遺跡はすでに江戸時代から知られていましたが、県営野球場建設に先立って、平成4(1992)年から行われた発掘調査によって、前例のない巨大な集落跡が姿をあらわしたほか、膨大(ぼうだい)な量の土器や石器などの生活関連遺物や、土偶(どぐう)などの祭祀(さいし)に関する遺物が出土しました。
さらに平成6(1994)年には、直径約1メートルのクリの巨木を使った、縄文時代中期の大型掘立柱(ほったてばしら)建物跡も見つかりました。
遺跡内の集落の大きさや、遺物や住居跡の多さから、一時期に数百名が生活したともいわれ、また近くに産出しないヒスイや黒曜石(こくようせき)などの物資の存在から、交易も盛んに行われていたなど、様々な新発見がありました。
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これらの発見によって、縄文時代に関する教科書の記載が書き換えられ、現在のように「豊かで安定した生活」となったのです。
遺跡の発掘調査などによる新たな発見によって、それまでの「歴史の常識」が覆(くつがえ)されるのは決して珍しいことではありません。むしろ、それが正当であると認められるのであれば、正しい歴史を知るためにも、大いに書き換えられるべきではないでしょうか。
このことは、縄文時代のはじまりの年代においても、同じことが言えるのです。そのきっかけは、ひとつの土器片の調査にありました。
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この土器片を「較正(こうせい)炭素年代法」で調査した結果、今から約16500年前のものであることが、翌平成11(1999)年に分かりました。つまり、我が国の縄文文化における土器の技術は、世界最古クラスのものであることが明らかになったのです。
世界最古クラスの土器が存在するということは、縄文文化そのものが世界最先端の技術を誇っていたことを意味します。こうした事実が明らかになったのは、較正炭素年代法などといった、最近の技術研究の進化がもたらしたものでもありました。
要するに、我が国は縄文時代の頃から独自の文明の源泉があり、世界に名立たる「日本文明」を誇っていたことが明らかになったのです。そして、そんな縄文時代の頃から、我が国独自の慣習がありました。
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また、自然との闘いの中で、収穫の豊かさなどを祈願する呪術(じゅじゅつ)的儀礼が発達していたことが、遺跡から出土した土偶などによって明らかになっています。
こうした信仰は、水稲(すいとう)農業の発達によって集団生活が当たり前となった弥生(やよい)時代にも受けつがれ、あらゆる人間集団の中心に「全員のために集団が栄え、幸せになるように祈ってくれる存在」が必要であることを理解するようになりました。
実は、この信仰が現代の天皇のご存在のルーツとなっているのです。
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しかし、時代が下って弥生文化の頃になると、墓の大きさに違いがみられるほか、周囲に溝をめぐらせた方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)などが出現するようになりました、これは、弥生時代に本格化した水稲農業において、人々との共同作業を必要としたからなのです。
効率よく共同作業をやろうと思えば、一定のルール、すなわち秩序が必要であるとともに、水田の開発や灌漑(かんがい)あるいは治水(ちすい)など、共同作業が大規模になればなるほど秩序が重視され、集落の中でもっとも優秀な人間がリーダーとして作業をひっぱることになります。
また、農作業は天候に左右されやすいため、人々は太陽や月・雨・風・水などの自然に霊が宿ると信じ、それらに祈る祭祀(さいし)を重んじましたが、そんな中で「神々に祈る」ことを主とする人々も見られるようになりました。
このようにして、人々の間に権威を持つ統一者が現れるとともに、彼らの死後の墓も時代とともに大きく進化していきましたが、こうした流れが天皇のルーツになるとともに、全国各地に現在も見られる大きな古墳(こふん)につながっているのです。なお、我が国における大規模な古墳の出現については後述します。
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