義詮は、父の尊氏が将軍であった頃から、叔父にあたる足利直義(あしかがただよし)や南朝の北畠親房(きたばたけちかふさ)、あるいは腹違いの兄弟である足利直冬(あしかがただふゆ)に攻められて京都を奪われるなど、自身の武力が決して優れているとは言えませんでした。
将軍就任後も、南朝に寝返った執事(後の管領)の細川清氏(ほそかわきようじ)に一時期は京都を落とされるなど政情不安が続き、将軍就任前に自分が守っていた関東には、弟の足利基氏(あしかがもとうじ)を鎌倉府の長官たる鎌倉公方(かまくらくぼう)に任じたものの、基氏自身も南朝の攻撃に悩まされ続けました。
一方、南朝の正平7年/北朝の観応(かんのう)3(1352)年に南朝側が強引にお連れした北朝の三人の上皇(光巌=こうごん、光明=こうみょう、崇光=すこう)を京都へ戻したり、楠木正成(くすのきまさしげ)の子である楠木正儀(くすのきまさのり)から幕府に対する和睦(わぼく)の申し入れがあったりと軟化の動きもありましたが、結局は不調に終わり、義詮は南朝の正平22年/北朝の貞治(じょうじ)6(1367)年に38歳の若さで死去しました。
なお、義詮の死去の翌年にあたる南朝の正平23年/北朝の応安(おうあん)元(1368)年には、南朝を開いた後醍醐(ごだいご)天皇の子である後村上(ごむらかみ)天皇も崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)され、子の長慶(ちょうけい)天皇が即位されましたが、長慶天皇の治世においては、南北朝の和睦の動きはほとんど見受けられませんでした。
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義満は自分の思いどおりの政治を行うため、まずは「子飼いの軍隊」ともいうべき将軍直属の常備軍である奉公衆(ほうこうしゅう)を積極的に増強し、その費用を捻出(ねんしゅつ)するために、山城(現在の京都府南部)の土地の一部を奉公衆に与えたり、山城の荘園の年貢の半分を奉公衆に給付するという半済令(はんぜいれい)を出したりしました。
京都において兵糧を確保できるようになった奉公衆は、一年を通して将軍の近くに常駐できるようになり、結果として義満の軍事的立場も強化されることにつながりました。
こうして自分の足元を固めることに成功した義満は、自分の命令ひとつで動く武力を背景に、内政や外交、あるいは軍事面において強力な政治を行うことになるのです。
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それもこれも、朝廷が二つに分かれて争う状態が続いていたのが大きな理由でした。先の鎌倉幕府や後の戦国時代、あるいは江戸幕府など、武家政権の多くは長い伝統に基づく権威を有する朝廷の扱いに悩まされてきましたが、それが二つもあってはたまったものではありません。
なぜなら、対立している二つの勢力が、それぞれ北朝や南朝を別々に担(かつ)ぐことによって、お互いが朝廷の後見を得ることになり、争い事がいつまで経っても収拾がつかなくなるからです。
このため、義満も南北朝が一つになるよう工作を続け、南朝側も長慶天皇から皇位を継承された後亀山(ごかめやま)天皇が和睦に応じられたことで、南朝の元中(げんちゅう)9年/北朝の明徳(めいとく)3(1392)年についに「南北朝の合一(ごういつ)」が実現しました。
南北朝の合一は、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松(ごこまつ)天皇に三種の神器を譲られて退位されるという形式で行われましたが、そこには義満による巧妙な罠(わな)が仕掛けられていました。
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1.三種の神器は南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇へ「譲国(じょうこく)の儀式」で渡すこと
2.皇位の継承に際しては、南北両朝が交互に即位する両統迭立(りょうとうてつりつ)を行うこと
3.諸国の国衙領(こくがりょう、国の領地のこと)を南朝の所有とすること
このうち一番重要なのは1.でした。なぜなら「譲国の儀式」で譲位するということは、後亀山天皇のご在位を、ひいては南朝の後醍醐―後村上―長慶―後亀山という皇位の継承を正式なものとして認めるということを意味していたからです。
また、今後も両統迭立が行われるということは、後亀山天皇の子がいずれは天皇になるということであり、さらに国衙領の所有が認められるのであれば、南朝にとってはかなり有利な内容でした。しかし、それらはあくまで北朝と幕府が約束を守ればの話であり、実は、義満は条件のすべてを反故(ほご)にしてしまったのです。
