の立場で勝手に廃止する行為は「不敬」以外の何物でもないからです。
平成29(2017)年3月14日に、松野博一(まつのひろかず)文部科学大臣(当時)が、記者会見において「憲法や教育基本法に反しないような配慮があって、教材として教育勅語を用いることは、そのことをもって問題とはしない」と明言しているように、教育勅語そのものは、国会の決議とは無関係に今もなお有効なのです。
占領下という異常な事態において、GHQによって無理やり「排除・失効」させられたという現実を考えれば、独立を回復してから65年以上も経つ現在において、国会で排除・失効決議を「無効化」して教育勅語を「復活」させ、勅語が再び私たちの日常生活に欠かせない存在となることに何の問題があるというのでしょうか。
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翌々日の7月20日には陛下のご不例(ふれい、この場合は天皇のご病気のこと)が国民に公表され、日本国内は憂色(ゆうしょく)に包まれました。多くの国民が陛下のご平癒(へいゆ)を願って続々と皇居に集まったほか、全国の神社や仏閣でもご病気平癒の祈願が行われました。
しかし、明治天皇のご病状は悪化する一方で、ご持病であった糖尿病に加えて、26日には尿毒症(にょうどくしょう)を併発され、容易ならぬご重態となられました。
多くの国民の祈りもむなしく、明治天皇は同年7月30日午前0時43分に61歳(満年齢59歳)で崩御されました。陛下の崩御を受けて、皇太子嘉仁(よしひと)親王が直ちに践祚(せんそ、皇位の継承のこと)されて123代天皇(=大正天皇)となられ、元号も「大正」に改まりました。
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当時の日本国民にとって、明治天皇の大喪の日であった9月13日は大いなる悲しみの一日でしたが、そのうえもう一つの大きなショックを受けることになってしまいました。なぜなら、この日に明治天皇のご信任が厚かった陸軍大将の乃木希典(のぎまれすけ)将軍が、陛下の後を追うように夫妻ともに自刃したからです。
乃木将軍は日露戦争での旅順(りょじゅん)攻略戦で多くの部下を死に追いやったことを深く自責しており、明治天皇への戦後の報告の後に自刃しようとしましたが、それを察せられた陛下から「今はその時ではない。どうしてもというのであれば、朕(ちん)が世を去りたる後にせよ」とのお言葉を賜りました。
その後の乃木将軍は、陛下より与えられた学習院長としての職責と、皇孫(こうそん)殿下(後の昭和天皇)のご教育という重責を果たし、明治天皇の崩御に接して、潔く殉死の道を選んだのです。
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だからこそ、明治天皇の崩御は「明治」という一つの時代の終焉(しゅうえん)を国民に強く印象づけることとなりました。
また、陛下の崩御直後から、世界の新聞では明治天皇の治世を絶賛する記事が見られるようになり、英米などを中心に「偉人中の偉人であった」「世界の最大君主と同列に立つことを得たりし聖帝(せいてい)、いやそれ以上であった」と明治天皇を称えています。
明治天皇は我が国のみならず、世界史的スケールにおいて、どの君主にも勝る稀代(きだい)の英雄として、世界中から仰(あお)がれていたのです。
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やがて両陛下とゆかりの深かった東京・代々木の地に神宮が建設されることが決定し、一から人工林を造営するなど、多くの国民が自発的に労働奉仕を重ねた大事業が行われた後、大正9(1920)年に両陛下はご祭神(さいじん)としてご鎮座(ちんざ)されました。現在の明治神宮です。なお、今年(令和2年=2020年)は、明治神宮創建から100周年となります。
また大正12(1923)年には乃木将軍が自刃した邸宅の隣地に乃木神社が、これも国民の熱意によって創建され、さらに昭和2(1927)年には、同じく国民の請願によって明治天皇のお誕生日である11月3日が「明治節(めいじせつ)」として祝祭日になりました。
我が国に大きな興隆と繁栄とをもたらした明治の精神は後世の人々に受け継がれ、今もなお私たちの前に光り輝いているのです。
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その一方で、明治天皇の他の皇子あるいは皇女が相次いで幼くして薨去(こうきょ、親王などがお亡くなりになること)されたこともあり、明治22(1889)年11月に嘉仁親王が皇太子になられました。
しかし、嘉仁親王のご病弱は変わらず、明治27(1894)年に学習院を中途退学されると、以後は有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王を教育係に任じて、数人の教師によって個人指導を受けられました。
その後、明治30(1897)年に満18歳で貴族院議員となられると、明治33(1900)年には貴族院議員で明治天皇の相談役を勤めていた九条道孝(くじょうみちたか)の四女である節子(さだこ)とご成婚されました。後の貞明皇后(ていめいこうごう)です。
