父親の希次の厳しい教育と、乃木家の親戚であり父の親友、さらには吉田松陰(よしだしょういん)の叔父でもあった、萩の玉木文之進(たまきぶんのしん)の薫陶(くんとう)を受けた乃木将軍は、心身共に立派な男子として成長を遂(と)げました。
明治維新を迎えた後も、次々と出世を重ねた乃木将軍は、明治4(1871)年旧暦11月に陸軍少佐に昇進しました。当時22歳で少佐に任じられたのは異例の大抜擢であり、後に任官された日を「生涯で何よりも愉快な日であった」と述懐しています。
その後、明治10(1877)年2月に「西南の役(えき)」が始まり、西郷隆盛を首領とする薩摩軍が熊本城を包囲すると、乃木将軍は主力を率いて小倉を出陣し、2月22日の夜に熊本城から北約10kmに位置する植木という場所で薩摩軍と遭遇(そうぐう)しました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
連隊長としてあるまじき大失態に絶望した乃木将軍は、もはや死をもってその大罪を償う他はないと言わんばかりに、敵の砲煙弾雨(ほうえんだんう)をものともしない奮闘ぶりを見せ、同年4月に官軍が薩摩軍の熊本城に対する包囲網を打ち砕くと、同月22日に乃木将軍はその功績を称えられて中佐に昇進し、熊本鎮台参謀に任じられました。
連隊旗喪失の件も、西南の役の功績が評価されて無罪となった乃木将軍でしたが、彼の心は暗く沈んでいました。そんなある日、彼はついに人知れず割腹自決を遂げようとしたのですが、同じ熊本鎮台参謀で、長州藩出身者として普段から親しかった児玉源太郎(こだまげんたろう)少佐が気付き、すんでのところで食い止めることに成功しました。
どうにか自決を止めることができた児玉は、乃木将軍に向かって言いました。
「死ぬなら立派に死ね。しかし、貴様が腹を切ったら失った軍旗が出てくるとでもいうのか。もし仮に軍旗が出てきたとしても、その責任はそれで済むのか。武士が過失をしても、腹さえ切ればそれで責任が解除されるというのが、俺たちが学んだ武士道なのか。どうせ死ぬと決めたのならば、過失を償(つぐな)うだけの働きをしてからでも遅くはあるまい。ただ死ぬのは犬死だ」。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
その後、時が流れて明治27(1894)年に日清戦争が勃発(ぼっぱつ)すると、乃木将軍は歩兵第一旅団長として出陣して遼東(りょうとう)半島に上陸し、清国にとって最重要の拠点であった旅順(りょじゅん)の要塞(ようさい)を、一万数千人の兵力によって、わずか一日で陥落させました。
そして、そんな乃木将軍を優しく見守り続けられたのが、明治天皇でいらっしゃいました。
明治天皇が乃木将軍の存在を認識なされたのは、皮肉にも将軍が連隊旗喪失事件を起こした後に、敵前をいとわず獅子奮迅(ししふんじん)の働きを見せていた頃でした。乃木将軍の行動がやがて天皇のお耳に達すると、陛下(へいか)は「乃木を殺してはならん」と前線指揮官の職から外すように命じられたとのことです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
「もののふの 攻めたたかひし 田原坂 松も老木に なりにけるかな」
当時は西南の役から四半世紀の時が流れていましたが、それだけの長い間乃木将軍と人生を共にしてきたというご感慨と同時に、老いてもなお忠義の臣として陛下に仕える将軍に対する愛情を込めて詠まれた御製でした。
その後、明治37(1904)年に日露戦争が勃発すると、乃木将軍は天皇ご自身が選ばれた親任官として第三軍司令官に任じられ、戦地に赴(おもむ)きました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
にもかかわらず、二度の総攻撃をかけても旅順が落ちなかったという事実が大きな失望を呼び、事情を知らない軍内外からは、乃木将軍に対する非難の声が日増しに高まっていきました。
第三軍に対する非難は、ついに「乃木更迭(こうてつ)論」にまで達しました。しかし、天皇ご自身が選ばれた「親任官」であった乃木将軍を辞めさせるには、明治天皇のご裁可が必要でした。このため、陸軍参謀総長の山県有朋(やまがたありとも)は、御前会議において第三軍司令官を交代させるべく、明治天皇にお伺(うかが)いを立てましたが、陛下はただ一言仰られたのみでした。
「乃木を替えれば、乃木は生きてはおらぬぞ」。
第三軍の苦戦が続く最中であっても、明治天皇の乃木将軍へのご信任はいささかも揺(ゆ)らぐことはなかったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
先述のとおり、旅順攻略が進まないことに対しては、乃木将軍一人にすべての責任をかぶせるにはあまりにも酷(こく)な条件がそろい過ぎていました。しかし、乃木将軍は一切言い訳をせず、多くの犠牲者を出しながら旅順を落とせない責任を、一人で被(かぶ)る決意をしていました。
そんな将軍の悲壮な覚悟が、第三軍の士気に影響しないはずがありません。「乃木将軍は多数の犠牲者が出たことに苦しんでおられるのみならず、我々のことを本当に心配しなさっておられる。将軍のためにも我々が頑張らなくてどうするというのだ」。
明治天皇のご慧眼(けいがん)どおり、第三軍は「乃木なればこそ」苦しい戦いをいとわず一丸となって奮戦し、また「乃木なればこそ」最終的に勝利をつかむことが可能となったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
