そして同年旧暦11月に正親町天皇から譲位(じょうい)を受け、107代の後陽成(ごようぜい)天皇として16歳で即位されましたが、当時は関白(かんぱく)となっていた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天下統一の事業を進めており、同年旧暦12月(1587年2月)に秀吉は太政大臣(だじょうだいじん)に任じられました。
天正15(1587)年旧暦9月に秀吉が政庁兼邸宅として聚楽第(じゅらくてい、または「じゅらくだい」)を完成させると、翌天正16(1588)年旧暦4月に後陽成天皇が聚楽第に行幸(ぎょうこう、天皇陛下が外出されること)され、秀吉が天皇の御前で徳川家康(とくがわいえやす)をはじめとする有力大名の前で自身への忠誠を誓わせました。
その後、後陽成天皇は天正20(1592)年旧暦1月に聚楽第へ二度目の行幸をされるなど、政務を委(ゆだ)ねた秀吉に大きな信頼と期待を寄せられましたが、慶長(けいちょう)3(1598)年旧暦8月に秀吉が死去すると、時代の主役は徳川家康へと移っていくのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかしその後、関ヶ原の戦いを経て新たな権力者となった家康が、慶長8(1603)年旧暦2月に後陽成天皇から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて江戸幕府を開くと、家康の意向によって第三皇子の政仁(ことひと)親王を新たに後継とされることになりました。
しかし、後陽成天皇のご本意は弟君にあたる八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王へのご譲位であり、天皇と良仁親王や政仁親王とのご関係は決して良くなかったと伝えられています。
慶長16(1611)年旧暦3月、後陽成天皇から譲位された政仁親王は直ちに即位され、108代の後水尾(ごみずのお)天皇となられました。このことは家康、すなわち江戸幕府の持つ強い権力は天皇をも交代させることができるという現実を天下に示したと同時に、朝廷が持つ伝統的な権威を幕府が自身のために利用するという意味も込められていました。
そして、慶長20(1615)年に幕府は「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定して、幕府による朝廷への統制をより一層強めることになりました。なお、後陽成上皇は元和(げんな)3(1617)年旧暦8月に47歳で崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されておられます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、皇室や摂関家(せっかんけ、摂政や関白に昇進できる家柄のこと)などの公家と大名家との通婚を禁じて、倒幕勢力と皇室との結びつきを断つと同時に、徳川家自身は積極的に公家から正室(せいしつ、いわゆる本妻のこと)である御台所(みだいどころ)を迎えることで、皇室と関係の深い徳川家に弓を引かせないようにしました。
さらに、御台所を通じて徳川家と親密になった摂関家が就任する関白の地位を、天皇の男子である親王より上位とすることで、摂関家によって間接的に皇室をコントロールすることも試みました。
また、幕府は京都所司代(きょうとしょしだい)を通じて朝廷に幕府からの指示を伝えられるように、公家(くげ)から2人を選んで、幕府と朝廷との窓口となる武家伝奏(ぶけてんそう)に任じました。武家伝奏は京都所司代と連絡を取りながら、幕府の意向(すなわち命令)を朝廷に伝えました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なお、同じく禁中並公家諸法度によって武家の官位、すなわち幕府が大名や旗本などに与える官位は朝廷からの官位とは別に定めることができるようになっていました。後に南町奉行となった大岡忠相(おおおかただすけ)が「越前守(えちぜんのかみ)」と名乗っていたのは、このことが由来です。
禁中並公家諸法度第16条によって、それまで朝廷が独断で与えることが可能であった高僧(こうそう、位の高い僧のこと)への紫衣(しえ、紫色の法衣あるいは袈裟のこと)の下賜(かし、高貴の人が身分の低い人に物を与えること)や上人号(しょうにんごう)を授けることが厳しく規制されましたが、これは朝廷にとっては大きな痛手でした。
なぜなら、これらは僧にとっての最高の栄誉であるとともに、朝廷にとっての収入源のひとつでもあったからです。しかし、後水尾天皇は幕府による規制を無視され、従来の慣例どおり独自に十数人の僧侶(そうりょ)に紫衣の勅許(ちょっきょ、天皇による許可のこと)を与えられました。
後になって事実を知った3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)は激怒して、再調査を行ったうえで寛永(かんえい)4(1627)年に禁中並公家諸法度に違反した勅許を取り消し、紫衣の没収を命じました。これを「紫衣事件」といいます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
