しかし、大逆罪はそもそも日本の皇族を想定してつくられており、同じ皇族といえども外国人にまで適用させるのは無理がありました。また、戒厳令のような非常の手段で死刑にしたとしても「法に規定が存在しないのに無理やり死刑にした」ことに変わりはなく、近代的な法治国家をめざす我が国がとるべき手段ではありませんでした。
加えて、いくら国際問題に発展しかねないからといえ、政府が裁判所に刑罰を強要するという行為は、司法権の独立を揺るがす大問題であり、近代国家として許されるものでないことは明らかでした。
結局、当時の大審院長(だいしんいんちょう、現在の最高裁判所長官)であった児島惟謙(こじまいけん、または「こじまこれかた」)は政府の要求をはねつけ、犯人の津田に刑法の規定どおり無期徒刑の判決を下しました。
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徳川家による江戸幕府の「大政奉還(たいせいほうかん)」から「王政復古の大号令」を経て、政治の実権を握った明治新政府でしたが、その前途は多難であり、なさねばならない課題が山積していましたが、なかでも最大の問題は「いかにして我が国の独立を守り、他国からの植民地化を防ぐか」ということでした。
明治維新が始まった頃の19世紀後半のアジアは、帝国主義を標榜(ひょうぼう、主義・主張や立場などを公然と表すこと)する欧米列強による植民地化が進んだ、いわゆる「草刈り場」のような状態であり、超大国と思われていた清国(しんこく)ですら、アヘン戦争やアロー戦争の敗北によって、香港(ホンコン)などの主要都市を諸外国の支配下に置くことを認めざるを得ないという厳しい状況だったのです。
そんな大変な時期に、我が国の命運を託された明治新政府の責任感や重圧、加えて周囲が外敵だらけという心細さは、現代の私たちには想像もつかないほど大きかったのではないでしょうか。
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しかし、それまで260年以上も政治を行ってきた江戸幕府に比べ、産声(うぶごえ)をあげたばかりの新政府が、いくら優れた政策を実行しようとしたところで、果たしてどれだけの国民がついてくるというのでしょうか。
そこで新政府は、我が国の元首であり長い歴史を誇る天皇の意味について深く考え、至高(しこう、この上もなく高くすぐれていること)の権威(けんい)をお持ちの天皇の名の下で政治を行う以外に、国民をまとめると同時に彼らの支持を得る方法は無いという結論に至りました。
また、折からの「尊王攘夷(そんのうじょうい)運動」によって、皇室に対する尊敬の思いが国民の間で高かった当時の世情も、新政府を後押しする流れにつながりました。
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新政府からすれば、自分たちが政治の実権を握る前に、江戸幕府が諸外国に無理やり結ばされた不平等条約など引き継ぎたくはありませんでしたが、政権が交代しても、国家間のルールをそのまま継承するのが世界の常識であった以上、やむを得なかったのです。
明治元(1868)年旧暦3月14日、明治天皇は新しい政治の基本方針をまとめた五箇条を、百官(=数多くの役人)を率いて天神地祇(てんしんちぎ、すべての神々)にお誓いされました。これを「五箇条の御誓文(ごせいもん)」といいます。
五箇条の御誓文の主な内容としては、公議世論(こうぎよろん、世の多くの人々の様々な議論のこと)の尊重や、攘夷をせずに開国和親を推進することなどが挙げられますが、これらは明治新政府にとっての「マニフェスト」でもありました。
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なお、御誓文の内容は、参与の由利公正(ゆりきみまさ)や福岡孝弟(ふくおかたかちか)が起草したものに、木戸孝允(きどたかよし)が修正を加えて完成しています。
五箇条の御誓文の内容は以下のとおりです。
一、広ク会議ヲ興(おこ)シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スヘシ
[意味:広く会議を開いて、あらゆることを公(おおやけ)の議論の場で決定すべきである]
一、上下(しょうか)心ヲ一(いつ)ニシテ盛(さかん)ニ経綸(けいりん)ヲ行フヘシ
[意味:上の者も下の者もお互いに協力して、国家を治める政策を行うべきである]
