一方、政府は明治15(1882)年に集会条例を改正して取り締まりを強化したり、同年に暴漢に襲われた自由党の板垣退助(その際に「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことで有名です)を外遊させたりするなど、自由民権運動を側面から切り崩そうとしました。
板垣らの外遊については、政府が政商の三井を通じて資金援助していましたが、これについては自由党の内部からも批判の声が多く、また政府の資金援助を受けたことに対して立憲改進党が自由党を攻撃すると、逆に自由党が立憲改進党と政商の三菱との密接な関係を攻撃するなど、自由民権運動の指導部が混乱状態になってしまいました。
行きづまりを見せた自由民権運動に対して、追いつめられた熱心な運動家の中には、急進的な考えから直接行動に訴える者も現われました。いわゆる「激化事件」の始まりです。
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これらの動きを自由党への弾圧(だんあつ)の好機と見た三島は、河野をはじめ多数の自由党員を検挙しました。これを「福島事件」といいます。なお、事件のきっかけとなった県道はその後に完成し、現在でも国道の一部として使用されています。
福島事件の発生は全国の急進的な運動家に大きな影響を与え、明治16(1883)年には新潟で「高田事件」が、明治17(1884)年には「群馬事件」や、同年に栃木県令となっていた三島通庸を暗殺しようとした「加波山(かばさん)事件」などが相次いで起こりました。
連続する激化事件の発生や運動資金の不足によって、党の運営に自信を無くした自由党の指導部は、明治17(1884)年10月末に党を解散しました。また、立憲改進党も同年末に大隈重信が離党したことで、事実上の解散状態となってしまいました。
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さらに翌明治18(1885)年には、旧自由党左派の大井憲太郎(おおいけんたろう)らが、朝鮮の独立党を支援して保守的政府を倒そうと計画しましたが、事前に発覚して大阪で検挙されました。これを「大阪事件」といいます。なお、朝鮮の独立党に関しては、いずれ詳しく紹介します。
こうした激化事件の発生と弾圧の連続によって自由民権運動は次第に衰退しましたが、国会開設の勅諭に基づいた国会の開設時期である明治23(1890)年が近づくと、再び盛り上がりを見せるようになりました。
明治20(1887)年、旧自由党の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、立憲改進党とのこれまでの対立状態を乗り越えるために、小異を捨てて大同につくことで団結しようとする「大同団結運動」を唱え、民権派の再結集を呼びかけました。
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三大事件とは「集会や言論の自由」「地租の軽減」「外交における失策の回復(=条約改正)」であり、二つの運動によって自由民権運動は再び熱を帯びてきました。
しかし、かつての激化事件の再来を恐れた政府は、同年末に「保安条例」を公布し、片岡健吉や尾崎行雄(おざきゆきお)・中江兆民(なかえちょうみん)・星亨(ほしとおる)らを即日東京から追放して、三大事件建白運動を鎮静化させました。なお、大同団結運動は明治22(1889)年に後藤象二郎が大臣として入閣したことをきっかけに崩壊(ほうかい)しています。
かくして、紆余曲折(うよきょくせつ)の末に息を吹き返した自由民権運動は、明治22(1889)年に発布された大日本帝国憲法や、翌明治23(1890)年に初めて開かれた帝国議会などを通じて、政府と議会との丁々発止(ちょうちょうはっし、激論を戦わせるさま)のやり取りが展開されることになります。
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さて、自由民権運動において政府は様々な条例を出して民権派の動きを抑えようとしました。一般的には明治8(1875)年の「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」、明治13(1880)年の「集会条例」、明治20(1887)年の「保安条例」が知られていますね。実は、これら3つの条例などの「分かりやすい覚え方」があることを皆さんはご存知でしょうか。
自由民権運動が始まった当初は、国民の多くが運動そのものの存在を知らないというのが当然でした。運動をできるだけ多くの国民に知ってもらおうと思えば、口コミで広げるか、あるいは当時読みはじめられた新聞を利用して拡散するのが一番手っ取り早いです。
しかし、口コミにウソや誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)があったり、新聞の内容に政治を批判する内容があったりすれば、政府が黙っているはずがありません。そこで「讒謗律」や「新聞紙条例」を出して取り締まろうと考えたのです。
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もちろん政府は取り締まろうとしますよね。集会での反体制運動への対応ですから、条例の名称は「集会条例」になります。
やがて自由民権運動は激化事件をもたらし、政府は軍隊を派遣までしてようやく事態を収拾しました。その後、国会開設が近づくと大同団結運動によって多くの民権派が東京へと集結しましたが、その中に反政府的な運動家が混じっていれば…。
激化事件で対策に苦労した政府が、首都の東京での暴動を許すはずがありませんよね。だとすれば治安を守る、つまり「保安」するための条例を出すのは当然の流れであり、だからこそ「保安条例」なのです。
これらのように、様々な歴史上の出来事を「大きな流れ」でとらえることによって、私たちはより楽しく歴史を学ぶことが可能になるのです。
※次回(10月11日)からは第74回歴史講座の内容について更新します。
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