その後、貞享(じょうきょう)4(1687)年に朝仁親王に譲位されて113代の東山(ひがしやま)天皇が即位されると、同じく長年中断していた新天皇による大嘗祭(だいじょうさい、天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀=さいし、のこと)を復活され、幕府が「禁中並公家諸法度に違反する」と強く反発しました。
院政はそもそも朝廷の法体系の枠外であり、禁中並公家諸法度に基づく幕府の統制を受けていませんでした。幕府は先代の後水尾法皇の院政にも本来は反対でしたが、2代将軍の徳川秀忠の娘で後水尾天皇の中宮(ちゅうぐう)であり、明正天皇の生母でもある徳川和子(とくがわまさこ、女院号=にょいんごうを「東福門院=とうふくもんいん」)が擁護(ようご)していたため、黙認せざるを得ませんでした。
幕府は霊元上皇にまでは院政を認めないと通告しましたが、上皇はこれを黙殺され、享保(きょうほう)17(1732)年に79歳で崩御されるまで、長期間にわたって院政を続けられました。なお、霊元天皇の追号は、7代の孝霊(こうれい)天皇と8代の孝元(こうげん)天皇の諡号(しごう、天皇などの貴人に対してその死後に生前の行いを尊んで贈る名のこと)からそれぞれ一字を採用しています。
両天皇はいわゆる「欠史八代(けっしはちだい)」のお一人として現在の歴史ではそのご存在を否定されていますが、少なくともこの時代までは天皇として認識されていたことを物語っていますね。
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また、天皇ご在位中の元禄14(1701)年に、先述した浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に対して江戸城内で刃傷に及ぶ事件が発生しましたが、当時の関白であった近衞基熙(このえもとひろ)の日記によると、近衛が東山天皇に刃傷について報告をした際の天皇のご反応について「御喜悦(ごきえつ)の旨(むね)仰せ下し了(おわ)んぬ」、つまり「心からの強い喜びを示された」と記しています。
焼失した御所を修築した浅野家に対し、後西天皇の譲位など幕府の様々な朝廷政治工作に関わっていたとされる吉良上野介義央に対して、東山天皇は決して良く思われていなかったのかもしれませんね。なお、刃傷後に京都へ戻った勅使などの関係者は、事件の際に将軍へ何の取り成しもせずに傍観し、結果的に浅野内匠頭長矩並びに浅野家を見殺しにしたという理由で参内(さんだい)禁止の処分が下されています。
その後、東山天皇は宝永(ほうえい)6(1709)年旧暦6月に第五皇子の慶仁(やすひと)親王に譲位され、114代の中御門(なかみかど)天皇が即位されると、上皇はお自ら院政を敷(し)かれようとしましたが、半年後の旧暦12月(1710年1月)に36歳で崩御されました。
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6代将軍の徳川家宣(とくがわいえのぶ)に仕えていた朱子学者の新井白石(あらいはくせき)は、このままでは皇室の血が途絶えてしまうかもしれないと危機感を抱き、それまで三家あった宮家(みやけ、皇室のうち代々皇族の身分の保持を許された家系のこと)を宝永7(1710)年に一つ増やすことを決定しました。
先代の東山天皇の第六皇子である直仁(なおひと)親王によって立てられた新たな宮家は「閑院宮家(かんいんのみやけ)」と呼ばれましたが、実は設置から約半世紀後に皇室の直系の血が絶えてしまい、閑院宮家から119代の光格(こうかく)天皇がご誕生されました(詳しくは後述します)。
そして、光格天皇の血統は現代の天皇陛下から弟君の秋篠宮文仁親王殿下(あきしののみやふみひとしんのうでんか)を通じて、悠仁(ひさひと)親王殿下にまでつながっています。つまり、白石が閑院宮家の創設に助力したことによって、現代にも皇室の血統が脈々と受け継がれているのです。その意味においても、白石の功績は非常に大きいものがあったといえるでしょう。
なお、中御門天皇は享保20(1735)年に第一皇子の昭仁(てるひと)親王に譲位され、115代の桜町(さくらまち)天皇が即位されると、その2年後の元文(げんぶん)2(1737)年に37歳で崩御されました。
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桃園天皇が18歳の宝暦(ほうれき)8(1758)年、幕府が天皇側近としてお仕えする若手の公卿(くぎょう)たちを排除するという「宝暦事件」が起きました。これは幕府と摂関家とが癒着(ゆちゃく、好ましくない状態で強く結びつくこと)し、朝廷を支配していることに憤慨(ふんがい)していた若い公卿たちによる改革運動の一環であり、この流れが幕末の尊王(そんのう)運動へとつながっています。
その後、桃園天皇は宝暦12(1762)年に22歳の若さで崩御されましたが、天皇の第一皇子の英仁(ひでひと)親王がまだ5歳と幼かったこともあり、英仁親王の将来における皇位継承を前提として、先々代の桜町天皇の第二皇女で、先代の桃園天皇の異母姉の智子(としこ)内親王が117代の後桜町(ごさくらまち)天皇として即位されました。
明正天皇以来119年ぶりの女帝のご誕生であり、また先史以来10代8人存在された女性天皇の最後でもあらせられる後桜町天皇は明和(めいわ)7(1770)年に英仁親王に譲位され、118代の後桃園(ごももぞの)天皇が即位されると、後桜町上皇は文化(ぶんか)10(1813)年に74歳で崩御されるまで生涯独身を通されました。
そして、後桃園天皇が安永(あんえい)8(1779)年に22歳の若さで崩御されると、皇子女(おうじじょ)が同年にお生まれになったばかりの欣子(よしこ)内親王だけだったことから、先述のとおり閑院宮家から師仁(もろひと)王(後に兼仁王=ともひとおうとご改名)を養子として迎え、119代の光格天皇が9歳で即位されました。
