両国の貿易は年々拡大するとともに、朝鮮における日本人の居留民も増加するなど、日朝関係は喜ばしい流れとなりましたが、その一方で、こうした良好な関係を苦々しく思っている、国王の父である大院君(だいいんくん)を中心とする守旧派も存在していました。
やがて1882(明治15)年7月に、漢城(かんじょう、現在のソウル)で守旧派の軍隊が待遇への不満から暴動を起こすと、大院君が混乱に乗じてクーデターを起こしました。
クーデターによって大院君が政治の実権を奪うと、漢城の日本公使館が朝鮮の兵士に襲われ、館員らが殺害されたほか、公使が命からがら脱出しました。これを「壬午事変(じんごじへん、別名を壬午軍乱)」といいます。
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清国が朝鮮に対して我が国への賠償や謝罪に応じるよう勧告したこともあり、日朝両国は明治15(1882)年に「済物浦(さいもっぽ)条約」を結び、我が国への賠償金の支払いや日本公使館守備のために日本兵を置くこと、加えて我が国に謝罪の使者を派遣することなどを朝鮮が認めました。
我が国としては、清国や朝鮮をいたずらに刺激しないためにも、武力に頼らず話し合いで解決しようとしたのですが、この姿勢が「日本は清国と比べて弱腰だ」とみなされたこともあり、この後に再び政治の実権を握った閔氏を含めて、朝鮮国内では清国に頼ろうとする「事大派(じだいは)」の勢力が強くなってしまいました。
ちなみに、壬午事変の際に清国が派遣した軍の代表者は、後に中華民国大総統(ちゅうかみんこくだいそうとう)となった袁世凱(えんせいがい)です。また、開国派を打倒するというよりも、結果として清国のためにクーデターを起こした大院君ですが、事変の後に逮捕され、清国へ連行されてしまいました。
自国のための行為であっても、用が済めば「お払い箱」。大院君に対する冷酷な仕打ちを見れば、当時の清国の朝鮮に対する態度がよく分かりますね。
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朝鮮は謝罪の使者として、金玉均(きんぎょくきん)や朴泳孝(ぼくえいこう)らを我が国に派遣しましたが、そこで彼らが見たのは、自国とは比べものにならないほど近代的に発展した我が国の姿でした。金玉均らは、我が国がおよそ10年前に派遣した岩倉使節団が、欧米列強の発展ぶりに驚いたのと同じ思いを抱いたのです。
「朝鮮も早く近代化しなければならない」。そう強く感じた金玉均らは、福沢諭吉(ふくざわゆきち)から多額の資金援助を受けた後、1884(明治17)年に清国が清仏(しんふつ)戦争に敗れたのを好機と見て、同年12月に独立党(どくりつとう)としてクーデターを起こしました。
しかし、事大党の支援を口実として、清国の袁世凱が再び朝鮮に出兵したためにクーデターは失敗に終わり、金玉均が日本公使館に逃げ込むと、清国の兵士が公使館を襲って焼き討ちし、女性を含む多数の我が国の民間人が殺害されました。これを「甲申(こうしん)事変」といいます。
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翌明治18(1885)年に、伊藤博文(いとうひろぶみ)が全権大使として天津(てんしん)へ渡ると、清国の全権大使である李鴻章(りこうしょう)との間で「天津条約」を結び、日清両国は朝鮮から撤兵するとともに、将来出兵する際にはお互いに通知しあうことを義務づけました。
二つの事変を通じて、我が国は朝鮮を独立させようとしても、清国が宗主国の立場を利用して何度でも干渉してくるということをつくづく思い知らされました。
なお、金玉均や朴泳孝は甲申事変の後に我が国に亡命しましたが、このうち金玉均は明治27(1894)年に上海(シャンハイ)で暗殺されています。また、金玉均に資金を援助した福沢諭吉は、甲申事変が起きた翌明治18(1885)年に「脱亜論(だつあろん)」を発表しています。
ちなみに、同じ明治18(1885)年には、独立党の支援を目的として旧自由党左派の大井憲太郎(おおいけんたろう)らがクーデターを計画しましたが、事前に発覚して大阪で検挙されるという「大阪事件」が起きています。
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朝鮮の国王や閔氏(びんし)一族は、ロシアに軍事的な保護を求めて密かに接近しましたが(これを「露朝(ろちょう)密約事件」といいます)、これらの動きが発覚すると、清国はまたしても袁世凱を実質的な朝鮮総督として派遣し、朝鮮に対する圧迫を強めました。
こうして朝鮮半島は、日本・清国・ロシアの3か国がお互いに勢力争いをする舞台と化してしまったのですが、その背景には、我が国から清国、さらにはロシアへと次々と接近することで、他国からの干渉を逃れようとする朝鮮の姿勢もありました。
そんな中、清国が朝鮮の外交権を奪ったのみならず、朝鮮との貿易を急速に進めた一方で、1889(明治22)年には、朝鮮の地方官が凶作を理由にコメや大豆の対日輸出を禁じた「防穀令(ぼうこくれい)」を出したことで、朝鮮と我が国との関係が悪化しました。この背景には清国の関与があったとされています。
このまま朝鮮が清国の支配下に入ってしまっては、独立はおろか遠からず朝鮮が欧米列強の植民地と化して、我が国が決定的な打撃を受けてしまいかねません。かくして、これまで話し合いで忍耐し続けてきた我が国も、朝鮮国内で「大きな動乱」が起きたのをきっかけとして、ついに清国との全面戦争を決意するようになるのです。
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