今回は、信長が美濃(みの、現在の岐阜県南部)の攻略を果たした頃から始まった「信長包囲網(ほういもう)」をいかにして打ち破ったかを紹介しながら、彼の「政治家」としての優れた先進性や、彼が本当に「虐殺者」なのかどうかなどについて振り返ってみます。
信長が美濃の攻略を目指していた頃は、室町幕府の権威はさらに低下しており、将軍の足利義輝(あしかがよしてる)が、永禄(えいろく)8(1565)年に松永久秀(まつながひさひで)らによって暗殺されてしまいました。
次の将軍職を目指していた義輝の弟の足利義昭(あしかがよしあき)は、それまで匿(かくま)われていた越前(えちぜん、現在の福井県北東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)から離れ、義景の家臣であった明智光秀(あけちみつひで)の仲介で信長を頼りました。
それまでに北近江(きたおうみ、現在の滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)と同盟を結び、妹のお市(いち)を長政の妻としていた信長は、この好機に早速上洛(じょうらく、京へ向かうこと)を決意しました。
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義昭は、自らの将軍就任の最大の功労者である信長に深く感謝し、管領(かんれい、将軍を補佐して幕政を統轄する役職のこと)もしくは副将軍になるよう勧めましたが、信長はいずれも辞退し、代わりに堺を含む和泉(いずみ、現在の大阪府南西部)の支配を認めさせました。一見すると、いわゆる「名よりも実を取った」と思われる信長の行為でしたが、その裏にはしたたかな計算がありました。
ここで信長の立場で考えてみましょう。管領や副将軍を引き受けるということは、信長が室町幕府の組織の一員に、もっといえば義昭の家来になるということを意味します。信長の最終的な目標は、自身による天下統一ですから、いずれは義昭を見限るつもりでしたし、現実にそうなりました。しかし、その際にもし彼が管領や副将軍であったとすれば、主君に対する裏切りという重罪を犯してしまうことになります。
いくら戦国の世とはいえ、主(あるじ)に対する謀反(むほん)というのはダメージが大きく、後の天下取りにも影響を及ぼすのは避けられません。だからこそ、信長は義昭の誘いを断り、その代わりに我が国最大の貿易港の一つであった堺をおさえるために、和泉の支配を義昭に認めさせたのでした。堺を我が手にしたことによって、信長はこの後、貿易などの経済面において他の戦国大名よりも大きく優位に立つことになります。
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後の世に「信長包囲網」と名付けられた、信長にとって人生最大のピンチが訪れようとしていました。
堺に対する支配権を手に入れて経済力をさらに高めた信長は、次なる領地の目標を越前の朝倉義景と定め、永禄13(1570)年旧暦4月に京を出陣し、敦賀(つるが)の金ヶ崎城(かねがさきじょう)を落とすなど、緒戦で勝利を収めました。
ところが、まさに好事魔多(こうじまおお)し。信長の義理の弟であり、最も信頼を寄せていた武将の一人であった浅井長政が、信長を裏切って北近江から攻め寄せるという驚くべき情報がもたらされたのです。
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覚悟を決めた信長は、こう宣言しました。
「ワシは逃げる」。信長の決死の逃避行が始まりました。
信長はわずかな手勢とともに金ヶ崎を脱出すると、駆けに駆けて一目散に京を目指しました。こうして朝倉氏と浅井氏による包囲網から辛くも逃れた信長は、数日のうちに京に戻ることができましたが、その供はわずか10人ばかりであったと伝えられています。
後の世に「金ヶ崎の戦い」と呼ばれた負け戦(いくさ)の屈辱を味わった信長は、浅井・朝倉の両氏を深く恨むようになりました。やがて信長は同盟相手の徳川家康(とくがわいえやす)とともに、元亀(げんき)元(1570)年旧暦6月の「姉川(あねがわ)の戦い」で浅井・朝倉の連合軍を破りましたが、両氏に止めをさすことはできませんでした。
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さらに信長を悩ませたのが、いわゆる「三好(みよし)三人衆」といわれた三好氏の勢力が摂津(せっつ、ここでは現在の大阪市付近のこと)で挙兵すると、本願寺(ほんがんじ)が三人衆に味方したという事実でした。つまり、信長は戦国大名の他に、延暦寺や本願寺といった、強大な宗教勢力をも敵に回して戦わなければならなくなったのです。
それにしても、なぜ信長は宗教勢力から「仏敵」とみなされたのでしょうか。実は、その理由には大きな「権益」がありました。
信長は大胆な発想で岐阜などに城下町を建設していきましたが、その際に、当時の常識であった通行税を徴収するための関所や、商売をするために必要な組合、すなわち座を設けませんでした。いわゆる「楽市楽座」の制度を採用したのです。
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しかし、信長によるこれらの斬新な政策は、それまでの関所や座による莫大(ばくだい)な収入を「権益」として頼りにしていた宗教勢力などにとっては、目障りな商売敵(がたき)でしかありませんでした。
