しかしながら、たとえ強引な手法であったとしても、世の中をそれなりにまとめていた将軍がいなくなったことで、守護大名はおろかその下の守護代も含めて、まるで箍(たが)が外れた桶(おけ)のように各自がバラバラに行動を始めてしまい、収拾がつかなくなってしまいました。
そんな幕府の試練は、義教暗殺の直後に早速訪れました。嘉吉の乱で義教を殺害した赤松満祐を討伐するために幕府軍が遠征した隙(すき)をついて、多数の農民が京都を占拠して将軍の「代始めの徳政」を要求したのです。これは当時の年号から「嘉吉の徳政一揆」と呼ばれています。
幕府の管領であった細川持之(ほそかわもちゆき)は高利貸しの土倉(どそう)から賄賂を受け取っていたため、一揆勢の要求を無視して鎮圧するつもりでした。しかし、彼の意見は他の守護大名に聞き入れられず、結局は一揆勢との話し合いに応じざるを得なくなったのです。
「箍が外れた桶」状態の室町幕府には、もはや強引な政策は不可能だったのでした。しかも、一揆勢との交渉によって幕府は更なる難題を抱え込むことになってしまうのです。
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確かに一揆勢の主体は農民でしたが、実は彼らは地侍(じざむらい、守護大名などと主従関係を結んで武士の身分を得た者のこと)の指導の下に動いていました。地侍たちは、支配者層にも徳政令の範囲を広げて彼らに「恩を売る」かたちにしておけば、徳政令発布後に処罰されることはないであろうと計算していたと考えられています。
一揆勢の要求に幕府は困惑しましたが、ただでさえ兵力が不足しているうえに、有力守護大名たちの考えがバラバラではどうすることもできません。結局、幕府は「山城一国に限定した完全な徳政令」を発布せざるを得なくなりましたが、この結果に今度は大寺社、特に比叡山延暦寺が激怒しました。
なぜなら、徳政令には、大寺社が寄進という名の下に人々から財産を取り上げていたのを返還するように書いていたからです。延暦寺は神輿(しんよ)を担(かつ)いで幕府に強訴(ごうそ)し、徳政令の対象から寺社を無理やり外すことに成功しました。
徳政令の発布によって、幕府が金融業者などからの信頼を失うのみならず、かつて義教が苦労して抑え付けていた圧力団体としての宗教勢力の復活をも招いてしまったのです。
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義教の後を継いで嘉吉2(1442)年に7代将軍となった足利義勝(あしかがよしかつ)でしたが、就任時わずか9歳では自ら政治ができるはずもなく、しかも翌嘉吉3(1443)年に急死してしまい、その後は弟の足利義政(あしかがよしまさ)が8歳で8代将軍となりました。
就任した当初の義政は、祖父の足利義満や父の義教にならって将軍権力の復活を図り、永享の乱の後に鎌倉公方となった足利成氏(あしかがしげうじ)と関東管領の上杉氏との内紛にも積極的に関わりました。なお、享徳(きょうとく)3(1454)年に始まった成氏と上杉氏との争いを、当時の年号から「享徳の乱」といいます。
しかし、義政の妻である日野富子(ひのとみこ)や妻の実家の日野氏、あるいは有力な守護大名らが次々と政治に介入したことで、いつしか義政は政治への関心を失って贅沢(ぜいたく)な暮らしを始めたため、将軍としての人望を失ってしまいました。
政治への興味をなくした義政は、将軍の地位を誰かに譲って気ままに余生を過ごしたいと思いましたが、妻の富子との間には将軍後継となるべき成長した男子がいませんでした。
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義視からすれば、一度約束された将軍後継の地位を反故(ほご)にされてはたまったものではありませんし、義尚(よしひさ)の母の富子からすれば、自分がお腹を痛めて産んだ我が子が将軍後継になれないことほど愚かな話はありません。しかし、初代将軍である足利尊氏のように優柔不断な義政には、どちらを後継にするかを決めることが出来ませんでした。
