寛元4(1246)年に後嵯峨天皇が子の後深草(ごふかくさ)天皇に譲位されて院政を始められると、やがて後深草天皇の同母弟(どうぼてい、母を同じくする弟のこと)である亀山(かめやま)天皇に譲位させ、さらに亀山天皇の子の世仁(よひと)親王を皇太子にされました。
その後、後嵯峨上皇(後に出家されて法皇となられました)が文永9(1272)年に皇位の継承者を鎌倉幕府に一任される形で崩御されると、幕府は世仁親王を後宇多(ごうだ)天皇として即位させる一方で、次の皇太子を後深草天皇の子である熈仁(ひろひと)親王に決めました。
要するに、幕府の調停によって、後深草天皇の血統である持明院統(じみょういんとう)と亀山天皇の血統である大覚寺統(だいかくじとう)とが、まるでキャッチボールのように交代しながら皇位につかれることになったのです。いわゆる「両統迭立(りょうとうてつりつ)」が続いたことによって、両統は幕府に働きかけて自己の血統に有利な地位を得ようとするなど、やがてお互いに激しく争うようになりました。
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ちなみに、天皇の追号は崩御後に決められるものですが、平安時代の醍醐(だいご)天皇による「延喜(えんぎ)の治(ち)」を理想とされた後醍醐天皇は、自らを「後醍醐」と追号されるように生前からお決めになっておられました。ご自身の理想の高さと強い決意の現れと判断すべきかもしれません。
さて、後醍醐天皇が親政を始められた頃の鎌倉幕府は、14代執権の北条高時(ほうじょうたかとき)や内管領の長崎高資(ながさきたかすけ)による得宗専制政治が行われる一方で、分割相続などによって御家人の窮乏化が進んだことで、幕府に対する反発が大きくなっていました。
これを好機と思われた後醍醐天皇は討幕の計画を二度も進められましたがいずれも失敗され、幕府によって隠岐へと流されました。なお、元亨(げんこう、または「げんきょう」)4(1324)年に起きた一回目の討幕は「正中(しょうちゅう)の変」と呼ばれ、二回目の元弘(げんこう)元(1331)年は「元弘の変」と呼ばれています。
後醍醐天皇が隠岐に流された後、鎌倉幕府は持明院統の光厳(こうごん)天皇を皇位に立てましたが、後醍醐天皇が退位を拒否されたため、お二人の天皇が並立されることになり、これが後の南北朝時代のきっかけとなりました。
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正成はわずかな兵で幕府軍に抵抗を続けましたが、その貢献度は絶大でした。なぜなら鎌倉幕府は武家政権ですから、大軍で攻め込みながらわずかな兵の正成の軍勢に勝てないということは、それだけ幕府の威信に傷がつくからです。事実、正成がしぶとく戦っている間に、全国各地で討幕の軍勢が次第に集まってきました。
討幕の軍勢が自然と増加していった大覚寺統の元弘3年/持明院統の正慶(しょうきょう、または「しょうけい」)2(1333)年、後醍醐天皇は隠岐を脱出され、伯耆(ほうき、現在の鳥取県西部)の名和長年(なわながとし)を頼って挙兵されました。
この事態を重く見た幕府は、北条氏と姻戚(いんせき)関係にあった有力御家人を現地へ派遣しましたが、その御家人こそが足利高氏(あしかがたかうじ)でした。
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高氏は他の反幕府勢力を率いて京都へ入り、大覚寺統の元弘3年/持明院統の正慶2(1333)年旧暦5月7日に六波羅探題を滅ぼしました。
同じ頃、高氏と同じ源義家の血を引く新田義貞(にったよしさだ)も、上野(こうずけ、現在の群馬県)で討幕の兵を挙げて鎌倉へ向かいました。
義貞は鎌倉を脱出した高氏の子の千寿王(せんじゅおう、後の足利義詮=あしかがよしあきら)と合流して、一緒に鎌倉を攻めました。旧暦5月18日には北条氏最後の執権である第16代の北条守時(ほうじょうもりとき)を滅ぼし、22日には得宗の北条高時や内管領の長崎高資らを自害に追い込んで、源頼朝以来約140年続いた鎌倉幕府はついに滅亡しました。
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しかし、余りに多くの案件が天皇ご自身に殺到したため、現実には中央の機関として行政や司法などの重要な政務をつかさどる記録所(きろくしょ)や、土地に関する訴訟を扱った雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)などを置かれました。なお、雑訴決断所は旧幕府の引付(ひきつけ)に相当します。