この事件によって「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」ことが嫌(いや)でも思い知らされることとなり、後水尾天皇も深く気分を害されました。
ちなみに、沢庵は現在のダイコンを漬(つ)けた「沢庵漬け」との関わりが深いとされ、吉川英治(よしかわえいじ)の小説「宮本武蔵(みやもとむさし)」での活躍ぶりも有名です。また、大阪メトロ谷町線のラインカラーが紫色なのは、沿線に四天王寺(してんのうじ)などの寺院が多いことから、僧侶にとって最高の栄誉である紫衣の色が由来になっています。
紫衣事件によって天皇としてのプライドを大きく傷つけられた後水尾天皇でしたが、沢庵らが流罪となった寛永6(1629)年に、さらに神経を逆なでされる事件が起きました。家光が乳母(うば)のお福(ふく)を御所へ昇殿させようとしたのです。
通常であれば、お福のような無位無官(むいむかん)の人間が昇殿できるはずがありません。ところが、幕府はお福を無理やり公家の身内とし、従三位(じゅさんみ)の位と「春日局(かすがのつぼね)」の称号を与えたうえで、後水尾天皇への拝謁(はいえつ、身分の高い人に会うこと)を実現させました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
突然の譲位に対して幕府は激怒しましたが、いくら何でも既(すで)に行われた譲位を幕府が取り消すことができるはずがありません。こうしてかつての藤原氏(ふじわらし)や平家(へいけ)のように、徳川家が天皇の外戚(がいせき、母方の親戚のこと)となった訳ですが、その裏には後水尾天皇の幕府に対する巧妙(こうみょう)な意趣返(いしゅがえ)しがありました。
先述したように、明正天皇は徳川家にとって外戚となるのですが、7歳の天皇に実権などあろうはずもなく、結局は父君である後水尾上皇による院政(いんせい)が行われ、明正天皇は21歳で異母弟(いぼてい、母の違う弟のこと)である110代の後光明(ごこうみょう)天皇に譲位されるまで、天皇としての実権はほとんどお持ちになられませんでした。
さらには「女性天皇は終生独身」という不文律(ふぶんりつ、文章で表現されていない法のこと)があったため、独身のまま元禄(げんろく)9(1696)年旧暦11月に74歳で崩御され、皇室における徳川家の血筋は明正天皇で途絶(とだ)えることになってしまったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
上記の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)を遺(のこ)された後水尾天皇は、4人の天皇の院政を続けた後に、延宝(えんぽう)8(1680)年に85歳で崩御されましたが、後に昭和天皇に破られるまでの歴代天皇の最長寿(神話の時代を除く)でした。なお、昭和天皇は記録更新の際に「当時の平均寿命の短さを考えれば後水尾天皇の方が立派な記録です」とお言葉されておられます。
ところで後水尾天皇の追号(ついごう)である「後水尾」は、天皇ご自身が生前にお決めになられたものでした。実は、この追号にも後水尾天皇の強いご意思が込められているのです。
後水尾天皇という追号をお決めになったということは、当然「水尾天皇」が過去に存在されたはずですが、歴代の天皇にそのようなお名前は見当たりません。それもそのはず、実は「水尾天皇」は平安時代の清和(せいわ)天皇の異称なのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
清和天皇は言わば「武家の棟梁(とうりょう)の元祖」であり、後水尾天皇はお自らが「徳川家の上に立つ」というご意思でご自身の追号をお決めになられた可能性が高いのです。
ちなみに、後水尾天皇の父君である後陽成天皇の追号は、清和天皇の子であり、ご乱行(らんぎょう)のために若くして退位に追い込まれたと伝えられる陽成天皇にちなんで後水尾天皇が贈られました。
皇室にとって不吉ともいえる追号を、しかも親子関係を逆転(清和→陽成、後陽成→後水尾)させて贈ったことになりますが、この背景には先述した後陽成天皇と後水尾天皇との確執があるのかもしれません。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、後西天皇のご在位時に伊勢神宮や京都御所、あるいは江戸で大火事が相次いだ(特に江戸の火事は「明暦(めいれき)の大火」として有名です)ことから、幕府は「災害が多いのは天皇の徳が足りないからだ」という理由で寛文(かんぶん)3(1663)年旧暦1月に後西天皇を譲位させ、異母弟で10歳の識仁(さとひと)親王が112代の霊元(れいげん)天皇として即位されました。
実は、この折に朝廷に対して譲位の工作を行った人物こそが若き日の吉良上野介(きらこうずけのすけ)こと吉良義央(きらよしひさ)であり、後に彼はこの功績によって従四位(じゅしい)に昇進しています。
