そして同年旧暦11月に正親町天皇から譲位(じょうい)を受け、107代の後陽成(ごようぜい)天皇として16歳で即位されましたが、当時は関白(かんぱく)となっていた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天下統一の事業を進めており、同年旧暦12月(1587年2月)に秀吉は太政大臣(だじょうだいじん)に任じられました。
天正15(1587)年旧暦9月に秀吉が政庁兼邸宅として聚楽第(じゅらくてい、または「じゅらくだい」)を完成させると、翌天正16(1588)年旧暦4月に後陽成天皇が聚楽第に行幸(ぎょうこう、天皇陛下が外出されること)され、秀吉が天皇の御前で徳川家康(とくがわいえやす)をはじめとする有力大名の前で自身への忠誠を誓わせました。
その後、後陽成天皇は天正20(1592)年旧暦1月に聚楽第へ二度目の行幸をされるなど、政務を委(ゆだ)ねた秀吉に大きな信頼と期待を寄せられましたが、慶長(けいちょう)3(1598)年旧暦8月に秀吉が死去すると、時代の主役は徳川家康へと移っていくのです。
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しかしその後、関ヶ原の戦いを経て新たな権力者となった家康が、慶長8(1603)年旧暦2月に後陽成天皇から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて江戸幕府を開くと、家康の意向によって第三皇子の政仁(ことひと)親王を新たに後継とされることになりました。
しかし、後陽成天皇のご本意は弟君にあたる八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王へのご譲位であり、天皇と良仁親王や政仁親王とのご関係は決して良くなかったと伝えられています。
慶長16(1611)年旧暦3月、後陽成天皇から譲位された政仁親王は直ちに即位され、108代の後水尾(ごみずのお)天皇となられました。このことは家康、すなわち江戸幕府の持つ強い権力は天皇をも交代させることができるという現実を天下に示したと同時に、朝廷が持つ伝統的な権威を幕府が自身のために利用するという意味も込められていました。
そして、慶長20(1615)年に幕府は「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定して、幕府による朝廷への統制をより一層強めることになりました。なお、後陽成上皇は元和(げんな)3(1617)年旧暦8月に47歳で崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されておられます。
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また、皇室や摂関家(せっかんけ、摂政や関白に昇進できる家柄のこと)などの公家と大名家との通婚を禁じて、倒幕勢力と皇室との結びつきを断つと同時に、徳川家自身は積極的に公家から正室(せいしつ、いわゆる本妻のこと)である御台所(みだいどころ)を迎えることで、皇室と関係の深い徳川家に弓を引かせないようにしました。
さらに、御台所を通じて徳川家と親密になった摂関家が就任する関白の地位を、天皇の男子である親王より上位とすることで、摂関家によって間接的に皇室をコントロールすることも試みました。
また、幕府は京都所司代(きょうとしょしだい)を通じて朝廷に幕府からの指示を伝えられるように、公家(くげ)から2人を選んで、幕府と朝廷との窓口となる武家伝奏(ぶけてんそう)に任じました。武家伝奏は京都所司代と連絡を取りながら、幕府の意向(すなわち命令)を朝廷に伝えました。
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なお、同じく禁中並公家諸法度によって武家の官位、すなわち幕府が大名や旗本などに与える官位は朝廷からの官位とは別に定めることができるようになっていました。後に南町奉行となった大岡忠相(おおおかただすけ)が「越前守(えちぜんのかみ)」と名乗っていたのは、このことが由来です。
禁中並公家諸法度第16条によって、それまで朝廷が独断で与えることが可能であった高僧(こうそう、位の高い僧のこと)への紫衣(しえ、紫色の法衣あるいは袈裟のこと)の下賜(かし、高貴の人が身分の低い人に物を与えること)や上人号(しょうにんごう)を授けることが厳しく規制されましたが、これは朝廷にとっては大きな痛手でした。
なぜなら、これらは僧にとっての最高の栄誉であるとともに、朝廷にとっての収入源のひとつでもあったからです。しかし、後水尾天皇は幕府による規制を無視され、従来の慣例どおり独自に十数人の僧侶(そうりょ)に紫衣の勅許(ちょっきょ、天皇による許可のこと)を与えられました。