この他にも、北条氏を滅ぼした勲功(くんこう)に対する恩賞を定めた恩賞方(おんしょうがた)や、軍事や警察をつかさどる武者所(むしゃどころ)が置かれたほか、地方にはこれまでどおり国司(こくし)と守護が並んで置かれました。
また軍事面では、天皇ご自身が軍隊をお持ちでなかったため、子の護良親王を征夷大将軍に任命されたほか、旧幕府の本拠地であった関東や東北には、それぞれ鎌倉将軍府や陸奥将軍府が置かれました。
後醍醐天皇によるこれらの新しい政治は、幕府滅亡の翌年(1334年)に改められた「建武(けんむ)」という年号から「建武の新政」と呼ばれています。
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ご自身が幕府を倒すために何度も討幕の兵を挙げられ、結果として建武の新政が実現できたことは、後醍醐天皇にとっては当然のことであり、このままご自身による親政が永遠に続くとお考えでした。
しかし、後醍醐天皇に味方して幕府を倒すのに協力した武士たちは、勢力が衰えて政治を任せられなくなった幕府の代わりに、他の武士による新しい組織のもとで、これまでどおりの「武士による政治」を続けることを望んでいました。
それなのに、後醍醐天皇は皇族や公家のための政治のみを実行されるだけでなく、これまで守られてきた土地の所有権などの武士の権利がないがしろにされたことで、建武の新政に対する武士たちの不満が次第に高まっていきました。
かつての平家による政権が貴族化した際もそうであったように、いくら武力などで世の中を支配したところで、それが国民の理解を得られなければ、その支配は絶対に長続きできないのです。今回の場合も、当時の国民の代表たる武士の期待に応えられなかった建武の新政には、やがてかげりが見え始め、そんな不穏(ふおん)な空気を察したかのように、後醍醐天皇から「最高の栄誉」を受けたはずの一人の武士が反旗を翻(ひるがえ)しました。
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このように、身分の上位の人間が下位の人間に対して自分の名前の一部を与えることを偏諱(へんき)といいます(なお、それまで名乗っていた高氏の「高」は、北条高時から同じように偏諱を受けていました)。天皇が身分の低い者、ましてや「ケガレた者」として虫けらのような存在であった武士に対して偏諱を受けさせるのは空前絶後のことでした。
しかし、尊氏が本当に欲しかったのは征夷大将軍の地位であり、目指していたのは「武士のための政治」を自分が行うことでした。源義家の血を引く武家の名門の子孫である自分自身こそが、北条氏に代わって政治の実権を握るにふさわしいと考えていたのです。
そんな折、建武2(1335)年に北条高時の子の北条時行(ほうじょうときゆき)が関東で中先代(なかせんだい)の乱を起こし、一時期は鎌倉を占領しました。尊氏は乱の鎮圧を口実に、後醍醐天皇の許可を得ないまま鎌倉へ向かって時行軍を追い出すことに成功すると、そのまま鎌倉に留まって独自に恩賞を与え始めるなど、後醍醐天皇から離反する姿勢を明らかにしました。
尊氏の謀反に激怒された後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏の追討を命じられましたが、尊氏は義貞軍を打ち破ると、そのまま京都まで攻めのぼりました。しかし、奥州から北畠親房が入京すると朝廷軍は勢いを盛り返し、敗れた尊氏は九州へ落ちのびました。
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尊氏の動きに対して、後醍醐天皇は楠木正成に摂津の湊川(みなとがわ、現在の兵庫県神戸市湊川)で尊氏軍を迎え討つよう命じられましたが、正成は尊氏に敗れて自害しました。いわゆる「湊川の戦い」のことです。
尊氏が再び京都を制すると、後醍醐天皇は比叡山(ひえいざん)に逃れられ、光厳上皇の弟にあたる光明(こうみょう)天皇が新たに即位されたことで、再びお二人の天皇が同時にご在位されることになりました。
後醍醐天皇は京都に幽閉(ゆうへい、閉じ込めて外に出さないこと)された後、尊氏との和睦(わぼく)に応じて、天皇であることを証明する三種の神器を光明天皇に渡されましたが、その後に隙(すき)を見て京都を脱出され、奈良の吉野へ向かわれました。
吉野に到着された後醍醐天皇は、光明天皇に渡された三種の神器は偽物であると宣言されて、新たに朝廷を開かれた後、南朝の延元(えんげん)4年/北朝の暦応(りゃくおう、または「れきおう」)2(1339)年に崩御されました。かくして、京都の朝廷(=持明院統)と吉野の朝廷(=大覚寺統)とが並立し、以後約60年にわたって争いを繰り返す「南北朝の動乱」が本格的に始まったのです。
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