その理由として、幕府を正当なものと認める後ろ盾となる朝廷が二つに分裂していたことがまず挙げられます。北朝は本来の朝廷の都である京都におわしましたが、本物の三種の神器は南朝に存在するとされたこともあって、尊氏に従った新興勢力の武士の中には、北朝の正当性に疑問符をつける者もいました。
また、武士にとっての本拠地は鎌倉などの東国であるため、尊氏も本当であれば関東で幕府を開きたかったのですが、南朝がいつ北朝に取って代わろうとするか予断を許さない状態が続いたため、やむなく京都で幕府を開いたのです。このため、鎌倉には尊氏に代わる別の組織として鎌倉府が置かれたのですが、関東で鎌倉府に権力が集中したことによって、やがて幕府と対立するようになっていきました。
さらには尊氏自身の資質にも問題がありました。尊氏は根っからの武人であったため、実際の政治は尊氏の弟である足利直義(あしかがただよし)が代行していましたが、その一方で武将にしては珍しく「優しくて良い人」だった尊氏は、功績のあった武将に気前良く領地を与えていました。しかし、領地が増えた武将がこの後に様々な権利を得ることによって守護大名と化したことによって、こちらも幕府のいうことを聞かなくなっていくのです。
加えて、南北朝の動乱が50年以上も続いてしまった大きな原因も、実は尊氏の「優しさ」にありました。尊氏は自身に偏諱を賜(たまわ)られた後醍醐天皇に対してどうしても非情になれず、隠岐などに追放して政治生命を断つことが出来なかったゆえに、天皇に吉野に逃げられて南朝を開かれてしまったからです。
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そんな折、尊氏の実子でありながら父に嫌われ、直義の養子となっていた足利直冬(あしかがただふゆ)が尊氏派によって九州へ追われると、地元の勢力を味方につけて尊氏に反旗を翻しました。
九州の激変ぶりに驚いた尊氏が、南朝の正平(しょうへい)5年/北朝の観応(かんのう)元(1350)年に直冬を討伐すべく自らが遠征すると、その隙をついて直義が南朝に降伏しました。南朝はこの頃までに尊氏派の武将によって吉野を追われて賀名生(あのう、現在の奈良県五條市)まで後退していたのですが、直義の降伏で息を吹き返すことになりました。
直義は反尊氏派の勢力を引き連れて、尊氏の子の義詮(よしあきら)が守っていた京都へ攻め込み、敗れた義詮は尊氏を頼って備前(びぜん、現在の岡山県)へと落ち延びました。室町幕府が成立してから10年以上も経っていながら、天下は再び大きく乱れ始めたのです。なお、これ以降の幕府の内乱は「観応の擾乱(じょうらん)」と呼ばれています。
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その後、一旦は和議が成立したものの、再び尊氏が直義を東西から挟み撃ちで倒そうとすると、尊氏の計略に気づいた直義は、京都を脱出して北陸伝いに鎌倉へ攻め込もうとしました。
武家政権発祥の地である鎌倉を奪われては尊氏の立場がありません。尊氏は直ちに直義軍を追撃しようとしましたが、自分が遠征している間に直義派となった南朝に京都を制圧されて尊氏追討の綸旨(りんじ)を出されれば、自分が朝敵となって滅亡への道を歩んでしまうのは火を見るより明らかでした。
進退窮(きわ)まった尊氏は、北朝から征夷大将軍に任じられているにもかかわらず、それまで敵対していた南朝と手を結んで、自分の味方につけるしか手段がありませんでした。
以前には後醍醐天皇、今回は直義といった、自分に敵対する勢力を政治的に抹殺することなく「生かして」しまったことで、尊氏は多くの血を流したうえにやっとの思いで構築した政治のシステムを、自らの手で破壊せざるを得なかったのです。
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南朝は尊氏が遠征した隙をついて、北畠親房の指揮によって京都へ攻め込み、幕府予備軍であった義詮の軍勢を敗走させると、勢いに乗った南朝は、北朝の三人の上皇と皇太子を、自分たちが追われていた賀名生へと移しました。
かくして後醍醐天皇が吉野朝廷を開いて以来、後醍醐天皇の子の後村上(ごむらかみ)天皇によって、16年ぶりに南朝が京都を支配するようになったのです。時に南朝の正平7年/北朝の観応3(1352)年旧暦閏(うるう)2月のことでした。
しかし、南朝の天下は長続きしませんでした。体勢を立て直した義詮が京都へ再び攻め込んだからです。南朝はしばらくの間は持ちこたえたものの、同年旧暦5月には追い落とされ、後村上天皇や親房は再び賀名生へと逃れていきました。ちなみにこの後、南朝は一度も京都を回復しないまま、南朝の元中(げんちゅう)9年/北朝の明徳少し大きい文字(めいとく)3(1392)年に北朝との合一(ごういつ)を迎えることになります。
なお、南朝と義詮とが争っている間に、尊氏と戦って敗れた直義が南朝の正平7年/北朝の観応3(1352)年旧暦2月に急死しました。尊氏による毒殺説もありますが、直義を討つために南朝と和睦するなど、幕府政治の根幹を揺(ゆ)るがした後となっては、すべてが手遅れでした。
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南朝の勢力が賀名生へ逃げ帰った後も、北朝の三人の上皇や皇太子は連れ去られたままであり、天皇であることを証明する三種の神器も南朝に奪われたままでした。
義詮は仕方なく、京都に残っておられた光巌上皇の第二皇子の弥仁(いやひと)親王を、神器も後見役となる上皇の存在もなしで無理やり後光厳(ごこうごん)天皇として即位させましたが、天皇の正当性としては神器を所有する南朝に遠く及ばず、北朝の権威が著しく低下するという悪影響をもたらしてしまいました。
ちなみに、こうした北朝の権威の低下が、後の「ある足利将軍」の「大きな野望」へとつながっていくことになります。
なお、尊氏は翌年の南朝の正平8年/北朝の文和(ぶんな、または「ぶんわ」)2(1353)年にようやく京都へと戻りましたが、その後も直冬の攻撃を受けるなど混乱が続いた後、自分の代で平和を達成できぬまま、南朝の正平13年/北朝の延文(えんぶん)3(1358)年に54歳で死去しました。
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「優しい人」「気前の良い人」といえば人間が本来持つべき性格であるとされ、私たち一般人の間では好かれる傾向にありますが、政治の世界においてはマイナスでしかありません。
なぜなら、尊氏の「優しさ」は政敵を抹殺することをためらわすことで「優柔不断」となり、結果として幕府の将来に暗雲をもたらしてしまったからです。
尊氏が亡くなった南朝の正平13年/北朝の延文3(1358)年において、幕府の勢力が及んだ地域は鎌倉と京都が目立つのみであり、中国地方は足利直冬が、九州は後醍醐天皇の子である懐良(かねよし、または「かねなが」)親王が実質的な支配を固めていました。
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さらには、絶対的なカリスマ性を持っていた源頼朝と比較して、源氏の名門出身ではあったものの将軍として君臨するにはただでさえ器量不足だった尊氏が他の勢力に「気前良く」領土を与えたことで、やがては守護大名が幕府のいうことを聞かなくなるという結果をもたらし、足利家そのものの地位をさらに低下させてしまいました。
こうした尊氏のいわゆる「負の遺産」をどう処理すればよいのかという大きな課題が、室町幕府代々の将軍を悩ませるとともに、我が国の歴史にも大きな影響を及ぼしていくのです。
(※第73回歴史講座の内容はこれで終了です。次回からは、リニューアルした通史の明治時代の更新の続編を開始します)
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