また、廃藩置県によって全国の藩兵は解散させられましたが、一部は兵部省(ひょうぶしょう)の下で明治4(1871)年に東京・大阪・鎮西(ちんぜい、後に熊本)・東北(後に仙台)の4か所に設けられた「鎮台(ちんだい)」に配置されました。なお、翌明治5(1872)年に兵部省は陸軍省と海軍省に分離され、明治6(1873)年には名古屋・広島の二つの鎮台が加わっています。
国内治安対策に重点を置いた鎮台は、やがて明治21(1888)年に廃止され、国際的な対外戦争を視野に入れた「師団(しだん)」に改組(かいそ)されました。現代の陸上自衛隊における「第○師団」という編成名は、このような歴史に由来しており、関西地方では兵庫県伊丹市に「第三師団」が存在しています。
さて、先述のとおり明治4(1871)年に断行した廃藩置県ですが、旧藩士の俸禄を肩代わりした政府の負担が重かったことから、将来的に俸禄の支給の廃止を視野に入れていました、なお、先述した秩禄処分はこの流れで実現したものです。
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また、欧米列強にも負けない近代的な軍隊を編成することも考えていた政府にとって、武士に頼らないためにも、すべての国民が兵役に服するべきであるとする、いわゆる「国民皆兵(かいへい)」が重要であると考えるようになりました。
国民皆兵は、初代の兵部大輔(ひょうぶたいふ)の大村益次郎(おおむらますじろう)が唱えていましたが、大村が明治2(1869)年に暗殺されると、その遺志を継いだ山県有朋(やまがたありとも)によって具体化されました。
政府は、明治5(1872)年に「全国徴兵の詔(みことのり、天皇の言葉を直接伝える文書のこと)」や「徴兵告諭(こくゆ)」を出すと、それに基づいて翌明治6(1873)年1月に「徴兵令」を公布しました。
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当初の徴兵令には様々な例外規定があり、戸主や官吏・学生などは兵役が免除されていたほか、代人料として当時は高額だった金270円を納めた者も免除されており、中には「徴兵免役心得(ちょうへいのがるるのこころえ)」のような冊子(さっし)をつくって売る人物もいたそうです。
このため、実際に兵役についたのは、ほとんどが農家の二男以下でした。また、徴兵告諭の中の外国語を直訳した「血税(けつぜい)」という言葉が「徴兵されたら血を抜かれる」と誤解されたことで、全国で「血税一揆」などの騒動が起きるなど、当初は混乱が多発したものの、国民皆兵は次第に我が国に広がっていきました。
しかし、国民皆兵の我が国への広がりは、同時に「軍事の専門職」として存在していた、かつての武士である士族が我が国で不要となったことを意味しており、政府はこの後に、先述した秩禄処分や廃刀令といった、士族の特権を奪う政策を行うようになりました。
特権を奪われた士族は、やがて各地で反乱を起こしますが、徴兵令で編成された政府の軍隊と対決して敗北することで、国民皆兵が完全に定着することになるのです(詳細は後述します)。
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その後、明治6(1873)年に「内務省(ないむしょう)」が設置されると、全国の警察組織は内務省に統括されるようになり、翌明治7(1874)年には東京に「警視庁(けいしちょう)」が創設されました。
警視庁の設置に伴(ともな)い、それまでの邏卒が「巡査」に改称されたほか、川路利良(かわじとしよし)が初代の大警視(現在の警視総監)に就任しました。
なお、川路は近代的な警察制度の改革に尽力した人物であり、後に「日本警察の父」と称えられています。
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