一、官武一途庶民(かんぶいっとしょみん)ニ至ル迄(まで)各(おのおの)其(その)志(こころざし)ヲ遂(と)ケ人心ヲシテ倦(う)マサラシメン事ヲ要ス
[意味:役人や軍人、あるいは庶民に至るまで、それぞれの意志が達成できるようにし、途中で人々があきらめたり、やる気を失ったりするようなことがないようにすべきである]
一、旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ
[意味:過去のあやまった風習や弊害をやめ、何事も天地の道理たる人としての道にのっとるべきである→「攘夷をやめ、国際法に従うべきである」とも解釈されています]
一、智識ヲ世界ニ求メ大(おおい)ニ皇基(こうき)ヲ振起(しんき)スヘシ
[意味:知識を世界に求め、天皇が国を治める基礎をなすように奮い立つべきである]
ちなみに、五箇条の御誓文が発表された明治元(1868)年旧暦3月14日は、江戸で西郷隆盛(さいごうたかもり)と勝海舟(かつかいしゅう)との会談が成立した日でもあります。当時の御所は京都にありましたから、我が国の西と東で同じ日に歴史的な出来事があったんですね。
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三権分立制についてはアメリカの憲法を参考にしており、議政官は上局(じょうきょく)と下局(かきょく)に、また行政官は神祇官(じんぎかん)・会計官・軍務官・外国官にそれぞれ分かれていました。
議政・行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法の各官を総称して「七官」とも呼ばれます。なお、三権分立といってもそれぞれの独立性は低く、また政体書によって高級官吏(かんり)を4年ごとに互選させるようにしていましたが、実際に行われたのは一回だけでした。
ちなみに、明治政府の組織については、この後も短い期間で次々と変更されるので注意が必要です。
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そこで、政府は応急の措置(そち)として、五箇条の御誓文が発表された翌日の明治元(1868)年旧暦3月15日に、全国の庶民に向けて「五榜(ごぼう)の掲示(けいじ)」を公布しました。
五榜の掲示の主な内容としては、君臣や父子あるいは夫婦間の道徳を守ることや、徒党や強訴の禁止、キリスト教の禁止、外国人への暴行の禁止、郷村からの脱走の禁止など、旧幕府の政策を引き継いだものでした。
このうち、キリスト教の禁止については欧米列強の反対が強く、明治6(1873)年に廃止されましたが、これによって、我が国で「鎖国(さこく)」と呼ばれた状態が完成して以来、約230年ぶりにキリスト教が公認されたことになりました。
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新政府の内部では、大久保利通(おおくぼとしみち)が大坂(=現在の大阪)への遷都を主張しましたが、江戸城が無血開城となり、江戸の街が戦火によって都市機能を破壊されることなく新政府に引き渡されてからは、江戸に新首都を置くべきであるという意見が強くなりました。
江戸に遷都する理由の一つとしては、それまで幕府の本拠地として栄え、100万人以上の人口を抱える世界有数の大都市である江戸が、幕府がなくなったことで寂(さび)れてしまう危険性があったことでした。
もう一つの理由は、非常に現実的なものでした。新たに首都を定めるということは、役所などの政治システムや、商業施設などの経済システムなども新たに備えなければいけませんが、新政府には首都の機能を一からつくる資金もなければ、それだけの広い土地も我が国にはありません。
しかし、江戸には約260年間続いた幕府の組織がそのまま残っているほか、商業の流通網(りゅうつうもう)も長年のノウハウが活かされていますし、かつての武家地の面積は非常に広大で、再開発が容易であるというメリットがあったのです。
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明治の元号は慶応4年旧暦1月1日からさかのぼって適用され、以後は天皇一代につき元号一つと決められました。これを「一世一元(いっせいいちげん)の制」といいます。