義政がいつまで経っても後継を決めないことに業(ごう)を煮やした義視と富子は、義視が管領の細川勝元(ほそかわかつもと)に、富子が侍所(さむらいどころ)の長官である四職(ししき)筆頭の山名宗全(やまなそうぜん、出家前の名は山名持豊=やまなもちとよ)にそれぞれ接近すると、細川・山名の両氏がこれを好機として、幕府の政治の実権を握ろうとお互いに争い始めました。
この他にも守護大名の畠山氏(はたけやまし)や斯波氏(しばし)の家督(かとく)争いがからんだことで、応仁元(1467)年についに京都で大きな戦いが起きてしまいました。戦国時代の幕開けともいわれる「応仁の乱」の始まりです。
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緒戦の戦いは山名氏に優位に展開しましたが、細川氏が巻き返して将軍義政を保護したことで、東軍の優勢となりました。しかし、今度は山名氏が守護大名の大内政弘(おおうちまさひろ)に声をかけて京都へと攻めのぼらせるなど、両軍は一進一退の戦いを続けました。
そんな折、応仁の乱のきっかけをつくった当事者たちに異変が起きました。将軍義政の弟である義視は東軍の細川氏についていましたが、細川氏が義政を迎え入れた後に、義視の政敵である伊勢貞親(いせさだちか)が再び重用されたことに反発して出奔(しゅっぽん)しました。
翌応仁2(1468)年に一旦は京都へ戻ったものの再び出奔した義視は、こともあろうにライバルの義尚を支持していた西軍の山名氏へと身を投じました。これは、将軍を奪われて大義名分を失っていた山名宗全が、巻き返しの手段として義視を迎えたためと考えられており、事実、この後山名氏は義視を「将軍格」として様々な人事を発令しています。
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これでは何のために戦っているのか分かりません。戦いの当事者たちにもいつしか厭戦(えんせん、戦争をするのをいやに思うこと)の気分が盛り上がってきましたが、応仁の乱のきっかけのひとつであった守護大名の家督争いに決着がつかなかったこともあり、戦いはいつしか京都から全国に広がって、延々と果てしなく続けられました。
そんな中で、文明(ぶんめい)3(1471)年に西軍の朝倉孝景(あさくらたかかげ)が東軍に寝返ると、追いつめられた西軍は後南朝の小倉宮の子孫と称する人物を「西陣の南帝(なんてい)」として立てましたが、義教の時代に行われた断絶工作が進んでいたうえに、後南朝が三種の神器を持っていなかったことから、いつしか歴史上から姿を消してしまいました。
その後、文明5(1473)年に山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなり、同年に義政が義尚に将軍職を譲った後もなお戦いの決着がつかず、開始から約10年後の文明9(1477)年になってようやく終戦を迎えましたが、長きにわたった戦いで、京都の街は内裏(だいり、天皇の居所を中心とする御殿のこと)をはじめとして一面焼け野原となってしまいました。
なお、隠居した義政は、後に銀閣寺または慈照寺(じしょうじ)と呼ばれた東山殿(ひがしやまどの)の建設を文明14(1482)年に始めましたが、その完成を待つことなく延徳(えんとく)2(1490)年に亡くなっています。
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また、応仁の乱の頃から、大名の兵力の中心となった足軽(あしがる)の存在が目立ち始めました。足軽は主に金銭面のみで大名とつながっていることが多かったために忠誠心が薄く、このため各地で暴徒化して略奪を繰り返しました。
さらには守護大名が京都で戦っている隙をつくかたちで、各大名の領国では守護代や国人たちが力を伸ばし、大名から領国の支配権を奪っていきました。こうして身分の下の者が上の者の勢力をしのぐ下剋上(げこくじょう)が本格的に始まり、世は戦国時代を迎えることになりました。
なお、戦国時代においても室町幕府そのものは健在でしたが、幕府が持っていた権力が本拠地の山城を除いてほとんどなくなった一方で、征夷大将軍としての形ばかりの「権威」が皮肉にも強調されることになってしまうのです。
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