一方の信長からしてみれば、宗教勢力は本来の布教活動の精神を忘れ、庶民(しょみん)の迷惑を顧(かえり)みずに、自分たちの都合だけで権益にしがみついているようにしか見えなかったのです。
自己の武力を背景に勢力を拡大した信長は、やがて宗教勢力に対して権益の放棄と武装解除を、信長軍による防衛を条件に迫りましたが、それこそ「眠っていても儲(もう)かる」権益を宗教勢力がそう簡単に手放すはずがありませんでした。信長と宗教勢力との衝突は、いわば時間の問題であり、そして信長にとって最悪のタイミングで起きてしまったのです。
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このうち、尾張の小木江城は信長の弟が守っていたのですが、最後には自害に追い込まれました。京を動けぬ信長は、可愛い弟が一向一揆によって滅ぼされていくのを、指をくわえて見ていることしかできなかったのです。
宗教勢力によるこれらの無情な仕打ちに対して、信長は内心で怒り狂いながらも、じっと耐え続けました。そうこうしているうちに元亀元(1570)年も年末になると、朝廷と足利義昭によって和睦(わぼく)が成立して、信長はやっとの思いで岐阜に戻ることができました。
講和が成立した背景には、兵農分離していない朝倉軍の都合もありました。雪深い越前は真冬になると身動きが取れなくなるので、来春の農作業を確実に行わせるためにも帰国を急いでいたからです。こんなところにも信長との差がありました。
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包囲網が連携(れんけい)することを防いだ信長は、同年旧暦9月12日に、信長に抵抗を続けた比叡山の焼き討ちを敢行しました。長い歴史を誇った延暦寺は業火(ごうか)に焼かれ、逃げまどう多くの僧侶(そうりょ)のみならず、女人禁制のはずなのになぜか存在した女性や、あるいは子供までもが容赦なく首をはねられました。
比叡山の延暦寺は信長に敵対する宗教勢力としては滅亡しましたが、一向一揆の軍勢は相変わらず信長を苦しめ続けました。そして元亀3(1572)年になると、信長が最も恐れていた甲斐(かい、現在の山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)が将軍義昭の誘いに応じ、上洛を目指して動き始めました。
信玄は「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」で徳川家康と信長の連合軍を苦も無く蹴散らすと、不気味な足音とともに京を目指して進軍を続けました。信玄に京へ攻められては、信長とて勝ち目はありません。信長の運命はまさしく風前の灯(ともしび)となったはずでした。
しかし、天は信長に味方しました。上洛の途中で信玄が病に倒れ、帰らぬ人となってしまったのです。
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しかし、信玄が亡くなったことで義昭の野望は夢と終わり、信長に攻められて降伏せざるを得ませんでした。義昭はこの後もう一度挙兵しますが再び敗れ、元亀4(1573)年旧暦7月に、義昭は信長によって京を追われ、240年近く続いた室町幕府は滅亡しました。
義昭を追放した信長は、返す刀で朝倉義景や浅井長政を次々と滅ぼし、越前から北近江にかけて領地を拡大することに成功すると、翌天正(てんしょう)2(1574)年には伊勢長島の一向一揆を、女性や子供に至るまで皆殺しにして、さらに天正3(1575)年には越前の一向一揆も滅ぼしました。
信長の一向一揆に対する酷(むご)い仕打ちは、いかに弟や家臣たちの復讐のためとはいえ、比叡山延暦寺の焼き討ちとともに、その残虐性が問題視されることが多いですが、いずれも先に手を出したのは宗教勢力の方であり、また一向一揆は女性や子供までが武器を持って戦っていたという現実を考えれば、信長の行為はやむを得ないと判断すべきかもしれません。
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式年遷宮は飛鳥時代の7世紀から原則として20年ごとに行われてきましたが、戦国時代を迎える頃には遷宮のための多額の費用と時間を捻出(ねんしゅつ)できなくなり、寛正(かんしょう)3(1462)年を最後に内宮(ないくう)の遷宮が120年以上も行われなくなってしまいました。
そんな危機を救ったのが、実は信長だったのです。天正10(1582)年旧暦1月、内宮・外宮(げくう)の両宮に対して信長が造営費用3000貫(現在の価値で約3億円程度)を寄進しました。しかも、当初は1000貫(現在の価値で約1億円程度)の寄進を依頼され、残りを民間からの寄付で賄(まかな)う予定と聞いた信長が「庶民に迷惑をかけてはいけない」と自腹を切ったというエピソードが遺(のこ)されています。
式年遷宮そのものは信長の死後の天正13(1585)年に実現しましたが、信長の心優しい配慮がなければ、恐らくは遷宮の歴史は途絶(とだ)えていたことでしょう。こうした信長の「隠れた功績」は、もっと知られて良いと思います。
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