一世一元の制によって、天皇が交代するまでは同じ元号を使用するとともに、天皇の崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)後には元号をそのまま追号とすることになりました。この制度は現代にも受け継がれています。
明治元(1868)年旧暦9月20日、明治天皇は東京へと行幸(ぎょうこう、天皇が外出されること)され、翌10月に到着されると、江戸城を東京城と改められました。その後、一旦(いったん)京都へ戻られた明治天皇は、翌明治2(1869)年旧暦3月に再び東京へと行幸されると、東京城を皇城(こうじょう、現在の皇居)として定住されるようになりました。
明治天皇が一旦京都へと戻られたのは、それまで1000年以上も首都であった京都の市民の落胆(らくたん)をお慰(なぐさ)めされるためだったといわれています。その後、明治2(1869)年に我が国の首都が東京と正式に定められましたが、これを「東京遷都」、または「東京奠都(てんと、奠都とは「都を定める」という意味)」といいます。
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しかし、欧米列強による侵略から我が国の独立を守るためには、権限と財源の政府への一元化を、すなわち政府の命令を全国津々浦々にまで行き届けるために「中央集権化」をめざす必要がありました。
このため、政府は明治2(1869)年旧暦1月に、木戸孝允(きどたかよし)や大久保利通(おおくぼとしみち)らの働きかけにより、薩摩・長州・土佐・肥前(佐賀)の4藩主に連名で「版籍奉還(はんせきほうかん)」を出願させました。
版籍奉還とは、藩が持つ領地(=版図)と領民(=戸籍)を還(かえ)し奉(たてまつ)る(=朝廷に返上する)ことであり、朝廷=天皇にお返しするという形式に、すなわち天皇を前面に押し出すことで、他の諸藩も返還に応じやすくさせるという思惑がありました。なお、政府は同年旧暦6月に、諸藩に版籍奉還を命じています。
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政府が、藩が持っていた「領地」「領民」「政治の実権」のうち、領地と領民を返上させる一方で、政治の実権を残した背景には、いきなりすべての権利を奪(うば)ったのでは、各藩主の反発があまりにも大きいと判断したという事情がありました。
しかし、我が国における完全な中央集権化を目指していた政府からすれば、版籍奉還だけでは「不完全」であることに変わりはありません。
また、政府の直轄地である府や県では、年貢(ねんぐ)の徴収をめぐって一揆(いっき)が多発したほか、諸藩でも従来と変わらない徴税に対する庶民の不満が高まるなど、抜本的な改革が求められるようになっていました。
このため、政府は藩制度を全廃することを決断しましたが、すべての旧藩主から政治の実権を一方的に奪うことになりますので、慎重に対策を講じました。
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これによって、すべての藩は廃止されて県となり、知藩事は罷免(ひめん)されて東京居住を命じられ、各府県には新たに中央政府から「府知事」や「県令」が派遣(はけん)されました。
廃藩置県は大きな混乱もなく平和的に行われ、政府による中央集権体制が名実ともに整いましたが、このことは、我が国に在住する諸外国人から驚きの声があがりました。なぜなら、廃藩置県によって、我が国で長く続いてきた「特定の領主がその領地を支配する」という土地制度が根本的に改革されてしまったからです。
それまで当然のように持っていた領地への支配権を、わずか一日で無理やり没収されるのですから、激しい軍事的抵抗があってもおかしくなかったのですが、なぜ廃藩置県は劇的に成功したのでしょうか。
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まず挙げられるのは、当時の多くの武士たちが持っていた「先祖代々続いてきた我が国を守らなくてはいけない」という強い使命感でした。ある意味「武士の集団自殺」ともいえる大事業は、一人ひとりの武士の気概(きがい)によって支えられていたのです。
また、他にも「経済的な事情」がありました。この頃の諸藩の財政はほとんどが破綻(はたん)しており、多額の負債を抱えていましたが、廃藩置県によって明治政府が肩代りすることになったのです。それ以外にも、旧藩主が華族(かぞく)として優遇されていたことや、旧藩士に与えられていた俸禄(ほうろく)を政府が当分の間保証した、という現実的な一面もありました。