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これでは北朝が「失くした神器を取り戻した」ということになり、南朝の正当性が一切認められないことを意味します。また、退位された後亀山上皇も当初は正式に上皇と認められず、義満の裁定によって「不登極帝(ふとうきょくのてい)」、すなわち「即位していない天皇」に上皇の地位を与えるということになりましたが、即位が認められなければ、後亀山上皇が「治天(ちてん)の君(きみ)」として院政を行うことができません。
両統迭立の約束も後小松天皇の次の天皇となる皇太子が長いあいだ決められず、義満の死後に後小松天皇の子の称光(しょうこう)天皇が即位されたことで、南朝への皇位継承の道が遠くなり、さらには国衙領もこの頃までには実質的にほとんど存在していませんでした。
要するに、義満は南朝に空手形(からてがた)をつかませたのです。南北朝の合一に関する義満の手法は卑怯(ひきょう)かつ詐欺的なものでしたが、同時に彼の行動によって二つあった朝廷が一つにまとまったことで、それまでの混乱状態から回復して世の中が平和に向かうという皮肉な結果になりました。まさに「平和は綺麗事だけでは達成できない」ということですね。
なお、義満に「だまされた」形となった南朝の勢力は、後亀山上皇が一時期は京都から吉野へ移られるなど、幕府や朝廷(=北朝)に対して様々な抵抗を続けることになりますが、詳しくは後で紹介します。
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南朝の天授4年/北朝の永和(えいわ)4(1378)年、義満は京都の室町に「花の御所」と後に呼ばれた豪華な邸宅を造営し、以後はここで政治を行ったことから、足利氏による幕府のことを「室町幕府」と呼ぶようになりました。
また、義満はこの頃までに大きくなり過ぎて幕府の言うことを聞かなくなった守護大名の弱体化を目指し、南朝の元中7年/北朝の明徳元(1390)年に美濃(みの、現在の岐阜県南部)・尾張(おわり、現在の愛知県西部)・伊勢(いせ、現在の三重県北部)の守護を兼ねた土岐康行(ときやすゆき)を滅ぼしました。これを「土岐康行の乱」といいます。
翌年の南朝の元中8年/北朝の明徳2(1391)年には、西国11か国の守護を兼ねたことから「六分一殿(ろくぶんのいちどの)」と呼ばれた山名氏(やまなし)に内紛が起きると、義満はこれに乗じて山名氏清(やまなうじきよ)を滅ぼしました。この戦いを、当時の年号から「明徳の乱」といいます。
さらに義満は、中国の明(みん)と勝手に貿易を行っていた周防(すおう、現在の山口県東部)の守護大名である大内義弘(おおうちよしひろ)を応永(おうえい)6(1399)年に滅ぼすことに成功しました。この戦いは、当時の年号から「応永の乱」と呼ばれています。
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中国の皇帝から「国王」に任じられて暦を受け取るという行為は、中国を宗主国と認め、屈辱的な朝貢(ちょうこう)外交を行うことを意味しました。
これは、聖徳太子(しょうとくたいし)以来続いてきた我が国の中国大陸からの独立性を損なうものでしたが、義満は自らを「日本国王臣源道義(にほんこくおうしんげんどうぎ)」と称して貿易を行いました。なお、道義とは出家した義満の法号です。
なぜ義満は朝貢外交を受けいれてまで貿易を行ったのでしょうか。主な理由として考えられるのは、貿易による莫大(ばくだい)な利益を得るためには、対等であろうが朝貢であろうが問題ないという経済重視の姿勢ですが、もうひとつの別に隠された理由がありました。
実は、義満は自らが「天皇を超える存在」として君臨するという大きな野望を持っており、明から「日本国王」に任じられること、つまり明からの「お墨付き」を得ることが、野望達成の近道になると確信していたのです。
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また、義満は自身の太政大臣の就任祝賀式に出席した当時の関白に対して、自らを拝礼して見送らせました。関白は太政大臣より上位ですから普通に考えれば話が反対ですが、これは義満が当時既(すで)に天皇に近い待遇を得ていたことを間接的に証明しています。
さらに義満は、南北朝の合一の際に後亀山上皇に対して強引に上皇待遇を与えたように、朝廷の人事権にまで口出しを始め、天皇の子が出家して入る門跡寺院(もんせきじいん)にも、自分の子を次々と入れました。そのうちの一人が比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の最高位である天台座主(てんだいざす)の義円(ぎえん)ですが、彼は後に再び今回の講座に登場します。
