さらに明治4(1871)年には「身分解放令」が出され、従来の「穢多(えた)・非人(ひにん)」の呼称(こしょう)をやめ、平民と同じ扱いにしましたが、長く続いた差別の根本的な解消は容易ではありませんでした。
なお、同じ明治4(1871)年に「戸籍法(こせきほう)」が公布され、翌明治5(1872)年には我が国初の近代的な戸籍である「壬申(じんしん)戸籍」がつくられました。
ちなみに明治6(1873)年当時の我が国の人口は約3,300万人であり、このうち平民は約3,110万人で全体の93.4%を占(し)めていました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、明治6(1873)年には「徴兵令」が定められたことで(詳細は後述します)、士族とは無関係で兵力を確保できる見通しが立つようになったことから、政府は同じ明治6(1873)年に、希望者に対して秩禄の支給を停止する代わりに、一時金を支払う「秩禄奉還(ほうかん)の法」を定めました。
現代でいえば「早期の希望退職者の募集」に相当するこの制度によって、全士族の約3分の1の秩禄が整理されました。
そして、徴兵令の公布から3年か経過して、政府が自前で育てた軍隊が編成されたことを受け、政府は明治9(1876)年に、すべての受給者に対して「金禄(きんろく)公債証書」を与える代わりに秩禄を廃止しました。これを「秩禄処分」といいます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかも、現金化が可能となるまでは年間の利息分しか支給されず、華族などの高禄者が投資などで生計を立てることが可能だった一方で、生活できない額の利息しかもらえなかった多くの士族が困窮(こんきゅう)するようになってしまいました。
利息だけでは生活できない士族たちは、官吏や巡査、あるいは教員などに転身した一方で、証書を手放して得た一時金で慣れない商売に手を出したものの、いわゆる「士族の商法」で失敗する者があとを絶ちませんでした。
政府は士族救済のために事業資金を貸し付けたり、屯田兵(とんでんへい)など北海道の開拓事業を行ったりする(詳細は後述します)など「士族授産」の道を講じましたが、成功した例は少なく、没落する士族が増えていきました。また、これとは別に、秩禄処分と同じ明治9(1876)年に士族の帯刀(たいとう)を禁じる「廃刀令」が出されており、二重の意味でそれまでの特権を奪われた士族の憤激(ふんげき)が次第に強くなっていきました。
こうした流れに加えて、急進的な近代化にこだわるあまり、日本の伝統を粗末(そまつ)に扱おうとした当時の明治政府への日本精神からの異議申し立てという一面もあったことで、国内において「士族の反乱」が相次いで起きるようになるのです(詳細は後述します)。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。