旅順陥落後の1月5日、水師営(すいしえい)において乃木将軍とステッセルとの会見が行われました。後の世に名高い「水師営の会見」です。会見に先立って、旅順攻略を深く喜ばれた明治天皇は、ステッセルが祖国のために力を尽くしたことを讃えると共に、武人としての名誉の確保を望まれるという聖旨(せいし、天皇のお考えのこと)を乃木将軍に発せられました。
これを受けて、乃木将軍はステッセル以下の将官に帯刀を許すなど名誉を重んじると共に、各国の従軍記者には、敵味方の優劣がつかない構図での撮影を許可しました。こうした姿勢が敗戦の将たるステッセルを感激させると共に、武人としての乃木将軍の高潔な精神が、世界各国から絶賛されたのです。
日露戦争は我が国の勝利に終わり、乃木将軍は明治39(1906)年1月に帰国の途に就きましたが、国民の熱烈な歓迎を受けた一方で、その心は暗く沈んでいました。多くの将兵を死に追いやりながら、自分だけがおめおめと生き延びたことを深く恥じていたのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
「臣希典不肖(ふしょう)にして、陛下の忠良なる将校士卒を多く旅順に失い申す。このうえはただ割腹して罪を陛下に謝し奉(たてまつ)らん」。
明治天皇は無言でお聞きになっておられましたが、乃木将軍が退出しようとすると呼び止められ、以下のように仰られました。
「卿(きょう、ここでは乃木将軍のこと)が割腹して朕(ちん)に謝せんとの衷情(ちゅうじょう、うそやいつわりのない本当の心)は、朕よくこれを知る。然(しか)れども今は卿の死すべきときにあらず。卿もし強(し)いて死せんとならば、朕世を去りたる後にせよ」。
乃木将軍は、陛下にとってかけがえのない多数の兵士の生命を、自分が奪ってしまったことの責任を取るために自刃すると述べましたが、明治天皇は、将軍の苦衷(くちゅう)を察せられたうえで「今は死ぬべき時ではない。どうしても死ぬというのであれば自分が世を去った後にせよ」と諭(さと)されたのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
翌明治41(1908)年4月から、裕仁(ひろひと)親王殿下(後の昭和天皇)が学習院初等科へご入学されましたが、乃木将軍は明治天皇のご期待に応え、裕仁親王に将来の天皇としての帝王学を厳格に教育すると共に、どんな小さなことでも大切だと思うことは丁寧に教え、親王も素直にそれを守られました。
例えば、乃木将軍は裕仁親王に普段から徒歩で通学されるように指導し、それ以降、親王は雨の日でも馬車に乗らずに、コートを着用されるなどして学校へと向かわれました。また、雪が降る寒い日であってもストーブにあたることなく、外に出て駆け回ることで体を温めるようにも指導したそうです。
親王当時に院長閣下の乃木将軍をお慕(した)いなされた昭和天皇は、後にご自身の人格形成に最も影響があった人物として、乃木将軍の名を挙げておられます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、明治天皇は同年7月30日午前0時43分に、61歳(満年齢59歳)で崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されました。陛下の崩御を知らされて絶望の底に叩き落された乃木将軍は、殉死をする決意を固めました。
明治天皇の大喪の儀は大正元(1912)年9月13日に行われることになりましたが、その直前の9月10日、乃木将軍は皇孫殿下に最後のご挨拶(あいさつ)をしました。その際、将軍は裕仁親王に山鹿素行(やまがそこう)の名著である「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」を差し上げ、素晴らしい本であるから熟読されるようにと勧めました。
いつもと違い、ただならぬ気配が漂(ただよ)う乃木将軍の様子に、裕仁親王は「院長閣下(=乃木将軍)はどこかへ行かれるのですか?」と聞かれたそうです。
9月12日の夜、乃木将軍は遺書と辞世を書きました。そして御大葬がしめやかに行われた9月13日、すべての身辺整理を終えた乃木将軍は、御遺体を乗せた御霊轜(ごれいじ、霊柩車のこと)が静かに宮殿を出発する合図の号砲が打たれた午後8時過ぎに、自邸にて妻の静子と共に先帝の後を追って自刃しました。享年64歳(満年齢62歳)でした。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
乃木将軍の殉死を受け、国民を主体として様々な動きが見られるようになりました。東京・赤坂の乃木邸には多くの国民がこぞって訪れ、付近の坂の名前も「乃木坂」と改められました。
やがて神戸・大阪・京都など近畿圏をはじめ、全国各地の乃木将軍を尊崇(そんすう)する人々の尽力により、大正5(1916)年9月に京都で乃木神社が創建されたほか、大正8(1919)年には東京で乃木神社創立の許可がくだり、翌大正9(1920)年に明治天皇と昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)とをお祀(まつ)りする明治神宮が創建された後に造営の事業が起こされ、大正12(1923)年11月1日に鎮座祭が行われました。
乃木将軍が我が国に遺した数々の実績は、多くの国民を感動に包むと共に、ご祭神として今もなお国民の心に生き続けているのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。