いわゆる「上からの改革」に失敗した清国内では、白人排斥(はいせき)への動きが次第に強くなり、排外主義団体の義和団(ぎわだん)が「扶清滅洋(ふしんめつよう、清国を助けて西洋を滅ぼすという意味)」を唱えて、1900(明治33)年に国内各地で外国人を襲撃しはじめました。
勢いに乗った義和団は首都の北京に入って各国公使館を包囲しましたが、清国政府は義和団を鎮圧するどころか、義和団に同調して列強各国に宣戦布告するという行動に出ました。
かくして「義和団の乱」(または「義和団事件」)は、単なる国内の反乱から対外的な戦争へと変化しましたが、これら一連の動きに列強各国は大パニックになりました。
なぜなら、このまま放置していれば、清国内に残した自国の公使館員や居留民(きょりゅうみん)らが清国の正規軍によって虐殺(ぎゃくさつ)されるのは目に見えていたからでしたが、だからと言って、遠くヨーロッパなどから援軍を派遣したとしても間に合うはずもありません。
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数多くの列強の中には、日本に対して必ずしも良い感情を持っていない国も存在します。もしここで我が国が独自に動いて北京を制圧できたとしても、「日本は混乱のドサクサに紛(まぎ)れて清国を侵略した」と言い出す国が列強の中から出てくるに違いない、という思いが我が国をためらわせていました。
結局、我が国はヨーロッパ各国の総意に基づくイギリス政府からの正式な申し入れを受けて、初めて重い腰を上げることになったのですが、こうした背景には、白人中心の帝国主義の世の中で有色人種の日本が生き残るためには、それこそ優等生のように節度ある行為を取らなければならない、という当時の日本政府の涙ぐましい努力もあったのです。
出兵を決意した我が国は、アメリカやヨーロッパなど8か国の連合軍の中心となって活躍したほか、救援軍が到着するまでの間に義勇軍として奮戦した柴五郎(しばごろう)の功績などもあって、戦いは連合国軍の勝利に終わり、清国は降伏しました。なお、この戦いは「北清(ほくしん)事変」と呼ばれています。
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さて、北清事変をきっかけとしてロシアがドサクサに紛れて満州全域を完全に占領し、我が国への圧力をますます強めるようになりましたが、その一方で、我が国は国際社会から大いに認められるようになりました。
我が国の評価が高まった背景には、日本軍が事変の際に連合軍の先頭に立って勇敢に戦っただけでなく、北京占領後に他国の軍隊が当然のように略奪(りゃくだつ)や暴行を繰り広げた中で、我が国の軍隊だけが略奪行為を一切行わなかったという事実がありました。加えて、先述のように救援軍が到着するまでの間に日本人が中心となって義勇軍を形成し、孤軍奮闘(こぐんふんとう)のうえ持ちこたえられたという現実も、他国に対する我が国の信頼を高めました。
それまでアジアのちっぽけな有色人種の国に過ぎないと思われていた日本が、抜群の規律の正しさや勇敢さを見せたことは、列強諸国をして「日本は同盟相手として信頼に値(あたい)する」と評価せしめるとともに、やがてロシアとの決戦を覚悟することとなる我が国に「強力な援軍」が出現する流れをもたらしたのです。
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一方、イギリスは「名誉ある孤立(Splendid Isolation)」を唱え、他国と同盟を結ばずに独立独歩の道を歩んできましたが、ロシアによる露骨な南下政策が活発化するようになると、東アジアにおける植民地などの自国の権益をどのようにして守るかということが大きな課題となりました。
世界に冠たる大英(だいえい)帝国といえども、極東に多数の兵士を配置するまでの余裕はありません。やがてイギリス政府内において、東アジアの権益を守るためには利害関係のない国との同盟が必要ではないかという声が高まりました。
そんなイギリスの目に留(と)まった国こそが、我が日本でした。先述した北清事変の際に、我が国が数々の「優等生」的な態度を示したことによって、イギリス政府の日本への信頼度が高まったことが大きな効果をもたらしたのです。
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日英同盟の主な内容は以下のとおりでした。
1.清国における両国の権益や、韓国における日本の特別な政治経済上の利益を承認する
2.日英両国の一方が利益保護のために第三国と開戦した場合、もう一方は中立を守る
3.日英両国の一方が2国以上と開戦した場合、他の同盟国も参戦する
両国の同盟は、イギリスはもちろん、我が国にも大きな効果をもたらしました。なぜなら、我が国が仮にロシアと戦うことになった場合、イギリスが中立を守る以上は、他のヨーロッパ諸国もうかつには手を出せませんし、もしロシアと同盟関係にあるフランスなどが戦いに参加すれば、同盟の規定によって、イギリスをも敵に回して戦わなければならなくなるからです。
なお、イギリスと我が国との同盟は日露戦争の終結後も延長され、大正10(1921)年までおよそ20年間も続いています。
※次回(2月8日)からは第76回歴史講座の内容について更新します。
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