しかし、後西天皇のご在位時に伊勢神宮や京都御所、あるいは江戸で大火事が相次いだ(特に江戸の火事は「明暦(めいれき)の大火」として有名です)ことから、幕府は「災害が多いのは天皇の徳が足りないからだ」という理由で寛文(かんぶん)3(1663)年旧暦1月に後西天皇を譲位させ、異母弟で10歳の識仁(さとひと)親王が112代の霊元(れいげん)天皇として即位されました。
実は、この折に朝廷に対して譲位の工作を行った人物こそが若き日の吉良上野介(きらこうずけのすけ)こと吉良義央(きらよしひさ)であり、後に彼はこの功績によって従四位(じゅしい)に昇進しています。
なお、寛文元(1661)年に炎上した京都御所を幕府の命令によって修復したのは赤穂(あこう)藩主の浅野長直(あさのながなお)でしたが、彼は浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)こと浅野長矩(あさのながのり)の祖父にあたります。長直は当時赤穂城を新築中でしたが、天守閣の建造を断念までして御所を見事に再建しました。
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儒教に由来し、上下の秩序を重んじる学問であった朱子学を江戸幕府は公的な学問として採用しました。なぜなら、朱子学の「主君に絶対の忠誠を誓い、また徳のある者が天下を制する」という内容が幕府に都合が良かったからです。
江戸時代初期の学者であった山鹿素行(やまがそこう)も初めは朱子学を学んでいましたが、時が経つにつれて朱子学に疑問を抱くようになり、寛文5(1665)年に「聖教要録(せいきょうようろく)」を著しました。
聖教要録は「武士道とは何か」を説き明かしたものでしたが、その中で朱子学を批判したために幕府の怒りを買い、翌寛文6(1666)年に、以前に家臣として仕えていた「ある藩」へ流罪(るざい)となりました。
実は、その藩こそが赤穂藩であり、当時の藩主は先述した浅野長直だったのです。
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赤穂藩に流された山鹿素行は寛文9(1669)年に「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」を著して、儒学による当時の流行であった中華思想を批判するとともに「日本こそが中華(=世界の中心)である」という立場を明らかにしました。
そして、その日本の中心として存在するのが「万世一系(ばんせいいっけい)の皇室」であり、神代以来絶えることなく続く皇室こそが、我が国の国体(=国家としての体制のこと)かつ中心であるという皇室尊崇論(こうしつそんすうろん)を説きました。
そんな山鹿素行の教えを熱心に学んだ赤穂藩が「尊皇の藩」となり、また当時の藩主長直の孫である浅野内匠頭長矩や、若くして素行の薫陶(くんとう)を受けた大石内蔵助良雄らが「尊皇の士」となったのは当然の流れでもありました。
では、もう一方の吉良上野介義央はどうだったのでしょうか。
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これらの事実や歴史の流れから分かるように、浅野家は「尊皇」、吉良家は「幕府大事」と、当時の国家意識がまるで「水と油」のように全く異なっていました。そして運命のいたずらか、両家が元禄14(1701)年に勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)並びにその指南役として、勅使下向(げこう)の接待を担当することになってしまったのです。
実は、両家の組み合わせは天和(てんな)3(1683)年に一度あり、この時は浅野内匠頭長矩が無事に饗応役を務め上げましたが、当時の長矩は17歳と若かったため、吉良上野介義央の言いなりにならざるを得なかったと考えられます。
天皇の意思を直接伝えるために派遣された勅使が江戸城内に入って将軍と面談し、天皇のお言葉を受けた将軍が挨拶(あいさつ)を返す「勅語奉答(ちょくごほうとう)」の儀式以外の勅使の席次は、そもそも「尊皇」の浅野家からすれば将軍よりも上座(かみざ)であるべきです。
しかし「幕府大事」の吉良家からすれば、将軍家が勅使より上座となるのが当然の考えでした。それ以外にも勅使以外の席次や料理を出す順序、あるいはお部屋の位置に至るまで、両者の意見がことごとく対立するのは目に見えていました。
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かくして、その後の吉良邸討ち入りまで2年近くにわたる「忠臣蔵」のストーリーが始まるわけですが、史実における「元禄赤穂事件」と、物語としての「忠臣蔵」との違いはいったい何でしょうか。
また、寛延(かんえん)元(1748)年に大坂で人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)として上演され、私たちが知っている忠臣蔵の物語の原型となった「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」はどのような流れで生まれたのでしょうか。
これらの経緯は、私が平成25(2013)年に発表した第34回黒田裕樹の歴史講座「真説・忠臣蔵 ~『浅野vs.吉良』本当の理由」をご参照いただければと思います。
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