全国で「世直し」と呼ばれた一揆(いっき)や打ちこわしが発生したり、伊勢神宮へのお蔭参(かげまい)りが「ええじゃないか」という集団乱舞につながったりしたことがその証拠です。
そんな中、慶応2(1866)年に同盟を結んだ薩摩(さつま)・長州(ちょうしゅう)の両藩は、公家(くげ)の岩倉具視(いわくらともみ)らと結んで武力による討幕を目指していましたが、実は、どれだけ優位に展開していようが、薩長が「いきなり幕府を倒す」ことは不可能でした。
なぜなら、幕府が成立した背景に天皇が深くかかわっておられるからであり、この事実をしっかり理解できなければ、本来は楽しく学べるはずの歴史が、苦痛でしかない「単なる知識の暗記」で終わってしまうのです。
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我が国における征夷大将軍も、本来は東北地方の蝦夷(えみし)を討伐するために設けられた臨時の役職でしたが、チャイナの将軍と同じような権限が与えられたことで、いつしか「朝廷から独立した軍事政権を握るための地位」と拡大解釈され、建久(けんきゅう)3(1192)年に源頼朝が征夷大将軍に任じられたことで、軍事政権たる鎌倉幕府が朝廷から公認されるという扱いとなったのです。
朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、頼朝は政治の実権を朝廷から、すなわち「天皇に委任される」ことになりました。もちろん、この流れは、室町幕府も江戸幕府も同じです。
要するに、江戸幕府は「天皇のお墨付き」をもらっていたも同然であり、いかに武力で勝ろうとも、そんな幕府をいきなり討つことは、天皇に弓を向けるも同然の行為であり、絶対にできなかったのです。
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討幕の密勅が下されたことによって、天皇の信任を得ていたはずの幕府が、自身が知らないうちに「天皇によって倒される」運命となったのです。薩長両藩からすれば、それこそ待ちに待ったお墨付きだったことでしょう。
しかし、討幕を実際に武力で行おうとすれば、江戸をはじめ全国各地が戦場と化すのは避けられず、またその犠牲者も多数にのぼることは容易に想像できることでした。
いかに新政権を樹立するという大義名分があったとはいえ、国内で大きな内乱が起きるということは、事後の混乱と諸外国の介入などによって、我が国が存亡の危機を迎える可能性も十分考えられることだったのです。
また、武力による討幕は、徳川家そのものの滅亡も意味していましたから、曲がりなりにも長年にわたって政治を行ってきた徳川家を滅ぼすことに対しては、やはり大きな抵抗を感じる藩も少なからず存在しており、その中心となったのが土佐藩でした。
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このままでは武力討幕が避けられず、徳川家の存続すら危ういことを察した慶喜は山内の策を受けいれ、討幕の密勅と同じ日の慶応3(1867)年旧暦10月14日に、朝廷に対して「大政奉還(たいせいほうかん)」を申し出ました。
朝廷が慶喜からの申し出を受け、大政奉還を受理したことで、徳川家康以来260年余り続いた江戸幕府がついに終焉(しゅうえん)を迎えることになったのです。
ところで、皆さんはなぜ幕府が「大政奉還」という形式で政権を朝廷に返上したかご存知でしょうか。実は、これに関しても、慶喜が就任していた「征夷大将軍」という地位が大きく関係しているのです。
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だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還(かえ)し奉(たてまつ)る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立するとともに、幕府が存在しなくなったことで、薩長らの「討幕の密勅」がその根拠を失うという流れをも成立させてしまいました。
さらには、徳川家がほぼ無傷で生き残ったことで、来るべき新政権の中心的存在として、そのまま政治の実権を握り続けるという可能性をも秘めるようになったのです。
しかし、そんなことを許しては苦労して討幕運動を続けてきた意味がない、と憤(いきどお)った薩長両藩や公家の岩倉具視らの討幕派は、慶応3年旧暦12月9日(1868年1月3日)に、武力を背景に朝廷内で政変を実行しました。これを「王政復古の大号令」といいます。
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天皇お自らが政治を行われるのであれば、そこに徳川家が入り込む隙間(すきま)は全くありません。しかも、かつて徳川家に大政奉還を許した反省があったからなのか、討幕派は大号令の直後に官職の大改革を実行しました。
すなわち、それまで1,000年以上続いた摂政や関白を廃止し、新たに総裁・議定(ぎじょう)・参与の「三職」を創設したのです。
総裁には有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が就任し、議定には公家の中山忠能(なかやまただやす)や前土佐藩主の山内容堂らが、参与には岩倉具視(のち議定に異動)や、雄藩の代表として薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)、長州藩の木戸孝允(きどたかよし)、土佐藩の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らが任命されました。
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大政奉還によって徳川慶喜は確かに征夷大将軍の地位を自ら返上しましたが、同時に任命されていた内大臣(ないだいじん)の地位はそのままであり、また400万石を超える広大な天領も残っていました。
