選挙の結果、定数300に対して旧自由党を母体として結成された立憲自由党が131議席、立憲改進党が41議席を得て、両党だけで過半数を占(し)めることになりました。なお当時は、両党のように政府と対立する傾向にあった政党は「民党」と、また政府寄りの政党は「吏党(りとう)」と呼ばれました。
この結果を受け、政府は大日本帝国憲法(=明治憲法)発布当時の首相であった黒田清隆(くろだきよたか)が主張した超然主義をそのまま引き継ぎ、民党との対立姿勢を明らかにしました。
超然主義とは「政府が行う政策は政党の動向に左右されることは一切なく、超然として不偏不党(ふへんふとう)の姿勢を貫く」という意味であり、19世紀末の帝国主義の世界情勢の中で、我が国が欧米列強からの侵略を受けて植民地と化してしまうことのないように、政府の主導によって国難に正面から立ち向かっていくという強い意思表示でもありました。
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山県首相は演説の中で、当時の厳しい世界情勢のもとで我が国が置かれている立場を冷静に分析し、他国との国境たる「主権線」と、国境を守るための朝鮮半島など我が国の周辺地域たる「利益線」を死守するためにも、軍備の増強が不可欠であると訴えました。
いわば国益を最優先させた山県首相の演説に対して、当時の民党が一斉に反発し、行政費を節約して地租の軽減や地価の修正を行うべきだと主張しました。これを「政費節減・民力休養」といいます。
山県内閣(第一次)は民党からの激しい攻撃を受けたものの、立憲自由党の議員を切り崩して、何とか当初の予算案を一部修正して成立させましたが、山県首相は翌明治24(1891)年5月に辞職しました。
山県はその後、元老(げんろう)として我が国の政治に大きな影響を及ぼしましたが、大正11(1922)年に85歳で死去しました。我が国を守るためとはいえ、ひたすら軍事力の増強を訴え続けた山県に対して当時の国民は冷たく、日比谷公園で行われた彼の国葬の参加者も大変少なかったそうですが、歴史の現実としては、予算案の通過からわずか3年後に日清戦争が起きており(詳細はいずれ後述します)、山県の判断が結果として正しかったことが証明されています。
山県有朋の遺(のこ)した実績を振り返ったとき、国民的人気を得られなかったとしても、国益のために命がけで取り組んだ「本物の政治家」の生き様を、私たちは目にすることができるかもしれませんね。
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民党の仕打ちに激怒した海軍大臣の樺山資紀(かばやますけのり)は、議会の演説で「今日の我が国が安寧(あんねい)を保っているのは誰の功績か分かっているのか!」とぶち上げました。
樺山海相のいわゆる「蛮勇(ばんゆう)演説」に対し、民党が猛反発して議会は大混乱となり、進退窮(きわ)まった第一次松方内閣は、同年12月25日に衆議院を解散し、翌明治25(1892)年2月に総選挙が行われることになりました。
この総選挙の際に、内務大臣の品川弥二郎(しながわやじろう)を中心に大規模な「選挙干渉」が行われ、選挙中の死者が25名、負傷者が388名を数える惨事となってしまいました。
政府による干渉にもかかわらず、民党は過半数こそ達しなかったものの優勢での勝利となり、品川内相は引責辞任して、政府を支持する議員をまとめた国民協会を結成しました。なお、第一次松方内閣は第三議会終了後に退陣しています。
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第二次伊藤内閣も第四議会で民党と対立しましたが、明治26(1893)年2月に、明治天皇から「和衷協同(わちゅうきょうどう、心を合わせて互いに協力して行動すること)の詔(みことのり)」が出されました。
和衷協同の詔の主な内容は、天皇お自らが宮廷費を6年間節約されて毎年30万円を下付(かふ、下げ渡すこと)され、また文武官の俸給(ほうきゅう)を10分の1出させることによって軍艦の建造費に充(あ)てるので、議会も政府に協力するようにというものでした。民党は詔に従って政争を中止し、その年の予算案も修正して成立させました。
ただし、その後も条約改正交渉の進展などをめぐって議会が政府を攻撃したこともあり、政府と衆議院との対立は、明治27(1894)年の日清戦争直前の第六議会まで続きました。なお、第一議会から第六議会までを総称して「初期議会」と呼ばれています。
※次回(12月5日)からは第75回歴史講座の内容について更新します。
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