正長元(1428)年に伏見宮家から即位された102代の後花園天皇は、当初は後小松上皇による院政が続いたものの、永享5(1433)年旧暦10月に上皇が崩御された後は30年余りにわたって親政を行われましたが、その治世は決して平穏(へいおん)ではありませんでした。
先述のとおり、嘉吉3(1443)年旧暦9月に京都御所の内裏(だいり)に何者かが侵入し、内裏に火をかけるとともに三種の神器のうち神璽(しんじ)が奪われてしまうという「禁闕(きんけつ)の変」が起きました。その後、神璽は「長禄の変」によって長禄2(1458)年に後南朝から約15年ぶりに取り戻されています。
寛正(かんしょう)2(1461)年には飢餓(きが)と疫病(えきびょう)が発生し、最初の2か月だけで京都で約82,000人の死者が出たとされていますが、時の将軍足利義政は自己の邸宅である「花の御所」の改築に夢中になっており、政治には全く関心を示さず、たまりかねた後花園天皇が救済の勧告をされても無視しました。
その後、寛正5(1464)年旧暦7月に第一皇子の成仁(ふさひと)親王に譲位されて院政を敷(し)かれると、応仁元(1467)年旧暦9月には義政の失政を自らの不徳と詫(わ)びられて出家され、文明2年旧暦12月(1471年1月)に52歳で崩御されました。
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長引く戦乱によって京都は廃墟(はいきょ)と化し、国土全体が荒廃して朝廷の財政も逼迫(ひっぱく)しました。後土御門天皇は明応9(1500)年旧暦9月に59歳で崩御されましたが、葬礼の費用がなく、ご遺体がおよそ40日ものあいだ御所に安置されたままだったそうです。
寛正5(1464)年に後土御門天皇の第一皇子として誕生された勝仁(かつひと)親王は、父君の崩御によって明応9(1500)年に104代の後柏原(ごかしわばら)天皇として即位されましたが、即位の祭祀(さいし)の費用がなく催行できず、21年後の永正8(1521)年にようやく即位の礼が実現しています。
大永(だいえい、たいえい)5(1525)年に天然痘(てんねんとう)が大流行した際に、後柏原天皇は自ら筆をとられ、宸筆(しんぴつ、天皇ご自筆の文書のこと)の「般若心経(はんにゃしんぎょう)」を延暦寺と仁和寺(にんなじ)に奉納されました。天皇は世の乱れを自らの不徳のせいとしてお詫びされたのです。
翌大永6(1526)年旧暦4月、後柏原天皇は63歳で崩御されました。なお、追号の「後柏原」は、平安京に遷都(せんと)された桓武(かんむ)天皇の別名「柏原帝」に由来しています。
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しかし、朝廷の財政は引き続き窮乏(きゅうぼう)しており、ご即位から10年後の天文(てんぶん、てんもん)5(1536)年にようやく即位式を催行されましたが、その際に大内氏や北条(ほうじょう)氏、今川(いまがわ)氏、朝倉氏らの戦国大名が寄進しています。
天文9(1540)年旧暦6月、後奈良天皇は書写した宸筆の「般若心経」を諸国に奉納され、ご自身の不徳をお詫びされるとともに、疾病(しっぺい)流行の終焉(しゅうえん)を祈願されました。また、天文14(1545)年旧暦8月には伊勢神宮への宣命(せんみょう、天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書のこと)を奉(たてまつ)り、大嘗祭(だいじょうさい、天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭=にいなめさいのこと)ができないことを詫びられ、国運と民の興隆を祈願されておられます。
弘治(こうじ)3(1557)年旧暦9月、後奈良天皇は62歳で崩御されました。なお、追号の「後奈良」は平安時代初期の平城(へいぜい)天皇の別名「奈良帝」が由来であり、父君の後柏原天皇(桓武天皇の別名が由来)とともに「桓武-平城」の父子に対応した追号となっています。
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この当時も戦乱続きで国土が荒れ果て朝廷も窮乏しており、安芸(あき、現在の広島県西部)の戦国大名であった毛利元就(もうりもとなり)の献上金によって、ご即位から約2年後の永禄3(1560)年旧暦1月に即位の礼を催行されました。
その後、先述のとおり永禄11(1568)年旧暦9月に織田信長が天皇をお護りする名目で足利義昭を伴って上洛を果たすと、皇室の危機的な状況に変化が訪れました。京都と畿内を平定した信長は多大な援助を行い、朝廷の権威や財政を回復させましたが、その一方で、自己の敵対勢力に対して正親町天皇による度重なる講和の勅命(ちょくめい、天皇の命令のこと)を実現させています。
講和の勅命としては、元亀元年旧暦12月(1571年1月)の朝倉義景(あさくらよしかげ)・浅井長政(あざいながまさ)との戦いや、元亀4(1573)年旧暦4月の足利義昭との戦い、あるいは天正(てんしょう)8(1580)年旧暦4月の石山本願寺との戦いが知られています。
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天正10(1582)年に信長が「本能寺(ほんのうじ)の変」で明智光秀(あけちみつひで)に倒されると、その光秀を破って天下取りに名乗りを上げた羽柴秀吉(はしばひでよし)に対して、天正13(1585)年旧暦7月に関白(かんぱく)を宣下され、翌天正14(1586)年旧暦9月には「豊臣(とよとみ)」の姓を授けました。
天正14(1586)年旧暦11月、正親町天皇は孫の和仁(かずひと)親王に譲位され、仙洞御所(せんとうごしょ、譲位された天皇の御所のこと)に隠退(いんたい、世間を避けて閑居すること)されました。譲位を予定しておられた第一皇子の誠仁(さねひと)親王が同年旧暦7月に薨去(こうきょ、親王などがお亡くなりになること)されたので、その第一王子の和仁親王に譲位されたのです。その後、文禄(ぶんろく)2(1593)年旧暦1月に77歳で崩御されました。
なお、和仁親王は107代の後陽成(ごようぜい)天皇として16歳で即位され、その治世は秀吉政権から徳川家康(とくがわいえやす)の江戸幕府にまで及びますが、その詳細は次回(第75回)の講座で明らかにします。
(※第74回歴史講座の内容はこれで終了です。次回からは、リニューアルした通史の明治時代の更新の続編を開始します)
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