慶喜の内大臣の地位と天領を没収しなければ、徳川家に巻き返しの可能性を持たせてしまうと判断した新政府は、王政復古の大号令が発せられた旧暦12月9日の夜に、明治天皇ご臨席のもとで「小御所(こごしょ)会議」を開きました。
旧幕府側の前土佐藩主の山内容堂らは、この会議に前将軍の徳川慶喜が出席できないことを抗議しましたが、岩倉具視らが受けいれないなど話し合いは紛糾(ふんきゅう、意見や主張などが対立してもつれること)し、やがて休憩に入りました。
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西郷の発言がやがて山内容堂の耳にまで届くと、土佐藩に傷をつけてまで旧幕府に肩入れすることはないと判断した山内はその後沈黙し、休憩後はほぼ岩倉らの思いどおりに会議は進みました。会議の結果、慶喜は将軍のみならず、内大臣の辞任と領地を一部返上させられることで決着しました。これを「辞官納地(じかんのうち)」といいます。
しかし、長年我が国の政治を引っ張ってきた旧幕府がその後に巻き返しを図り、小御所会議の内容が骨抜きにされ、慶喜の実権が温存されようとしました。
このため、西郷隆盛が最後の手段とばかりに、江戸の商家を薩摩藩という身分を隠さずに片っ端(ぱし)から襲って旧幕府を挑発した結果、薩摩藩江戸屋敷が旧幕府兵によって焼き討ちされたことで、慶喜の名誉が回復する前に「戊辰(ぼしん)戦争」を起こさせることに成功しました。西郷による「なりふり構わぬ策士ぶり」が歴史を大きく動かしたことになりますね。
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いわゆる「錦の御旗(みはた)」のことです。朝廷の軍隊であることを示す錦の御旗を相手に戦う幕府軍は「朝敵」となりますから、その影響は確かに大きかったのですが、慶喜にとって自らが朝敵となることは、たとえ将軍という武家の棟梁(とうりょう)の地位を投げ出してでも、絶対に許されないことだったのです。
なぜ慶喜はそこまで弱気になってしまったのでしょうか。将軍になる前の慶喜は御三卿(ごさんきょう)の一橋家の当主でしたが、実は御三家(ごさんけ)の水戸藩から養子に入っていました。
水戸藩ではいわゆる「水戸学」が発達していましたが、これは江戸幕府が主君に忠誠を誓うという内容がふさわしいということで公式の学問として採用された、先述の「朱子学」からの大きな流れが基本となっています。
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要するに、徳川家でありながら皇室を重視する学問を慶喜自身が幼い頃から身に付けていたことによって、慶喜は将軍家でありながら同時に皇室も尊敬しており、だからこそ自らが朝敵になることが認められなかったのです。
慶喜はそれまで立てこもっていた大坂城から密かに船で江戸へと向かうと、上野の寛永寺(かんえいじ)で自ら謹慎しました。
その後、西郷隆盛と旧幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)との会見を経て慶喜は駿府(すんぷ、現在の静岡)へと移動し、徳川政権は名実ともに幕を下ろしたのでした。
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このうち、江戸の上野では彰義隊(しょうぎたい)が結成され、寛永寺に立てこもって抵抗しました。このため、新政府軍は長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう)が明治元(1868)年旧暦5月15日に総攻撃を加えました。これを「上野戦争」といいます。
戦争当時、彰義隊は約1,000人の兵力を持っており、簡単には決着しないと思われましたが、新政府軍が肥前佐賀藩(ひぜんさがはん)の所有するアームストロング砲などの最新兵器を活用したことで、戦いは1日で終わり、彰義隊は壊滅しました。
鳥羽・伏見の戦いと同様に最新兵器の能力の高さを思い知らされる戦争となりましたが、敗れた彰義隊の残存兵力は東北地方などへ落ちのび、戦いはさらに続くことになりました。
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会津藩は会津若松城に籠城(ろうじょう)して抵抗を続けましたが、先述した肥前佐賀藩のアームストロング砲による激しい砲撃もあり、明治元(1868)年旧暦9月22日に降伏しました。この戦いを「会津戦争」といいます。
会津戦争には、平均年齢が16~17歳の男子で編成され、壮絶な自刃を遂げた白虎隊(びゃっこたい)などの悲劇のエピソードが多く残されていますが、かつては孝明天皇から朝廷への忠節に対するお褒(ほ)めのお言葉を賜(たまわ)った会津藩が、時代が変わったとはいえ、戊辰戦争において新政府軍に「錦の御旗」を向けられ、朝敵として戦わなければならなかったとは、何という運命の巡り合わせでしょうか。
なお、会津戦争を経て、旧幕府軍の残存兵力は仙台から蝦夷地(えぞち、現在の北海道)の箱館(はこだて、現在の函館)へと移動してなお戦いを続けたものの、翌明治2(1869)年には榎本武揚(えのもとたけあき)らが降伏し、鳥羽・伏見の戦いから約1年半にわたって続けられた戊辰戦争は、新政府による国内統一というかたちで終止符を打ちました。
ところで、幕末から戊辰戦争の終結までに多くの尊い生命が犠牲となったことに心を痛められた明治天皇は、その御霊(みたま)を慰めるため、明治2(1869)年に東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)を創建されました。東京招魂社はその後明治12(1879)年に「靖国神社(やすくにじんじゃ)」と改称され、国難に際して祖国に殉じた尊い英霊(えいれい)をお祀(まつ)りする神社として現在に至っています。
(※第75回歴史講座の内容はこれで終了です。次回からは、リニューアルした通史の明治時代の更新の続編を開始します)
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