しかし、義尚は長享(ちょうきょう)3(1489)年に25歳の若さで子のないまま死亡してしまい、義視の子の足利義材(あしかがよしき)が後継者として翌延徳2(1490)年に10代将軍となりました。
義材は義視の子であり、また義視は富子と激しく対立して応仁の乱が起こったのですから、義材の将軍就任によって富子は当然のように権力を失ったと誰しもが思いますよね。ところが実際にはそうはなりませんでした。
なぜなら、義材の母(=義視の妻)が富子の実の妹だったからです。応仁の乱のはるか以前にかけていた「保険」によって富子の権力は温存されるとともに、夫と子を失ったことで、富子は蓄財と権力の保持にますます力を入れるようになりました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
それに加えて、義材は自分を将軍にしてくれた「恩人」でもある日野富子と次第に距離を置くようになっていたため、義材に対する富子の不満も高まっていました。
そんな折の明応(めいおう)2(1493)年、義材は守護大名の畠山氏を討伐するために河内へ遠征すると、その隙をついて京都で政元と富子がクーデターを起こし、義政の異母兄で初代堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも)の子である足利義澄(あしかがよしずみ)を新たに11代将軍に立てました。
無理やり将軍職を追われた義材は、失意のうちに越中(えっちゅう、現在の富山県)へ逃れ、また明応5(1496)年に富子が亡くなったため、以後の幕府の政治の実権は政元が握ることになりました。これを当時の年号から「明応の政変」といいます。
明応の政変は、室町幕府の将軍が、時の権力者たる臣下の思惑によって簡単に交代させられてしまうという事実を世に示したことを意味していました。足利将軍の地位が単なる「権威」に過ぎず、臣下が将軍を必要としなければ、それこそ「使い捨て」のように処分されてしまうという冷徹な現実がはっきりしたことから、この時期こそが戦国時代の始まりにふさわしいという説もあります。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
永正(えいしょう)4(1507)年、政元は不意を突かれて暗殺されました。これを当時の年号から「永正の錯乱(さくらん)」といいます。政元が殺されたことで細川氏の間で激しい対立が繰り返され、やがて細川氏そのものが没落していくことになりますが、没落した人物はもう一人いました。それは将軍の義澄です。
義澄は政元と対立しつつも主従関係を維持し続けていたのですが、政元暗殺後に守護大名の大内義興(おおうちよしおき)が新たな将軍後継者を擁立(ようりつ)して上洛(じょうらく、京都へ向かうこと)すると近江に逃れ、翌永正5(1508)年には将軍職を辞めさせられました。
大内の推挙で将軍に就任したのは足利義尹(あしかがよしただ)でしたが、実は彼こそが明応2(1493)年に将軍を廃位された「足利義材」その人だったのです。
歴史上稀(まれ)に見る「将軍返り咲き」を果たした義尹は、その後永正10(1513)年に「義稙(よしたね)」と改名しましたが、永正15(1518)年に大内が領地に帰国して後ろ盾を失うと、政元の養子であった細川高国(ほそかわたかくに)によって永正18(1521)年に将軍の地位を再び追われ、その後は寂しく生涯を閉じました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
そんな経緯で将軍になった義晴ですが、約25年ものあいだ地位を維持し続けたものの、最後には細川氏の内紛をきっかけに、将軍職を子の足利義輝(あしかがよしてる)に譲りました。
その後、細川氏が内紛を繰り返す間に実力をつけた家臣の三好長慶(みよしながよし)によって、13代将軍の義輝は傀儡(かいらい、自分の意志や主義を表さず他人の言いなりに動いて利用される者のこと)となりましたが、義輝は諸大名の抗争の調停を行うなど少しずつ政治的手腕を発揮し、幕府権力の復活に努めました。
しかし、こうした義輝の動きを警戒した三好氏の家臣の松永久秀(まつながひさひで)らが永禄(えいろく)8(1565)年に謀反(むほん)を起こすと、義輝は奮戦むなしく無念の最期を遂げました。これを当時の年号から「永禄の変」といいます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
その後、永禄11(1568)年旧暦9月に、織田信長が時の正親町(おおぎまち)天皇をお護りするために義輝の弟の足利義昭(あしかがよしあき)を伴って上洛を果たすと、久秀が信長に降伏して、同年旧暦10月に義昭が新たに15代将軍となりました。なお、将軍を追われた義栄は失意のうちに間もなく亡くなっています。
義昭は自分を将軍にしてくれた信長に深く感謝し、管領もしくは副将軍になるよう勧めましたが、信長はいずれも辞退して、代わりに堺を含む和泉(いずみ、現在の大阪府南西部)の支配を認めさせました。
地位や名誉を欲しがらない信長の意外な行動を周囲は不思議に感じましたが、いわゆる「名よりも実を取った」信長の行為の裏には、彼によるしたたかな計算があったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
いくら戦国の世とはいえ、主君に対する謀反というのはダメージが大きく、後の天下取りにも影響を及ぼすのは避けられません。だからこそ、信長は義昭の誘いを断り、その代わりに最大の貿易港の一つであった堺を抑えるために、和泉の支配を義昭に認めさせたのでした。
さて、義昭が将軍になったばかりの頃の二人の関係は良好でしたが、信長は次第に義昭を圧迫するようになっていきました。やがて信長の本意を理解した義昭は激怒し、信長を倒すべく様々な作戦を練り始めました。
後の世に「信長包囲網」と名付けられた義昭の行動によって、一時は信長を追いつめたものの、頼りにしていた武田信玄(たけだしんげん)の急死もあって、結局は失敗に終わりました。ところが、信玄の死を知らなかった義昭は、もはや起こり得ない信玄の上洛を信じて、居住していた将軍御所で挙兵したものの、信長に攻められて降伏せざるを得ませんでした。
諦め切れない義昭は、この後もう一度挙兵しますが敗れ、元亀(げんき)4(1573)年旧暦7月に義昭が信長によって京都を追われたことで、約235年続いた室町幕府は事実上滅亡しました。時代は信長による新しい秩序に向けて着実に進んでおり、足利将軍はもはや必要とされなくなっていたのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。