なお、廃藩置県によって当初は3府302県が置かれましたが、その後統廃合が繰(く)り返され、明治21(1888)年には現在に近い3府(東京・大阪・京都)43県となっています。
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すなわち、従来の太政官の外に、神々の祀(まつ)りをつかさどる神祇官(じんぎかん)を復興し、太政官の下に民部省(みんぶしょう)などの各省を置きました。その後、廃藩置県が行われた明治4(1871)年にさらに改革され、太政官を「正院(せいいん)・左院(さいん)・右院(ういん)」の「三院制」としました。
このうち、正院は現在の内閣に相当する太政官の最高機関であり、太政大臣・左大臣・右大臣の3大臣と参議とで構成され、神祇官から改変した神祇省(じんぎしょう)を含む各省は太政官に属しました。また、左院は立法機関にあたり、右院は行政上の調整機関として存在しました。
政府内では、三条実美(さんじょうさねとみ)や岩倉具視(いわくらともみ)といった公家(くげ)とともに、薩摩・長州・土佐・肥前(佐賀)のいわゆる「薩長土肥(さっちょうとひ)」の若き実力者たちが政治の実権を握りました。彼らによる政権は、後に「藩閥(はんばつ)政府」と呼ばれるようになります。
なお、薩長土肥の主な人物は、薩摩藩が西郷隆盛・大久保利通・黒田清隆(くろだきよたか)、長州藩が木戸孝允・伊藤博文(いとうひろぶみ)・井上馨(いのうえかおる)・山県有朋(やまがたありとも)、土佐藩が板垣退助(いたがきたいすけ)・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、肥前(佐賀)藩が大隈重信(おおくましげのぶ)・副島種臣(そえじまたねおみ)・江藤新平(えとうしんぺい)らです。
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さらに明治4(1871)年には「身分解放令」が出され、従来の「穢多(えた)・非人(ひにん)」の呼称(こしょう)をやめ、平民と同じ扱いにしましたが、長く続いた差別の根本的な解消は容易ではありませんでした。
なお、同じ明治4(1871)年に「戸籍法(こせきほう)」が公布され、翌明治5(1872)年には我が国初の近代的な戸籍である「壬申(じんしん)戸籍」がつくられました。
ちなみに明治6(1873)年当時の我が国の人口は約3,300万人であり、このうち平民は約3,110万人で全体の93.4%を占(し)めていました。
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また、明治6(1873)年には「徴兵令」が定められたことで(詳細は後述します)、士族とは無関係で兵力を確保できる見通しが立つようになったことから、政府は同じ明治6(1873)年に、希望者に対して秩禄の支給を停止する代わりに、一時金を支払う「秩禄奉還(ほうかん)の法」を定めました。
現代でいえば「早期の希望退職者の募集」に相当するこの制度によって、全士族の約3分の1の秩禄が整理されました。
そして、徴兵令の公布から3年か経過して、政府が自前で育てた軍隊が編成されたことを受け、政府は明治9(1876)年に、すべての受給者に対して「金禄(きんろく)公債証書」を与える代わりに秩禄を廃止しました。これを「秩禄処分」といいます。
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しかも、現金化が可能となるまでは年間の利息分しか支給されず、華族などの高禄者が投資などで生計を立てることが可能だった一方で、生活できない額の利息しかもらえなかった多くの士族が困窮(こんきゅう)するようになってしまいました。
利息だけでは生活できない士族たちは、官吏や巡査、あるいは教員などに転身した一方で、証書を手放して得た一時金で慣れない商売に手を出したものの、いわゆる「士族の商法」で失敗する者があとを絶ちませんでした。
政府は士族救済のために事業資金を貸し付けたり、屯田兵(とんでんへい)など北海道の開拓事業を行ったりする(詳細は後述します)など「士族授産」の道を講じましたが、成功した例は少なく、没落する士族が増えていきました。また、これとは別に、秩禄処分と同じ明治9(1876)年に士族の帯刀(たいとう)を禁じる「廃刀令」が出されており、二重の意味でそれまでの特権を奪われた士族の憤激(ふんげき)が次第に強くなっていきました。