なお、寛文元(1661)年に炎上した京都御所を幕府の命令によって修復したのは赤穂(あこう)藩主の浅野長直(あさのながなお)でしたが、彼は浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)こと浅野長矩(あさのながのり)の祖父にあたります。長直は当時赤穂城を新築中でしたが、天守閣の建造を断念までして御所を見事に再建しました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
儒教に由来し、上下の秩序を重んじる学問であった朱子学を江戸幕府は公的な学問として採用しました。なぜなら、朱子学の「主君に絶対の忠誠を誓い、また徳のある者が天下を制する」という内容が幕府に都合が良かったからです。
江戸時代初期の学者であった山鹿素行(やまがそこう)も初めは朱子学を学んでいましたが、時が経つにつれて朱子学に疑問を抱くようになり、寛文5(1665)年に「聖教要録(せいきょうようろく)」を著しました。
聖教要録は「武士道とは何か」を説き明かしたものでしたが、その中で朱子学を批判したために幕府の怒りを買い、翌寛文6(1666)年に、以前に家臣として仕えていた「ある藩」へ流罪(るざい)となりました。
実は、その藩こそが赤穂藩であり、当時の藩主は先述した浅野長直だったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
赤穂藩に流された山鹿素行は寛文9(1669)年に「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」を著して、儒学による当時の流行であった中華思想を批判するとともに「日本こそが中華(=世界の中心)である」という立場を明らかにしました。
そして、その日本の中心として存在するのが「万世一系(ばんせいいっけい)の皇室」であり、神代以来絶えることなく続く皇室こそが、我が国の国体(=国家としての体制のこと)かつ中心であるという皇室尊崇論(こうしつそんすうろん)を説きました。
そんな山鹿素行の教えを熱心に学んだ赤穂藩が「尊皇の藩」となり、また当時の藩主長直の孫である浅野内匠頭長矩や、若くして素行の薫陶(くんとう)を受けた大石内蔵助良雄らが「尊皇の士」となったのは当然の流れでもありました。
では、もう一方の吉良上野介義央はどうだったのでしょうか。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
これらの事実や歴史の流れから分かるように、浅野家は「尊皇」、吉良家は「幕府大事」と、当時の国家意識がまるで「水と油」のように全く異なっていました。そして運命のいたずらか、両家が元禄14(1701)年に勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)並びにその指南役として、勅使下向(げこう)の接待を担当することになってしまったのです。
実は、両家の組み合わせは天和(てんな)3(1683)年に一度あり、この時は浅野内匠頭長矩が無事に饗応役を務め上げましたが、当時の長矩は17歳と若かったため、吉良上野介義央の言いなりにならざるを得なかったと考えられます。
天皇の意思を直接伝えるために派遣された勅使が江戸城内に入って将軍と面談し、天皇のお言葉を受けた将軍が挨拶(あいさつ)を返す「勅語奉答(ちょくごほうとう)」の儀式以外の勅使の席次は、そもそも「尊皇」の浅野家からすれば将軍よりも上座(かみざ)であるべきです。
しかし「幕府大事」の吉良家からすれば、将軍家が勅使より上座となるのが当然の考えでした。それ以外にも勅使以外の席次や料理を出す順序、あるいはお部屋の位置に至るまで、両者の意見がことごとく対立するのは目に見えていました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
かくして、その後の吉良邸討ち入りまで2年近くにわたる「忠臣蔵」のストーリーが始まるわけですが、史実における「元禄赤穂事件」と、物語としての「忠臣蔵」との違いはいったい何でしょうか。
また、寛延(かんえん)元(1748)年に大坂で人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)として上演され、私たちが知っている忠臣蔵の物語の原型となった「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」はどのような流れで生まれたのでしょうか。
これらの経緯は、私が平成25(2013)年に発表した第34回黒田裕樹の歴史講座「真説・忠臣蔵 ~『浅野vs.吉良』本当の理由」をご参照いただければと思います。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
その後、貞享(じょうきょう)4(1687)年に朝仁親王に譲位されて113代の東山(ひがしやま)天皇が即位されると、同じく長年中断していた新天皇による大嘗祭(だいじょうさい、天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀=さいし、のこと)を復活され、幕府が「禁中並公家諸法度に違反する」と強く反発しました。
