しかし、欧米列強による侵略から我が国の独立を守るためには、権限と財源の政府への一元化を、すなわち政府の命令を全国津々浦々にまで行き届けるために「中央集権化」をめざす必要がありました。
このため、政府は明治2(1869)年旧暦1月に、木戸孝允(きどたかよし)や大久保利通(おおくぼとしみち)らの働きかけにより、薩摩・長州・土佐・肥前(佐賀)の4藩主に連名で「版籍奉還(はんせきほうかん)」を出願させました。
版籍奉還とは、藩が持つ領地(=版図)と領民(=戸籍)を還(かえ)し奉(たてまつ)る(=朝廷に返上する)ことであり、朝廷=天皇にお返しするという形式に、すなわち天皇を前面に押し出すことで、他の諸藩も返還に応じやすくさせるという思惑がありました。なお、政府は同年旧暦6月に、諸藩に版籍奉還を命じています。
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政府が、藩が持っていた「領地」「領民」「政治の実権」のうち、領地と領民を返上させる一方で、政治の実権を残した背景には、いきなりすべての権利を奪(うば)ったのでは、各藩主の反発があまりにも大きいと判断したという事情がありました。
しかし、我が国における完全な中央集権化を目指していた政府からすれば、版籍奉還だけでは「不完全」であることに変わりはありません。
また、政府の直轄地である府や県では、年貢(ねんぐ)の徴収をめぐって一揆(いっき)が多発したほか、諸藩でも従来と変わらない徴税に対する庶民の不満が高まるなど、抜本的な改革が求められるようになっていました。
このため、政府は藩制度を全廃することを決断しましたが、すべての旧藩主から政治の実権を一方的に奪うことになりますので、慎重に対策を講じました。
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これによって、すべての藩は廃止されて県となり、知藩事は罷免(ひめん)されて東京居住を命じられ、各府県には新たに中央政府から「府知事」や「県令」が派遣(はけん)されました。
廃藩置県は大きな混乱もなく平和的に行われ、政府による中央集権体制が名実ともに整いましたが、このことは、我が国に在住する諸外国人から驚きの声があがりました。なぜなら、廃藩置県によって、我が国で長く続いてきた「特定の領主がその領地を支配する」という土地制度が根本的に改革されてしまったからです。
それまで当然のように持っていた領地への支配権を、わずか一日で無理やり没収されるのですから、激しい軍事的抵抗があってもおかしくなかったのですが、なぜ廃藩置県は劇的に成功したのでしょうか。
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まず挙げられるのは、当時の多くの武士たちが持っていた「先祖代々続いてきた我が国を守らなくてはいけない」という強い使命感でした。ある意味「武士の集団自殺」ともいえる大事業は、一人ひとりの武士の気概(きがい)によって支えられていたのです。
また、他にも「経済的な事情」がありました。この頃の諸藩の財政はほとんどが破綻(はたん)しており、多額の負債を抱えていましたが、廃藩置県によって明治政府が肩代りすることになったのです。それ以外にも、旧藩主が華族(かぞく)として優遇されていたことや、旧藩士に与えられていた俸禄(ほうろく)を政府が当分の間保証した、という現実的な一面もありました。
なお、廃藩置県によって当初は3府302県が置かれましたが、その後統廃合が繰(く)り返され、明治21(1888)年には現在に近い3府(東京・大阪・京都)43県となっています。
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すなわち、従来の太政官の外に、神々の祀(まつ)りをつかさどる神祇官(じんぎかん)を復興し、太政官の下に民部省(みんぶしょう)などの各省を置きました。その後、廃藩置県が行われた明治4(1871)年にさらに改革され、太政官を「正院(せいいん)・左院(さいん)・右院(ういん)」の「三院制」としました。
このうち、正院は現在の内閣に相当する太政官の最高機関であり、太政大臣・左大臣・右大臣の3大臣と参議とで構成され、神祇官から改変した神祇省(じんぎしょう)を含む各省は太政官に属しました。また、左院は立法機関にあたり、右院は行政上の調整機関として存在しました。
政府内では、三条実美(さんじょうさねとみ)や岩倉具視(いわくらともみ)といった公家(くげ)とともに、薩摩・長州・土佐・肥前(佐賀)のいわゆる「薩長土肥(さっちょうとひ)」の若き実力者たちが政治の実権を握りました。彼らによる政権は、後に「藩閥(はんばつ)政府」と呼ばれるようになります。
なお、薩長土肥の主な人物は、薩摩藩が西郷隆盛・大久保利通・黒田清隆(くろだきよたか)、長州藩が木戸孝允・伊藤博文(いとうひろぶみ)・井上馨(いのうえかおる)・山県有朋(やまがたありとも)、土佐藩が板垣退助(いたがきたいすけ)・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、肥前(佐賀)藩が大隈重信(おおくましげのぶ)・副島種臣(そえじまたねおみ)・江藤新平(えとうしんぺい)らです。
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