義満は太政大臣に就任する直前に、征夷大将軍を辞任して子の足利義持(あしかがよしもち)が4代将軍となり、同年には太政大臣を辞職し出家しましたが、依然として政治の実権を持ち続けました。将軍や太政大臣といっても天皇の臣下でしかなく、それらの身分に縛(しば)られない方が、自分の野望達成(=天皇を超える存在になること)には都合が良いと判断したのかもしれません。
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しかも相国寺は当時の京都御所のすぐ北にあり、天皇がおわす御所の上座(かみざ)の位置に、御所を見下ろすことができる巨大な建物を造営したことになりますが、義満の意図がどこにあったのかが気になるところです。
また、義満は金閣寺(きんかくじ)と呼ばれる寺院を建築したことでも有名であり、これは現在の鹿苑寺(ろくおんじ)の通称となっていますが、義満の当時は金閣寺を含む一帯が北山第(きたやまてい)と呼ばれ、義満の政務地でした。
義満が政務地の象徴として建築したのが現在の金閣寺と考えられていますが、その金閣寺は1階が寝殿造(しんでんづくり)で2階が武家造(ぶけづくり、別名を書院造=しょいんづくり)、3階が禅宗様(ぜんしゅうよう)という変わった構造をしていることでも有名ですね。
実は、この金閣寺の構造にも義満の真意が隠されているのです。
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さらにその上の3階の禅宗様は中国風ですが、これは当時明から「日本国王」に任じられていた義満自身を指していると考えられ、義満が「自分は朝廷も幕府も超えた存在である」と自ら宣言しているに等しいことになります。
しかも、金閣寺の屋根には聖天子(せいてんし)が出現するときに世に出るとされる、中国の伝説上の鳥である鳳凰(ほうおう)が飾られていますが、全国の寺院で屋根に鳳凰があるのは、金閣寺の他にはこれを真似(まね)てつくられた銀閣寺(ぎんかくじ)と、平安時代の建築物である宇治の平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)くらいしかありません。
寺院の屋根飾りとしては滅多に用いられない鳳凰が金閣寺に使用されている理由は、そこを普段から使用する人間、つまり義満こそが聖天子そのものであると自負していたからだとは考えられないでしょうか。
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つまり、義嗣は親王と同じ待遇になったのです。ということは、近い将来には義嗣が天皇になり、義満自身は天皇の父、つまり上皇に準ぜられ、治天の君として「天皇を超える存在」となり、我が国をほしいままに支配することになる。皇室にとってはまさに最大の危機でしたが、義満の野望は、結局は実現することはありませんでした。
なぜなら、義嗣が元服した直後の応永15(1408)年に義満は病に倒れ、急死してしまったからです。それまで元気でいたのが急に体調が悪化したことから、義満が天皇を超える存在になることを恐れた朝廷などの関係者から暗殺されたのではないか、という説が唱えられています。
その真偽は定かではありませんが、いずれにせよ、自分の野望が達成される直前でこの世を去らなければならなかったのは、義満にとってさぞかし無念であったことでしょう。
なお、義満の死後、朝廷は太上天皇(だいじょうてんのう)、つまり上皇の地位を追贈しました。幕府はこれを辞退しましたが、皇室とは直接的に縁のない義満に対して、なぜ朝廷が上皇を追贈しなければならなかったのでしょうか。
確固たる証拠が存在しない以上は、永遠の謎と言わざるを得ないのかもしれません。
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特に鎌倉府では、応永23(1416)年に前の関東管領であった上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)が鎌倉公方の足利持氏(あしかがもちうじ)を追放するなどの混乱が起きましたが、翌年には鎮圧されました。この争いを「上杉禅秀の乱」といいます。
このように地方では常に不安があった一方で、幕府周辺においては将軍と有力守護大名とがお互いに権力を主張しながらにらみ合いを続けましたが、これがかえって勢力の均衡(きんこう)を生んだことによって、皮肉にも大きな争いが起きずに小康状態を保っていました。
こうした中で応永32(1425)年に5代将軍の義量が19歳の若さで急死すると、父親である義持が代わりに政務をとりましたが、応永35(1428)年までに重病となり、このままでは将軍家の嫡流(ちゃくりゅう、直系の血脈のこと)の血筋が絶えるという危機となりましたが、義持は自らが後継者を決めることをしませんでした。