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最初は数人だった人数は日を重ねるごとに膨(ふく)れ上がり、わずか十日余りで数万人が集まって同じようにお参りを始めました。これら一連の流れは「御所千度参り」と呼ばれています。
この事態に対して、朝廷は後桜町上皇が3万個のリンゴをお配りになるなどの対応をしましたが、それだけではとても足りず、事態を憂慮された光格天皇が、京都所司代を通じて江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を求められました。
天皇のご行動は禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為でしたが、天皇の叔父にあたる関白の鷹司輔平(たかつかさすけひら)も厳罰を覚悟のうえで同様の申し入れを行ったこともあり、幕府は米1,500俵を京都市民へ放出しました。
当時の幕府は同年旧暦4月に徳川家斉(とくがわいえなり)が11代将軍に就任したばかりであり、徳政を求める意味もあったことからか、天皇や関白が事態の深刻さから行動を起こしたのはもっともなことであるとして、法度違反に関しては不問にされました。なお、朝廷の一連の動きが実際の救済行動に結びついたことが、後の尊王論の興隆の一因となったとされています。
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定信の周囲は日を追うごとに騒がしくなっていきましたが、そんな彼に止めを刺す事件が起きました。いわゆる「尊号一件(そんごういっけん)」のことです。
先述のとおり、当時在位されておられた光格天皇は閑院宮家からご即位されましたが、天皇の父君の閑院宮典仁(すけひと)親王のお立場が、禁中並公家諸法度の規定によって「摂関家より下」とされていました。
このため、天皇の御尊父が摂関家を目上にしなければならないという奇妙なことになっており、事態を重く見られた光格天皇は、父君に太上天皇(たいじょうてんのう、いわゆる上皇のこと)の尊号を贈られようと考えられました。
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定信の拒否によって、光格天皇がご気分を害されるなど、これ以降の朝幕関係は微妙となり、また幕府への信頼が低下することによって天皇の権威が逆に高まり、幕末における討幕運動への遠因ともなってしまいました。つまり、尊号一件における定信の行動が、結果として幕府の運命を暗転させたのですが、そればかりでなく、定信自身が政権の座から転がり落ちるきっかけをもつくってしまいました。
当時の将軍である徳川家斉は、8代将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)が御三家と同じように「血のセーフティーネット」として、自身の血統から新たに設立した御三卿(ごさんきょう)の一橋家(ひとつばしけ)の出身でした。
家斉は親孝行の思いから、父である一橋治済(ひとつばしはるさだ)に対して、前の将軍を意味する「大御所(おおごしょ)」の尊号を贈ろうと考えました。しかし、定信は朝廷に対して太上天皇の尊号を拒否した以上、治済に対しても同じように大御所の尊号を拒否せざるを得ませんでした。
このことで家斉は機嫌を損ねて定信と対立し、やがて寛政5(1793)年に定信は老中を辞めさせられてしまい、寛政の改革は約6年で幕を閉じました。なお、定信の失脚後も、老中の松平信明(まつだいらのぶあきら)らが「寛政の遺老(いろう)」として政治を行っています。
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第72回歴史講座で紹介したように、125代の天皇陛下(現在の上皇陛下)が平成31(2019)年4月30日に皇太子の徳仁(なるひと)親王に譲位されましたが、天皇のご譲位は光格天皇以来202年ぶりで、憲政史上では初めてのことでした。
その後、天保(てんぽう)11(1840)年に上皇が70歳で崩御されると、翌天保12(1841)年に「光格天皇」と追号され、62代の村上(むらかみ)天皇以来長らく絶えていた「天皇号」が復活しました。
実は、63代の冷泉(れいぜい)天皇以来、我が国では安徳(あんとく)・後醍醐(ごだいご)の両天皇を除いて「○○院」と称されていました。約900年ぶりとなる天皇号の復活は、皇室の権威の興隆とともに徳川将軍家の権威の失墜(しっつい)を招くことになるのです。
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そんな中、孝明天皇はご自身を犠牲になさるお覚悟で、護国のためにひたすら祈られるとともに、多くの御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)を詠(よ)まれました。
また、孝明天皇は攘夷(じょうい)のお考えが強かったものの、異母妹の和宮親子(かずのみやちかこ)内親王を14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)と結婚させるなど、討幕を好まれずに公武合体のお立場でいらっしゃいました。
しかし、慶応(けいおう)2年旧暦12月(1867年1月)に孝明天皇は36歳で崩御され、第二皇子の睦仁(むつひと)親王が翌慶応3(1867)年に16歳で122代の明治天皇として即位されました。
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