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皇室における側室制度が法的に廃止されたのは昭和天皇の時代でしたが、側室制度自体を事実上廃止されたのは大正天皇でいらっしゃったと言えそうです。そして、貞明皇后や4人の親王様とのご家庭を大切にされた大正天皇のもとでお健やかに成長された若き日の昭和天皇にとって、ご自身がご家庭をお持ちになられた際に大きな影響をお受けになられたのも間違いないことでしょう。
ご家庭に恵まれた嘉仁親王はその後に急速に健康を回復され、有栖川宮威仁親王とともに、精力的に地方巡啓(じゅんけい、皇太子などが外出されること)を重ねられました。嘉仁親王は普段から思われたことをすぐに口にされ、行動なさるという気さくなご性格であられたため、巡啓先の関係者らを慌てさせることもありましたが、皇太子の時代から国民の人気は高いものがありました。
ただし、皇太子の度重なる大胆なご行動を快く思われなかった父君の明治天皇は、先述のとおり皇孫にあたられる裕仁親王に対してご幼少の頃から乃木希典将軍を教育係に任じるなど、英才教育を強化されておられます。
なお、嘉仁親王は明治40(1907)年に皇太子として初めて大韓帝国(当時)の地を踏まれた際に韓国皇太子との親交を深められ、お自らの意思でハングルを勉強されたとのことです。ただ、その3年後の明治43(1910)年には日韓併合が実現し、朝鮮半島は日本の支配を受けることになりました。
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ご即位後は全く自由が許されない、極度に多忙な日々を送られることになられた大正天皇は、山県有朋(やまがたありとも)ら元老との折り合いも悪く、ストレスが増大されたことから健康状態が再び悪化されました。
ご病状の悪化に伴い、大正10(1921)年には皇太子の裕仁親王が摂政となられると、これ以降大正天皇が政務に復帰されることはありませんでした。しかし、大正天皇は日常的に漢詩を詠まれるほどのご聡明であり、知性あふれる天皇であったと伝えられています。
なお、大正天皇が帝国議会の開院式で勅語を読み上げられた後に、お持ちの証書をクルクルと丸められ、まるで遠眼鏡(とおめがね)のようにして議場を見回したとされる「遠眼鏡事件」が知られていますが、これを事実とする一次史料はなく、信憑性(しんぴょうせい)は低いとされています。
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血のにじむような苦難を乗り越えて短期間で近代化を成し遂げ、我が国を世界の一等国にまで成長させた明治時代と、世界を相手に大東亜戦争(=太平洋戦争)を戦い抜き、敗戦後も決して挫(くじ)けることなく奇跡の復興を実現した昭和時代に挟まれて、15年にも満たない大正時代はどうしても影が薄く、それに伴って大正天皇のご存在も、日本国民の記憶あるいは日本史の記録にもあまり残されていません。
しかし、明治天皇の皇子としてただひとり成人されて皇位を継承し、昭和天皇をはじめ4人の男子に恵まれた大正天皇のご存在こそが、皇統ひいては我が国の国体(=天皇を中心とする我が国の体制のこと)の安定的な継承を導いたことは間違いありません。
気さくで子煩悩、かつ知性あふれる大正天皇の真実のお姿が、もっと多くの日本国民に知られることを願ってやみません。
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お七夜(しちや)にあたり、端午(たんご)の節句の日でもあった同年5月5日には、ご称号を迪宮(みちのみや)、御名を裕仁(ひろひと)と命名されました。「ゆたかに広く、おおらかな心で国を治め、人類の幸せのために尽くすことができるように」という願いを込めて、明治天皇がお名付けになったといわれています。
裕仁親王はお健やかに成長され、幼年期の頃から厳格な明治天皇の御前でも決してひるまれることなく、また伊藤博文などの明治の元勲が挨拶(あいさつ)に参上しても、物怖(ものお)じなさらず堂々と応対されたそうです。
明治41(1908)年に裕仁親王が学習院初等科へご入学されると、先述したように陸軍大将の乃木希典将軍が学習院院長として迎えられました。親王当時に乃木院長閣下をお慕(した)いなされた昭和天皇は、後にご自身の人格形成に最も影響があった人物として、乃木将軍の名を挙げておられます。
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同時に元号も「昭和」と改められました。昭和の由来は、チャイナの古典である書経(しょきょう)の「百姓昭明(ひゃくせいしょうめい)・協和萬邦(きょうわばんぽう)」であり、国民の平和と世界の繁栄への願いが込められていました。
昭和の新たな御世(みよ)を迎えた我が国でしたが、世界を取り巻く様々な環境の変化によって、昭和天皇の平和へのお祈りもむなしく、昭和16(1941)年12月に、ついに我が国は諸外国との対決の日々を迎えることになりました。いわゆる「大東亜戦争」の始まりです。
なお、歴史の真実を探究するには、特定の重要な事象に関して、後世の人間が勝手に名称を改めるというようなことをするべきではありません。名は体を表すと言います。「大東亜戦争」という呼び名で戦った戦争の意味は、その名でしか浮かび上がらせることはできません。従いまして、当講座では「大東亜戦争」という呼称で統一します。
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