天皇のご譲位は江戸時代の第119代光格(こうかく)天皇以来202年ぶりで、憲政史上では初めてのことでした。また、昭和35(1960)年2月23日にご生誕された新天皇陛下は、戦後生まれの初の天皇となられました。なお、59歳2か月でのご即位は、生年月日の記録が残る8世紀後半以降の天皇では2番目のご高齢です。
新天皇陛下は同日午前に皇居・宮殿「松の間」で、皇位とともに伝わる「三種の神器」などを受け継ぐ「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」と、国民の代表と即位後初めて面会する「即位後朝見(ちょうけん)の儀」に臨まれました。
朝見の儀において、新陛下は天皇として初めてのお言葉で「象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します」と述べられました。
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「日本国憲法及び皇室典範(てんぱん)特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました」。
「この身に負った重責を思うと粛然(しゅくぜん)たる思いがします」。
「顧(かえり)みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心(みこころ)を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯(しんし)に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます」。
「ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽(けんさん)に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します」。
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元号に「令」の漢字が使われるのは我が国史上初であり、ラ行で始まる日本の元号は、南北朝時代の1338年から1342年にかけての「暦応(りゃくおう、または「れきおう」)」以来およそ680年ぶりです。また「レイ」の音が先頭に来る元号は、奈良時代初めの715年から717年にかけての「霊亀(れいき)」以来2例目で、およそ1300年ぶりとなりました。
一方、元号で「和」の漢字が使われるのは、飛鳥時代から奈良時代となる708年から715年にかけての「和銅(わどう)」以来20例目であり、直前では「昭和」に使われているため、平成を間に挟(はさ)んでおよそ30年ぶりとなります。
「令和」は7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂(へんさん)された我が国最古の和歌集である「万葉集(まんようしゅう)」の梅の花三十二首の序文から引用されており、我が国の古典から元号が選定されたのは初めてです。
また「令和」には「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められており、安倍晋三(あべしんぞう)首相は、令和が発表された4月1日の談話の中で「厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる日本でありたい、との願いを込めた」と述べています。
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「本日、元号を改める政令を閣議決定いたしました。新しい元号は『令和』であります」。
「これは、万葉集にある「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして 気(き)淑(よ)く風(かぜ)和(やわら)ぎ 梅(うめ)は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き 蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」との文言から引用したものであります。そして、この『令和』には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、という意味が込められております」。
「万葉集は、1200年余り前に編纂(へんさん)された日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく、防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠(よ)んだ歌が収められ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります」。
「悠久(ゆうきゅう)の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたい、との願いを込め、『令和』に決定いたしました」。
「文化を育(はぐく)み、自然の美しさを愛(め)でることができる平和の日々に、心からの感謝の念を抱きながら、希望に満ちあふれた新しい時代を、国民の皆さまとともに切り拓(ひら)いていく。新元号の決定にあたり、その決意を新たにしております」。
