我が国の内政における思い切った改革に成功した聖徳太子は、いよいよ外交問題の抜本的な解決へと乗り出しましたが、そのための手段として、中国大陸を約300年ぶりに統一した隋(ずい)に対し共同で対抗するために、朝鮮半島の高句麗(こうくり)や百済(くだら)と同盟を結びました。
事前の様々な準備を終えた聖徳太子は、小野妹子(おののいもこ)を使者として、607年に満を持して2回目の遣隋使を送りました。
この頃、隋の皇帝は二代目の煬帝(ようだい)が務めていました。「日本からの使者が来た」との知らせに煬帝が宮殿に現れると、手にした我が国からの国書(こくしょ)を読み始めました。すると、みるみるうちに煬帝の表情が険しくなり、ついには顔を真っ赤にして叫びました。
「何だ、この失礼な物言いは!」
「こんな無礼で野蛮な書は、今後は自分に見せるな!」
煬帝のあまりの怒りぶりに、隋の外交官たちが震え上がった一方で、我が国からの使者である小野妹子は涼しい顔をしていました。
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「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ひぼっ)する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや(=お元気ですか、という意味)」。
果たしてこの国書のうち、どの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか。
国書を一見すれば、「日出ずる」と「日没する」に問題があるような感じがしますね。「日の出の勢い」に対して「日が没するように滅びゆく」とは何事か、という意味に取れなくもありません。しかし、この場合の「日の出」と「日没」は、単なる方角として使われただけです。すなわち「日の出」が東、「日没」が西という意味であり、煬帝が激怒した理由は別にあります。
それは「天子」という言葉です。天子とはチャイナでは皇帝、我が国では天皇を意味する君主の称号ですが、煬帝は自国よりも格下である(と思っていた)我が国が、この言葉を使ってくるとは予想もしていなかったのです。
なぜなら、チャイナの考えでは、「皇帝」は世界で一人しか存在してはいけないことになっているからです。
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そして、この構図はやがて大陸周辺の諸外国にも強制されることになり、皇帝の臣下となって許してもらうようにお願いするという「朝貢(ちょうこう)外交」を我が国も行わざるを得なくなったのですが、こんな屈辱的な話はありません。
大陸に隋という新たな支配者が誕生したのを機会に、聖徳太子はこれまでとは違う態度によって、すなわち「『皇帝』=『天皇』と名乗れるのは我が国も同じだ」という強い意思で、対等な関係の外交に臨む姿勢を「天子」という言葉で示したのでした。
東アジアの超大国である隋に対して、これまでのように服属するのではなく、対等な立場での関係を希望するという「重大な決意」を聖徳太子は見せつけたわけですが、これは、我が国にとって命取りにもなりかねない、非常に危険な賭けにも思えました。
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隋に勝った高句麗でさえこの態度だというのに、敢えて対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実を与えかねない危険な国書を送りつけた聖徳太子には、果たして勝算があったのでしょうか。それとも、自国の実力を無視した、あまりにも無謀な作戦だったのでしょうか。
結論を先に言えば、当時の隋は、我が国へ攻め寄せる余裕が「全くといっていいほどなかった」のであり、また、その事実を聖徳太子が冷静に見抜いていました。
当時の隋は、高句麗との戦いによる出費で国力が低下していたのみならず、煬帝の圧政による政情不安もあり、国内が決して安定した状態ではなかったのです。
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そんな状況のなかで、無理をして我が国へ攻め込んでもし失敗すれば、国家の存亡にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせましたし、我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが、煬帝には何よりも大きな足かせとなっていました。
こうした外交関係のなかで隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃する可能性も十分に考えられますから、もしそうなれば、いかに大国隋といえども苦しい戦いになることは目に見えていました。
つまり、隋が我が国を攻めようにも、リスクがあまりにも高過ぎるためにできないのです。従って、国書の受け取りを拒否して我が国と敵対関係になるという選択は不可能であり、そうだとすれば、我が国からの国書を黙って受け取るしか手段がありませんが、その行為は我が国が隋と対等外交を結ぶことを事実上認めることを意味していたのです。
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チャイナの皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれません。
さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。
何と、小野妹子が隋からの正式な返書を紛失してしまったのです。外交官が国書を失くすという信じられないミスに大あわてとなった朝廷でしたが、本来なら死罪になってもおかしくなかった妹子は、結局軽い罪に問われたのみで、すぐに許されました。
これには、隋からの返書の内容があまりにも我が国にとって厳しく(例えば、同じ「天子」と称したことに対する激しい怒りなど)、とても見せられるものではなかったゆえに、敢えて「失くした」ことにしたからだという説があります。聖徳太子や推古(すいこ)天皇が小野妹子の罪を軽くしたのも、妹子の苦悩を以心伝心で察したからかもしれません。
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裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。
「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。
朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られないばかりか、丁寧な文面で我が国を褒(ほ)める内容にもなっていますね。
この国書が意味することは非常に重要です。つまり、終始ぶれることなく対等外交を進めた聖徳太子のように、国の支配者が相手国に対して、主張すべきことは主張する態度を堂々と貫けば、たとえ世界の超大国を自負する隋であっても、まともに応じてくれることを示しているのです。
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明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、チャイナの君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。
「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。
我が国が皇帝の文字を避けることで隋の立場に配慮しつつも、それに勝るとも劣らない称号である「天皇」を使用することで、両国が対等な立場であるという方針を変更しないという断固たる決意を示したのでした。ちなみに、この国書が「天皇」という称号が使われた始まりとされています(ただし、これには異説もあり)。
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そして、聖徳太子による対等外交の方針は、それまでのチャイナによる冊封(さくほう)体制から脱却するきっかけとなり、我が国に自主独立の精神と独自の文化を生み出すきっかけにもなったのです。その意味においても、外交面において聖徳太子が我が国に残した功績は極めて大きなものがありました。
ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として、ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用しないということが、聖徳太子と高句麗に対する隋の態度の大きな違いを見ればよく分かります。
我々日本人には、かねてより清廉潔白(せいれんけっぱく、心が清くて私欲がなく後ろ暗いところのないこと)を好む風潮があり、それ自体は非常に重要なことではありますが、対外的には全く通用しないどころか、逆に利用されてしまうという危険性すらあるのです。聖徳太子と高句麗との外交姿勢の大きな違いは、現代に生きる私たちに大きな教訓を残しているといえるでしょう。
なお、遣隋使以後の我が国は、大陸文化の吸収のために朝貢はしても、冊封(さくほう)されない国、という立場をとりました。これを「不臣(ふしん)の朝貢国」といいます。これは、チャイナの冊封体制からの脱却を意味しており、聖徳太子の功績の大きさをうかがわせるともいえます。
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