また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政治が行われる傾向が見られたことで、その姿勢が「有司専制(ゆうしせんせい)」であるとの反感が高まりました。
そんな中、征韓論争の翌年にあたる明治7(1874)年に、板垣・後藤・副島・江藤らが「民撰(みんせん)議院設立の建白書」を、当時の政府の議事機関に相当する左院(さいん)に提出し、天下の公論に基づく議会政治の実現を求めました。これが自由民権運動のきっかけとされています。
なお、板垣退助らは建白書の提出とほぼ同時に、我が国最初の政治結社である愛国公党(あいこくこうとう)を設立しましたが、時期尚早(じきしょうそう)であったためか短期で自然消滅し、その後、郷里の高知に戻った板垣は、片岡健吉(かたおかけんきち)とともに「立志社(りっししゃ)」を興しています。
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明治政府が誕生して間もない明治元(1868)年旧暦3月に「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が発布(はっぷ)されていますが、その第一条には「広ク会議ヲ興(おこ)シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スヘシ」、現代語訳すれば「広く会議を開いて、あらゆることを公(おおやけ)の議論の場で決定すべきである」と書かれています。
つまり、政府は当初から議会政治を前提にした政策を目指していたのです。それに、自由民権運動のきっかけをつくった、いわゆる民権派の板垣退助らは、征韓論争に敗れて下野するまでは参議として政府内で活躍していましたから、当時の政府の基本的な政策を補うかたちで、国家や政府の体制を強化するために民撰議院設立の建白書を提出したという一面もありました。
ということは、自由民権運動は政府の基本方針に何ら反するものではなく、以後は政府と民権派とが、それぞれの立場から同時進行で、議会政治の実現に向けて試行錯誤を繰(く)り返しながら進んでいった、というのが正しい見方と言えるでしょう。
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政府内で孤立した大久保利通は事態を打開するため、翌明治8(1875)年1月から大阪・北浜で木戸や板垣退助と協議を行い、彼らの主張を受けいれて、政府がじっくりと時間をかけながら、将来的には憲法に基づく議会政治を行うことで合意しました。これを「大阪会議」といいます。
なお、大阪会議において、当初は各自がバラバラだった意見を最終的にまとめ上げたのが、仲介役であった五代友厚(ごだいともあつ)であったと伝えられています。
大阪会議に基づき、同明治8(1875)年4月に、明治天皇の名において「漸次(ぜんじ、「次第に、だんだん」という意味)立憲政体樹立の詔(みことのり)」が出されました。詔、すなわち「天皇のお言葉」で発表するというあたりに、後戻りが許されないという政府の覚悟がうかがえますね。
なお、大阪会議の後に、板垣や木戸が参議として政府に復帰しましたが、板垣は同じ明治8(1875)年2月に、民権派の全国組織である「愛国社(あいこくしゃ)」を大阪で結成すると、10月に再び下野しました。木戸も病気を理由に翌明治9(1876)年に参議を辞職しています。
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これらのうち、元老院や地方官会議には立法府の、大審院には司法府の性格を持たせており、これらは政体書(せいたいしょ)で示されていた「三権分立」の方針に基づいていました。
元老院では、前身となる左院の頃から始められていた、憲法案の調査研究を本格化させ、明治9(1876)年から憲法草案の起草に取りかかりました。元老院での草案は、明治13(1880)年に「日本国憲按(にほんこっけんあん)」として完成しましたが、欧米列強の各国の憲法の寄せ集め的な内容であったために、採用されず廃案となりました。
我が国初の憲法草案は残念ながら日の目を見ることがありませんでしたが、こうしたエピソードは、政府が議会政治の実現や憲法制定に対して積極的であったことを物語っていますね。
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また、西南の役などが終結して士族の反乱が落ち着いた明治11(1878)年に、地方自治制度の整備のため、政府は郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則のいわゆる「地方三新法」を制定しました。
これらによって、翌明治12(1879)年には府県会が全国で行われるなど、不完全ながらも地方政治が実現したことによって、自由民権運動は、都市から地方の農村にも広がるようになりました。
こうした事実に関して皆さんに確認したいのですが、もし自由民権運動を政府が一方的に取り締まるつもりならば、わざわざ地方政治を実現させて、彼らの勢いに火をつけることをするでしょうか。政府が府県会を開かせた理由は、将来の議会政治を実現できるだけの力量や民度を全国的に高めるため、と考えた方が自然ではないでしょうか。
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翌明治11(1878)年には各地の民権派が大阪に集まって、活動を休止していた愛国社を再興すると、明治13(1880)年3月に行われた愛国社の第4回大会で「国会期成同盟」が結成され、運動目標の中心を国会の開設要求としました。
一方、自由民権運動の激化によって、国内の治安が乱れるのを恐れた政府は、同じ明治13(1880)年の4月に「集会条例」を制定して、民権派の動きを抑えようとしました。
なお、自由民権運動を支えたのは、人は生まれながらに人間としての権利(=自然権)を持っているとする「天賦(てんぷ)人権の思想」が主であり、西洋の思想家であるルソーが著(あらわ)した社会契約論を中江兆民(なかえちょうみん)が翻訳(ほんやく)のうえ「民約訳解(みんやくやくかい)」として刊行し、世間に広めました。
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