なぜなら、幕府と有力守護大名との権力に大きな差がなく、将軍の権威も低下していたために、自身が誰を後継としても、守護大名などからの反発が必至と思われたために出来なかったのです。
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そして、応永35(1428)年に義持が亡くなった直後に当たり籤を開封した結果、比叡山延暦寺の最高位である天台座主の義円が選ばれました。
義満がかつて自分の権力強化のために門跡寺院に自分の子を次々と送り込んだことが、こんなところで役に立ったのです。将軍に選ばれた義円は直ちに還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)し、名を義宣(よしのぶ)から後に義教(よしのり)と改めました。
後の世で「籤引(くじび)き将軍」と呼ばれた6代将軍の足利義教の誕生です。
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まず義教は、4代将軍義持の時代に中断していた日明貿易を復活させて幕府の財政を潤すと、その財力で奉公衆を整備して、将軍直属の軍事力をさらに強化した後に九州地方へ攻めのぼり、義満ですら果たせなかった九州平定を実現しました。
次に義教は、宗教勢力の掌握(しょうあく、自分の思いどおりにすること)を目指しました。将軍就任以前は天台座主として宗教界のトップに君臨していただけに、義教は今までの将軍とは違って、宗教に対する畏怖(いふ、恐れおののくこと)を全く感じていなかったのです。
義教と延暦寺とはやがて内戦状態となりましたが、義教が最後までぶれることなく厳しい姿勢を崩さなかったため、絶望した延暦寺では、永享(えいきょう)7(1435)年に総本堂である根本中堂(こんぽんちゅうどう)に火をかけて多数の僧が焼身自殺するという騒ぎとなり、結果として、義教は宗教勢力をも完全に支配下に置くことに成功しました。
比叡山延暦寺の焼き討ちといえば織田信長(おだのぶなが)が有名ですが、それよりも100年以上も前に、武力によって延暦寺を支配した将軍がいたことは意外にも知られていません。
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さらに翌永享12(1440)年には、持氏の遺児を擁(よう)して結城氏朝(ゆうきうじとも)らが挙兵しましたが、義教はこれらも滅ぼしました。この戦いを「結城合戦(ゆうきかっせん)」といいます。
かくして、鎌倉をも自分の支配下に入れた義教の権力は絶対的なものとなり、古代の盟神探湯(くかたち、裁判において熱湯の中に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽=しんぎを判断するという神判=しんぱんのこと)を復活させたり、些細(ささい)なことで激怒して死罪などの厳しい処断を下したりした義教に対して、周囲は「万人恐怖」と震え上がりました。
義教からしてみれば、幕府や将軍の権威を高めるための当然の行為でもあったのですが、その余りにも強引な政治手法は、必然的に守護大名などの対立する勢力の反発を招くことになりました。そして義教の恐怖政治は、かの織田信長と同じように、突然その幕を下ろす日がやってくるのです。
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そのあまりの手際の良さに、周囲の誰もが何の手助けもできなかったそうです。なお、この事件は当時の年号から「嘉吉の乱」といいます。
義教の突然の最期は、幕府を含めた周囲に大混乱をもたらしました。義教を殺した赤松氏は幕府によって後に討伐されましたが、義教の死は、幕府や将軍の権威を必然的に大きく低下させ、この後二度と復活できなかったのです。
また、義教による厳しい政策と、彼を殺したことによって没落した赤松氏の存在とが、義満によってもたらされた「高貴な血統」をとんでもない悲劇に巻き込んでしまうことを、この後の誰が予想できたでしょうか。
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応永17(1410)年、自分の子を皇太子と認められないことを不服として、南朝の後亀山上皇が京都から吉野へと移られました。その後、応永19(1412)年に北朝の後小松天皇が子の称光天皇に譲位されると、南朝に味方した伊勢の国司(こくし、地方の国の行政官のこと)の北畠満雅(きたばたけみつまさ)が挙兵しましたが、失敗に終わりました。
戦後に幕府と和睦したことで、後亀山上皇は京都へ再び戻られ、そのまま応永31(1424)年に崩御されましたが、その後も、南朝の勢力は皇位を回復すべく、様々な手段で幕府と対立することになりました。