こうした流れに加えて、急進的な近代化にこだわるあまり、日本の伝統を粗末(そまつ)に扱おうとした当時の明治政府への日本精神からの異議申し立てという一面もあったことで、国内において「士族の反乱」が相次いで起きるようになるのです(詳細は後述します)。
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また、廃藩置県によって全国の藩兵は解散させられましたが、一部は兵部省(ひょうぶしょう)の下で明治4(1871)年に東京・大阪・鎮西(ちんぜい、後に熊本)・東北(後に仙台)の4か所に設けられた「鎮台(ちんだい)」に配置されました。なお、翌明治5(1872)年に兵部省は陸軍省と海軍省に分離され、明治6(1873)年には名古屋・広島の二つの鎮台が加わっています。
国内治安対策に重点を置いた鎮台は、やがて明治21(1888)年に廃止され、国際的な対外戦争を視野に入れた「師団(しだん)」に改組(かいそ)されました。現代の陸上自衛隊における「第○師団」という編成名は、このような歴史に由来しており、関西地方では兵庫県伊丹市に「第三師団」が存在しています。
さて、先述のとおり明治4(1871)年に断行した廃藩置県ですが、旧藩士の俸禄を肩代わりした政府の負担が重かったことから、将来的に俸禄の支給の廃止を視野に入れていました、なお、先述した秩禄処分はこの流れで実現したものです。
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また、欧米列強にも負けない近代的な軍隊を編成することも考えていた政府にとって、武士に頼らないためにも、すべての国民が兵役に服するべきであるとする、いわゆる「国民皆兵(かいへい)」が重要であると考えるようになりました。
国民皆兵は、初代の兵部大輔(ひょうぶたいふ)の大村益次郎(おおむらますじろう)が唱えていましたが、大村が明治2(1869)年に暗殺されると、その遺志を継いだ山県有朋(やまがたありとも)によって具体化されました。
政府は、明治5(1872)年に「全国徴兵の詔(みことのり、天皇の言葉を直接伝える文書のこと)」や「徴兵告諭(こくゆ)」を出すと、それに基づいて翌明治6(1873)年1月に「徴兵令」を公布しました。
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当初の徴兵令には様々な例外規定があり、戸主や官吏・学生などは兵役が免除されていたほか、代人料として当時は高額だった金270円を納めた者も免除されており、中には「徴兵免役心得(ちょうへいのがるるのこころえ)」のような冊子(さっし)をつくって売る人物もいたそうです。
このため、実際に兵役についたのは、ほとんどが農家の二男以下でした。また、徴兵告諭の中の外国語を直訳した「血税(けつぜい)」という言葉が「徴兵されたら血を抜かれる」と誤解されたことで、全国で「血税一揆」などの騒動が起きるなど、当初は混乱が多発したものの、国民皆兵は次第に我が国に広がっていきました。
しかし、国民皆兵の我が国への広がりは、同時に「軍事の専門職」として存在していた、かつての武士である士族が我が国で不要となったことを意味しており、政府はこの後に、先述した秩禄処分や廃刀令といった、士族の特権を奪う政策を行うようになりました。
特権を奪われた士族は、やがて各地で反乱を起こしますが、徴兵令で編成された政府の軍隊と対決して敗北することで、国民皆兵が完全に定着することになるのです(詳細は後述します)。
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その後、明治6(1873)年に「内務省(ないむしょう)」が設置されると、全国の警察組織は内務省に統括されるようになり、翌明治7(1874)年には東京に「警視庁(けいしちょう)」が創設されました。
警視庁の設置に伴(ともな)い、それまでの邏卒が「巡査」に改称されたほか、川路利良(かわじとしよし)が初代の大警視(現在の警視総監)に就任しました。
なお、川路は近代的な警察制度の改革に尽力した人物であり、後に「日本警察の父」と称えられています。
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