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天皇の古来の重要な役割は「国民のために祈る」ことであり、かつては実際に政治を行う権力もお持ちでした。その後、歴史が進むにつれて天皇は政治的権力から遠ざかり、建久(けんきゅう)3(1192)年に源頼朝(みなもとのよりとも)が朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて鎌倉幕府を開く頃には、天皇ご自身が権力を行使されることはなくなりました。
しかし、天皇は新たな政治権力者となった武家と対立するのではなく、政治権力者が「民のために祈り続けた」天皇の権威を押し頂いて政治を行うことが、我が国の新たな政治文化としての伝統となったのです。
今回から数回に分けて、天皇と政治の関わりの歴史を時系列で振り返ってみたいと思います。話は縄文(じょうもん)時代にまでさかのぼります。
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遺跡はすでに江戸時代から知られていましたが、県営野球場建設に先立って、平成4(1992)年から行われた発掘調査によって、前例のない巨大な集落跡が姿をあらわしたほか、膨大(ぼうだい)な量の土器や石器などの生活関連遺物や、土偶(どぐう)などの祭祀(さいし)に関する遺物が出土しました。
さらに平成6(1994)年には、直径約1メートルのクリの巨木を使った、縄文時代中期の大型掘立柱(ほったてばしら)建物跡も見つかりました。
遺跡内の集落の大きさや、遺物や住居跡の多さから、一時期に数百名が生活したともいわれ、また近くに産出しないヒスイや黒曜石(こくようせき)などの物資の存在から、交易も盛んに行われていたなど、様々な新発見がありました。
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これらの発見によって、縄文時代に関する教科書の記載が書き換えられ、現在のように「豊かで安定した生活」となったのです。
遺跡の発掘調査などによる新たな発見によって、それまでの「歴史の常識」が覆(くつがえ)されるのは決して珍しいことではありません。むしろ、それが正当であると認められるのであれば、正しい歴史を知るためにも、大いに書き換えられるべきではないでしょうか。
このことは、縄文時代のはじまりの年代においても、同じことが言えるのです。そのきっかけは、ひとつの土器片の調査にありました。
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この土器片を「較正(こうせい)炭素年代法」で調査した結果、今から約16500年前のものであることが、翌平成11(1999)年に分かりました。つまり、我が国の縄文文化における土器の技術は、世界最古クラスのものであることが明らかになったのです。
世界最古クラスの土器が存在するということは、縄文文化そのものが世界最先端の技術を誇っていたことを意味します。こうした事実が明らかになったのは、較正炭素年代法などといった、最近の技術研究の進化がもたらしたものでもありました。
要するに、我が国は縄文時代の頃から独自の文明の源泉があり、世界に名立たる「日本文明」を誇っていたことが明らかになったのです。そして、そんな縄文時代の頃から、我が国独自の慣習がありました。
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また、自然との闘いの中で、収穫の豊かさなどを祈願する呪術(じゅじゅつ)的儀礼が発達していたことが、遺跡から出土した土偶などによって明らかになっています。
こうした信仰は、水稲(すいとう)農業の発達によって集団生活が当たり前となった弥生(やよい)時代にも受けつがれ、あらゆる人間集団の中心に「全員のために集団が栄え、幸せになるように祈ってくれる存在」が必要であることを理解するようになりました。
実は、この信仰が現代の天皇のご存在のルーツとなっているのです。
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しかし、時代が下って弥生文化の頃になると、墓の大きさに違いがみられるほか、周囲に溝をめぐらせた方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)などが出現するようになりました、これは、弥生時代に本格化した水稲農業において、人々との共同作業を必要としたからなのです。
効率よく共同作業をやろうと思えば、一定のルール、すなわち秩序が必要であるとともに、水田の開発や灌漑(かんがい)あるいは治水(ちすい)など、共同作業が大規模になればなるほど秩序が重視され、集落の中でもっとも優秀な人間がリーダーとして作業をひっぱることになります。
また、農作業は天候に左右されやすいため、人々は太陽や月・雨・風・水などの自然に霊が宿ると信じ、それらに祈る祭祀(さいし)を重んじましたが、そんな中で「神々に祈る」ことを主とする人々も見られるようになりました。
このようにして、人々の間に権威を持つ統一者が現れるとともに、彼らの死後の墓も時代とともに大きく進化していきましたが、こうした流れが天皇のルーツになるとともに、全国各地に現在も見られる大きな古墳(こふん)につながっているのです。なお、我が国における大規模な古墳の出現については後述します。