院政はそもそも朝廷の法体系の枠外であり、禁中並公家諸法度に基づく幕府の統制を受けていませんでした。幕府は先代の後水尾法皇の院政にも本来は反対でしたが、2代将軍の徳川秀忠の娘で後水尾天皇の中宮(ちゅうぐう)であり、明正天皇の生母でもある徳川和子(とくがわまさこ、女院号=にょいんごうを「東福門院=とうふくもんいん」)が擁護(ようご)していたため、黙認せざるを得ませんでした。
幕府は霊元上皇にまでは院政を認めないと通告しましたが、上皇はこれを黙殺され、享保(きょうほう)17(1732)年に79歳で崩御されるまで、長期間にわたって院政を続けられました。なお、霊元天皇の追号は、7代の孝霊(こうれい)天皇と8代の孝元(こうげん)天皇の諡号(しごう、天皇などの貴人に対してその死後に生前の行いを尊んで贈る名のこと)からそれぞれ一字を採用しています。
両天皇はいわゆる「欠史八代(けっしはちだい)」のお一人として現在の歴史ではそのご存在を否定されていますが、少なくともこの時代までは天皇として認識されていたことを物語っていますね。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、天皇ご在位中の元禄14(1701)年に、先述した浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に対して江戸城内で刃傷に及ぶ事件が発生しましたが、当時の関白であった近衞基熙(このえもとひろ)の日記によると、近衛が東山天皇に刃傷について報告をした際の天皇のご反応について「御喜悦(ごきえつ)の旨(むね)仰せ下し了(おわ)んぬ」、つまり「心からの強い喜びを示された」と記しています。
焼失した御所を修築した浅野家に対し、後西天皇の譲位など幕府の様々な朝廷政治工作に関わっていたとされる吉良上野介義央に対して、東山天皇は決して良く思われていなかったのかもしれませんね。なお、刃傷後に京都へ戻った勅使などの関係者は、事件の際に将軍へ何の取り成しもせずに傍観し、結果的に浅野内匠頭長矩並びに浅野家を見殺しにしたという理由で参内(さんだい)禁止の処分が下されています。
その後、東山天皇は宝永(ほうえい)6(1709)年旧暦6月に第五皇子の慶仁(やすひと)親王に譲位され、114代の中御門(なかみかど)天皇が即位されると、上皇はお自ら院政を敷(し)かれようとしましたが、半年後の旧暦12月(1710年1月)に36歳で崩御されました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
6代将軍の徳川家宣(とくがわいえのぶ)に仕えていた朱子学者の新井白石(あらいはくせき)は、このままでは皇室の血が途絶えてしまうかもしれないと危機感を抱き、それまで三家あった宮家(みやけ、皇室のうち代々皇族の身分の保持を許された家系のこと)を宝永7(1710)年に一つ増やすことを決定しました。
先代の東山天皇の第六皇子である直仁(なおひと)親王によって立てられた新たな宮家は「閑院宮家(かんいんのみやけ)」と呼ばれましたが、実は設置から約半世紀後に皇室の直系の血が絶えてしまい、閑院宮家から119代の光格(こうかく)天皇がご誕生されました(詳しくは後述します)。
そして、光格天皇の血統は現代の天皇陛下から弟君の秋篠宮文仁親王殿下(あきしののみやふみひとしんのうでんか)を通じて、悠仁(ひさひと)親王殿下にまでつながっています。つまり、白石が閑院宮家の創設に助力したことによって、現代にも皇室の血統が脈々と受け継がれているのです。その意味においても、白石の功績は非常に大きいものがあったといえるでしょう。
なお、中御門天皇は享保20(1735)年に第一皇子の昭仁(てるひと)親王に譲位され、115代の桜町(さくらまち)天皇が即位されると、その2年後の元文(げんぶん)2(1737)年に37歳で崩御されました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
桃園天皇が18歳の宝暦(ほうれき)8(1758)年、幕府が天皇側近としてお仕えする若手の公卿(くぎょう)たちを排除するという「宝暦事件」が起きました。これは幕府と摂関家とが癒着(ゆちゃく、好ましくない状態で強く結びつくこと)し、朝廷を支配していることに憤慨(ふんがい)していた若い公卿たちによる改革運動の一環であり、この流れが幕末の尊王(そんのう)運動へとつながっています。
その後、桃園天皇は宝暦12(1762)年に22歳の若さで崩御されましたが、天皇の第一皇子の英仁(ひでひと)親王がまだ5歳と幼かったこともあり、英仁親王の将来における皇位継承を前提として、先々代の桜町天皇の第二皇女で、先代の桃園天皇の異母姉の智子(としこ)内親王が117代の後桜町(ごさくらまち)天皇として即位されました。
明正天皇以来119年ぶりの女帝のご誕生であり、また先史以来10代8人存在された女性天皇の最後でもあらせられる後桜町天皇は明和(めいわ)7(1770)年に英仁親王に譲位され、118代の後桃園(ごももぞの)天皇が即位されると、後桜町上皇は文化(ぶんか)10(1813)年に74歳で崩御されるまで生涯独身を通されました。