後になって事実を知った3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)は激怒して、再調査を行ったうえで寛永(かんえい)4(1627)年に禁中並公家諸法度に違反した勅許を取り消し、紫衣の没収を命じました。これを「紫衣事件」といいます。
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この事件によって「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」ことが嫌(いや)でも思い知らされることとなり、後水尾天皇も深く気分を害されました。
ちなみに、沢庵は現在のダイコンを漬(つ)けた「沢庵漬け」との関わりが深いとされ、吉川英治(よしかわえいじ)の小説「宮本武蔵(みやもとむさし)」での活躍ぶりも有名です。また、大阪メトロ谷町線のラインカラーが紫色なのは、沿線に四天王寺(してんのうじ)などの寺院が多いことから、僧侶にとって最高の栄誉である紫衣の色が由来になっています。
紫衣事件によって天皇としてのプライドを大きく傷つけられた後水尾天皇でしたが、沢庵らが流罪となった寛永6(1629)年に、さらに神経を逆なでされる事件が起きました。家光が乳母(うば)のお福(ふく)を御所へ昇殿させようとしたのです。
通常であれば、お福のような無位無官(むいむかん)の人間が昇殿できるはずがありません。ところが、幕府はお福を無理やり公家の身内とし、従三位(じゅさんみ)の位と「春日局(かすがのつぼね)」の称号を与えたうえで、後水尾天皇への拝謁(はいえつ、身分の高い人に会うこと)を実現させました。
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突然の譲位に対して幕府は激怒しましたが、いくら何でも既(すで)に行われた譲位を幕府が取り消すことができるはずがありません。こうしてかつての藤原氏(ふじわらし)や平家(へいけ)のように、徳川家が天皇の外戚(がいせき、母方の親戚のこと)となった訳ですが、その裏には後水尾天皇の幕府に対する巧妙(こうみょう)な意趣返(いしゅがえ)しがありました。
先述したように、明正天皇は徳川家にとって外戚となるのですが、7歳の天皇に実権などあろうはずもなく、結局は父君である後水尾上皇による院政(いんせい)が行われ、明正天皇は21歳で異母弟(いぼてい、母の違う弟のこと)である110代の後光明(ごこうみょう)天皇に譲位されるまで、天皇としての実権はほとんどお持ちになられませんでした。
さらには「女性天皇は終生独身」という不文律(ふぶんりつ、文章で表現されていない法のこと)があったため、独身のまま元禄(げんろく)9(1696)年旧暦11月に74歳で崩御され、皇室における徳川家の血筋は明正天皇で途絶(とだ)えることになってしまったのです。
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上記の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)を遺(のこ)された後水尾天皇は、4人の天皇の院政を続けた後に、延宝(えんぽう)8(1680)年に85歳で崩御されましたが、後に昭和天皇に破られるまでの歴代天皇の最長寿(神話の時代を除く)でした。なお、昭和天皇は記録更新の際に「当時の平均寿命の短さを考えれば後水尾天皇の方が立派な記録です」とお言葉されておられます。
ところで後水尾天皇の追号(ついごう)である「後水尾」は、天皇ご自身が生前にお決めになられたものでした。実は、この追号にも後水尾天皇の強いご意思が込められているのです。
後水尾天皇という追号をお決めになったということは、当然「水尾天皇」が過去に存在されたはずですが、歴代の天皇にそのようなお名前は見当たりません。それもそのはず、実は「水尾天皇」は平安時代の清和(せいわ)天皇の異称なのです。
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清和天皇は言わば「武家の棟梁(とうりょう)の元祖」であり、後水尾天皇はお自らが「徳川家の上に立つ」というご意思でご自身の追号をお決めになられた可能性が高いのです。
ちなみに、後水尾天皇の父君である後陽成天皇の追号は、清和天皇の子であり、ご乱行(らんぎょう)のために若くして退位に追い込まれたと伝えられる陽成天皇にちなんで後水尾天皇が贈られました。
皇室にとって不吉ともいえる追号を、しかも親子関係を逆転(清和→陽成、後陽成→後水尾)させて贈ったことになりますが、この背景には先述した後陽成天皇と後水尾天皇との確執があるのかもしれません。
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