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しかし、こうした考えは「我が国の国柄」ではありません。天賦人権論の原理は西洋にあり、17世紀から18世紀の思想家である、イギリスのロックやフランスのルソーなどの社会契約説を由来として「すべて人間は生まれながらに自由かつ平等で、幸福を追求する権利を持つ」と考えられるようになりました。
アメリカの独立戦争やフランス革命などはこうした思想の影響を強く受けており、明治維新以降の我が国においても自由民権運動によって紹介されるなど、天賦人権論への支持が確実に広がりを見せたことは間違いありません。
ですが、我が国における、いわゆる「人権」に関する思想は、その遥(はる)か以前から、すでに見えないかたちで定着していた事実をご存知でしょうか。
実は、その背景には「天皇」のご存在があります。
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「八紘一宇」は「道義的に天下を一つの家のようにする」というのが大意であり、我が国だけでなく世界全体を一つの家として、神のために祈られる天皇を中心に仲良くやっていこう、という願いが込められています。
要するに「八紘一宇」の精神においては、我が国のみならず世界人類が兄弟のように平等であることから「世界中すべての人々の人権も保障される」という解釈となります。我が国では、天賦人権論が考え出されるよりはるか以前から「世界は一家、人類はみな兄弟」という思想が定着していたのです。
ちなみに、大日本帝国憲法(=明治憲法)の第1条は「大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇之(これ)ヲ統治ス」と規定されており、これは「天皇陛下の統治によって『八紘一宇』の伝統が守られている」ことを意味しています。
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歴史のみならず、我が国での真っ当な「公民教育」を目指すのであれば、その背骨として「我が国伝統の政治文化」を教えるのが当たり前のはずです。しかし、今の教育では、それこそ「革命思想」につながる西洋の民主政治が重視される一方で、革命を起こす側にとって「宿敵」ともいえる天皇のご存在を軽視する傾向が見られるのではないでしょうか。
我が国の「人権思想」に直結する「八紘一宇」は、昭和20(1945)年12月にGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)から出された「神道(しんとう)指令」により、国家神道や軍国主義、あるいは過激な国家主義を連想させるとして、公文書における使用が禁止されて以来、不当な扱いを受け続けているのが現状です。
我が国での教育は我が国の視点で行うべきであり、それは歴史だけでなく公民も同じです。一方的な思想だけで民主政治を語ることや、GHQによる歴史の歪曲(わいきょく)に満ちた人権問題を取り上げるだけでは、我が国にとって悪い教育となるばかりか、本当の意味での「国際社会に生きる誇り高き日本人」を育てることなど、できるはずもないのです。
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古代の天皇には、高いところにのぼって国を見渡し、その様子を褒(ほ)め称えることによって、天皇のお言葉で国を良くするという「国見(くにみ)」の風習がありました。
ある日のこと、仁徳天皇は難波高津宮(なにわのたかつのみや)から人家(じんか)を眺(なが)められた際に、かまどから煙が立ちのぼっていないことに気が付かれました。
「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないからではないか。都ですらこうなのだから、地方はなおひどいことであろう」。そう思われた仁徳天皇は、すぐさま3年間税を免除され、宮殿の屋根が傷んでもそのままにされていました。
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「高き屋(や)に のぼりて見れば 煙(けぶり)立つ 民(たみ)のかまどは にぎはひにけり」
以上は有名な「民のかまど」のエピソードですが、実はこの話には続きがあります。
民のかまどがにぎわっているのを満足げに見つめられた仁徳天皇は、傍(かたわ)らにおられた皇后陛下に以下のように仰られました。
「朕(ちん)はすでに富んだ。喜ばしいことだ」。
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「宮殿のあちこちが崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだと言えるのですか」。
皇后陛下のお言葉に対して、仁徳天皇は微笑(ほほえ)みしながら仰られたそうです。
「国は民(たみ)が本(もと)である。その民が富んでいるのだから、朕も富んだということなのだ」。
この後、天皇はさらに3年ものあいだ引き続き税を免除され、6年後にようやく税を納めさせるとともに、宮殿の修理をお許しになりました。すると、仁徳天皇の善政に感謝していた多くの国民が、誰に強制されるわけでもなく自ら進んで修理をはじめ、あっという間に立派な宮殿ができあがったと伝えられています。
このこと以来、仁徳天皇は「聖帝(ひじりのみかど)」と称され、やがて天皇が崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されると、和泉国の百舌鳥野(もずの)の陵(みささぎ)をつくって葬り奉(たてまつ)ったと「日本書紀」に記載があります。