そして、後桃園天皇が安永(あんえい)8(1779)年に22歳の若さで崩御されると、皇子女(おうじじょ)が同年にお生まれになったばかりの欣子(よしこ)内親王だけだったことから、先述のとおり閑院宮家から師仁(もろひと)王(後に兼仁王=ともひとおうとご改名)を養子として迎え、119代の光格天皇が9歳で即位されました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
最初は数人だった人数は日を重ねるごとに膨(ふく)れ上がり、わずか十日余りで数万人が集まって同じようにお参りを始めました。これら一連の流れは「御所千度参り」と呼ばれています。
この事態に対して、朝廷は後桜町上皇が3万個のリンゴをお配りになるなどの対応をしましたが、それだけではとても足りず、事態を憂慮された光格天皇が、京都所司代を通じて江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を求められました。
天皇のご行動は禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為でしたが、天皇の叔父にあたる関白の鷹司輔平(たかつかさすけひら)も厳罰を覚悟のうえで同様の申し入れを行ったこともあり、幕府は米1,500俵を京都市民へ放出しました。
当時の幕府は同年旧暦4月に徳川家斉(とくがわいえなり)が11代将軍に就任したばかりであり、徳政を求める意味もあったことからか、天皇や関白が事態の深刻さから行動を起こしたのはもっともなことであるとして、法度違反に関しては不問にされました。なお、朝廷の一連の動きが実際の救済行動に結びついたことが、後の尊王論の興隆の一因となったとされています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
定信の周囲は日を追うごとに騒がしくなっていきましたが、そんな彼に止めを刺す事件が起きました。いわゆる「尊号一件(そんごういっけん)」のことです。
先述のとおり、当時在位されておられた光格天皇は閑院宮家からご即位されましたが、天皇の父君の閑院宮典仁(すけひと)親王のお立場が、禁中並公家諸法度の規定によって「摂関家より下」とされていました。
このため、天皇の御尊父が摂関家を目上にしなければならないという奇妙なことになっており、事態を重く見られた光格天皇は、父君に太上天皇(たいじょうてんのう、いわゆる上皇のこと)の尊号を贈られようと考えられました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
定信の拒否によって、光格天皇がご気分を害されるなど、これ以降の朝幕関係は微妙となり、また幕府への信頼が低下することによって天皇の権威が逆に高まり、幕末における討幕運動への遠因ともなってしまいました。つまり、尊号一件における定信の行動が、結果として幕府の運命を暗転させたのですが、そればかりでなく、定信自身が政権の座から転がり落ちるきっかけをもつくってしまいました。
当時の将軍である徳川家斉は、8代将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)が御三家と同じように「血のセーフティーネット」として、自身の血統から新たに設立した御三卿(ごさんきょう)の一橋家(ひとつばしけ)の出身でした。
家斉は親孝行の思いから、父である一橋治済(ひとつばしはるさだ)に対して、前の将軍を意味する「大御所(おおごしょ)」の尊号を贈ろうと考えました。しかし、定信は朝廷に対して太上天皇の尊号を拒否した以上、治済に対しても同じように大御所の尊号を拒否せざるを得ませんでした。
このことで家斉は機嫌を損ねて定信と対立し、やがて寛政5(1793)年に定信は老中を辞めさせられてしまい、寛政の改革は約6年で幕を閉じました。なお、定信の失脚後も、老中の松平信明(まつだいらのぶあきら)らが「寛政の遺老(いろう)」として政治を行っています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
第72回歴史講座で紹介したように、125代の天皇陛下(現在の上皇陛下)が平成31(2019)年4月30日に皇太子の徳仁(なるひと)親王に譲位されましたが、天皇のご譲位は光格天皇以来202年ぶりで、憲政史上では初めてのことでした。
その後、天保(てんぽう)11(1840)年に上皇が70歳で崩御されると、翌天保12(1841)年に「光格天皇」と追号され、62代の村上(むらかみ)天皇以来長らく絶えていた「天皇号」が復活しました。
実は、63代の冷泉(れいぜい)天皇以来、我が国では安徳(あんとく)・後醍醐(ごだいご)の両天皇を除いて「○○院」と称されていました。約900年ぶりとなる天皇号の復活は、皇室の権威の興隆とともに徳川将軍家の権威の失墜(しっつい)を招くことになるのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。