南北朝の合一以後における南朝のこれら一連の動きは、今日では「後南朝」と呼ばれています。
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またしても皇位継承の夢が破れた後南朝は、北畠満雅が後亀山天皇の孫にあたる小倉宮聖承(おぐらのみやせいしょう)を率いて再び挙兵しました。今度の戦闘は、鎌倉公方の足利持氏をも巻き込んだ激しいものとなりましたが、持氏が幕府と和睦したこともあり、満雅が討ち死にして挙兵は失敗に終わりました。
後南朝が朝廷や幕府に抵抗を続けることに激怒した将軍義教は、それまでの幕府の政策を転換して、後南朝の血統を根絶やしさせることを決断しました。すなわち、後南朝の子孫を片っ端から寺院に送り込むことで、子孫を残させないようにするとともに、彼らの家来を幕府が召(め)し抱えることで切り離そうとしたのです。
義教による徹底した対策によって、主だった後南朝の血統はすべて断絶してしまいましたが、「万人恐怖」と称された義教の厳しい処置に対する後南朝の恨みは深く、義教が嘉吉の乱で不慮の最期を遂げた後に前代未聞の大事件が起きてしまいました。
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この事件は「御所の内裏」を意味する「禁闕(きんけつ)の変」と呼ばれており、御所を襲ったのは金蔵主(こんぞうす)・通蔵主(つうぞうす)の兄弟など後南朝の人々でした。金蔵主と通蔵主は後亀山天皇の血を引いているとされていますが定かではなく、金蔵主は禁闕の変の際に討たれ、通蔵主などは捕えられて流罪(るざい)となり、その後の消息は不明となっています。
また、小倉宮聖承の子で出家していた教尊(きょうそん)も、禁闕の変への関与が疑われて隠岐(おき)へ流罪となり、小倉宮の血統も断絶となりました。
こうして事件そのものは鎮圧されましたが、三種の神器のうち神璽が後南朝に奪われたままであることは、天皇としての正当性を損ねることにつながることから、朝廷や幕府を不安にさせていました。
ところが、このような異常事態を解決するために、意外な人物が手を挙げたのです。それは、かつて嘉吉の乱で義教を殺害したために滅ぼされた赤松氏の遺臣でした。
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赤松氏は幕府にとって「将軍殺し」の天敵であり、禁闕の変の際にも後南朝側についていました。そんな赤松氏であれば、後南朝に味方と偽(いつわ)って吉野からさらに山奥まで入るのは容易(たやす)いことです。
幕府は赤松氏の申し出を許可すると、遺臣たちは長禄(ちょうろく)元(1457)年に後南朝の御所を襲い、南朝の血を引くとされる一ノ宮・二ノ宮兄弟を殺害しましたが、神璽については一時は持ち去ったものの、憤激した後南朝を支持する勢力によって奪い返されてしまいました。
赤松氏の遺臣たちは、1年後の長禄2(1458)年に一ノ宮・二ノ宮の母の御所を再び襲い、今度こそ神璽を奪い去ることに成功しました。こうして禁闕の変以来、多くの血を流して約15年ぶりに神璽が朝廷に戻ったのです。
これら一連の事件は、当時の年号から「長禄の変」と呼ばれています。なお、殺害された一ノ宮・二ノ宮の兄弟(別名を自天王=じてんのう、忠義王=ちゅうぎおう)は前述のとおり南朝の血を引くとされていますが、その詳しい血統は分かっていません。また、神璽を持ち帰った赤松氏は再興が認められ、後に守護大名に返り咲いています。
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さらには、義教が非業の死を遂げなければならなかった原因をつくった赤松氏によって、後南朝の御所に最後まで残っておられた高貴な血統を絶たれてしまうという悲劇にもつながってしまいました。歴史というものは、時として苛酷(かこく)な流れを生み出すものなのでしょうか。
こうして後南朝は歴史の表舞台から消滅しましたが、民間の伝承としては生き残り続け、後に明治44(1911)年に南朝が正統であると明治天皇がご裁断されてからは、自分こそが後南朝の末裔(まつえい)であると主張する人々が出現し始めました。なかでも有名なのは、第二次世界大戦の終戦直後に話題になった「熊沢天皇」こと熊沢寛道(くまざわひろみち)氏ですね。
ところで、後南朝が現時点で最後の史料にその姿が残されている「ある大乱」とは、いったい何のことでしょうか。
実は、それこそが戦国時代の幕開けになったとされる「応仁(おうにん)の乱」なのです(詳しくは後述します)。
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