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1.難波(なにわ)の堀江(ほりえ)を開削(かいさく)したこと
2.茨田堤(まんだのつつみ、現在の大阪府寝屋川市付近)を築造したこと
3.山背(やましろ、後の山城)の栗隈県(くるくまのあがた、現在の京都府城陽市西北~久世郡久御山町付近)に灌漑(かんがい)用水を引かせたこと
4.茨田屯倉(まむたのみやけ、屯倉とは天皇の直轄領のこと)を設立したこと
5.和珥池(わにのいけ、現在の奈良市付近か)や横野堤(よこののつつみ、現在の大阪市生野区付近)を築造したこと
6.灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、現在の大阪府南河内郡河南町付近)を掘削(くっさく)し、広大な田地を開拓したこと
7.紀角宿禰(きのつののすくね、武内宿禰=たけのうちのすくねの子)を朝鮮半島の百済(くだら)へ遣(つか)わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録したこと
国民の幸福を常に願われた仁徳天皇は、彼らが飢(う)えないように農地を確保し、また治水を行って水害を防ぐなど、その在位中に大規模な土木工事を何度も行われました。これらの大事業によって国が豊かになり、国民は天皇に深く感謝したからこそ、崩御後に巨大な陵墓(りょうぼ)をつくったのです。
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このことから、仁徳天皇は「自分の天皇陵の建設に際して国民を強制的に労働させた人物」と否定的にとらえた見方をする人物もあるようですが、私に言わせれば、そんな人物こそが「机上の空論を振りかざす愚か者」でしかありません。
なぜそう断定できるのでしょうか。そのカギを握るのは「土木事業によって生み出された『あるモノ』」です。
当たり前のことですが、大規模な土木工事を行えば必ず大量の土砂が出ます。これらの土砂は、現代であればダンプカーなどに乗せて港湾の埋め立て工事に使ったりしますが、大昔にはそんな便利なものはありませんから、計画的にどこかに「盛(も)り土(つち)」することになります。
実は、古墳はこの盛り土を上手に活用してつくられたものなのです。だからこそ古墳は平野部にしかなく、また仁徳天皇の場合は土木事業が大規模であったことで大量の盛り土が発生していたからこそ、世界最大級の陵墓となったのです。
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ちなみに、仁徳天皇陵の周囲に堀をめぐらせているのは、陵墓が大規模なものであることから、大雨が降れば大量の土砂が流れ込む可能性があり、それを防ぐためという、いわば当然の理由があります。
これらのことは、古代から現地の土木事業にかかわってきた一般国民からすれば「空気のように当たり前のこと」でした。ところが、机上の理論を振りかざした「頭の良い」学者たちは、世間の常識よりも自分たちの考えを優先させますから、戦後になって「常識では考えられない学説」がまかり通るようになりました。
記紀などの伝説を否定する彼らによって、古墳はいつしか「権力者による支配の象徴」とされたばかりか、ついには仁徳天皇のご存在までが否定され、多くの歴史教科書で「大仙陵(だいせんりょう)古墳」と書かれている有様です。
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大和朝廷は、皇室の宗教的儀礼を背景として武力や財力を蓄(たくわ)え、遅くとも4世紀半ばまでには国土の多くを統一し、その勢力は関東から九州北部にまで及んだとされています。なお、先述の仁徳天皇のお話は、この頃の時代にあたります。
時代が下って6世紀の末から7世紀の前半にかけては、我が国初の女帝である推古(すいこ)天皇の皇太子となった聖徳太子(しょうとくたいし)が内政あるいは外交において大きな実績を残し、我が国が自主独立の国家となるきっかけをつくりました。
聖徳太子の死後は豪族の蘇我氏(そがし)による横暴が続きましたが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)によって645年に蘇我氏が倒されると、我が国史上初めての元号となる「大化(たいか)」を制定するなどの様々な改革が行われました。これらを総称して「大化の改新」といいます。
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そして、平安時代の初期こそ桓武(かんむ)天皇がご自身で政治を行われましたが、時が進むにつれて歴代の天皇は次第に政治的権力から遠ざかられ、先述のとおり、建久(けんきゅう)3(1192)年に源頼朝(みなもとのよりとも)が朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて鎌倉幕府を開く頃には、天皇がお自ら権力を行使されることはなくなりました。
しかし、天皇は新たな政治権力者となった武家と対立するのではなく、政治権力者が「民のために祈り続けた」天皇の権威を押し頂いて政治を行うことが、我が国の新たな政治文化としての伝統となったのです。
なぜそう言い切れるのでしょうか。その背景には「征夷大将軍」の位置づけがあります。
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