西郷による、なりふり構わぬ策士ぶりが大きな歴史の流れを動かしたことになります。なお、この当時江戸市内の警備をしており、江戸の薩摩藩邸を焼討ちして戊辰戦争のきっかけをつくったのが、酒井家(さかいけ)の庄内藩(しょうないはん)だったことが、後の西郷自身と庄内藩との運命を大きく変えることにつながりました。
明治元(1868)年旧暦1月3日、慶喜率いる旧幕府軍は、薩長を中心とする官軍となった討幕軍と京都の鳥羽・伏見で激突しました。これを「鳥羽・伏見の戦い」といいます。戦いは官軍の圧勝に終わり、朝敵となった慶喜は江戸城に入りましたが、勢いに乗る官軍は慶喜への征討軍を編成して江戸へ向かわせました。
征討軍が駿府(すんぷ、現在の静岡)にまで迫ってくると、旧幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)は早期の停戦と江戸城の開城を慶喜に進言し、交渉を委任されました。
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西郷の条件は江戸城の引き渡しや旧幕府軍の武装解除などであり、山岡はそれらの要求を大筋で受けいれたものの、一つだけは断固として拒否しました。
その要求とは「徳川慶喜の身柄(みがら)を備前藩(びぜんはん)に預けること」でした。勝と同じく旧幕臣の山岡鉄舟にとって、自らの主君が流罪(るざい)になってしまうことだけは、他の旧幕臣をなだめるためにも絶対に受けいれられなかったのです。
山岡が「慶喜の備前藩お預け」を拒否すると、西郷も「これは朝命(ちょうめい、朝廷の命令=天皇の命令のこと)である」と一歩も引きませんでした。二人の話し合いは平行線をたどり、もはや決裂かと思われたその時、山岡が西郷に迫りました。
「西郷さん、もしあなたと私の立場が逆になって、島津侯(しまづこう、島津の殿様のこと)を他藩に預けろと言われれば、あなたはその条件を受けいれるつもりですか!」
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山岡は翌3月10日に江戸に戻って勝に結果を報告すると、西郷も13日に江戸の薩摩藩の屋敷に入りましたが、征討軍の江戸城進撃の予定日は15日に迫っており、予断を許さない中で西郷隆盛と勝海舟との会見が行われたのです。
西郷と勝との話し合いは明治元(1868)年旧暦3月13日から14日にかけて江戸の薩摩藩屋敷で行われました。その結果、旧幕府は江戸城を無傷で明け渡し、慶喜は故郷の水戸で自主的に謹慎するという、極めて平和的な内容で決着し、西郷は翌15日に行う予定であった江戸城への攻撃を中止しました。
この後4月に江戸城は争うことなく開城となり、戦いで多くの血が流されることを回避できたほか、江戸を焼け野原から防いだことは、後の首都移転など大きな効果をもたらすことになりました。
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「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人物でなければ天下の偉業は成し遂げられないものだ」。
江戸城の無血開城によって大規模な戦乱は回避されたものの、戦わずして降伏することを嫌った旧幕臣を中心とする抗戦派は、「奥羽越(おううえつ)列藩同盟」を結成していた東北諸藩を中心に各地で戦闘を続けましたが、ここで大きく明暗が別れることになりました。
かつて幕府のもとで京都守護職を務めた会津藩(あいづはん)に対して、長州藩が当時の恨みを晴らすべく攻め込んだのです。後に「会津戦争」と呼ばれた戦いにおいて、会津藩は徹底的に攻撃を受け、多くの血を流した末に降伏しました。
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「切腹して詫(わ)びるなど、とんでもないことだ!」
西郷は藩主や重臣の切腹を認めなかったどころか、庄内藩が差し出した武器一切の目録も「貴藩には北方の守りをしてもらわねばならないのだから、武器はそのままお持ちください」と返してしまいました。
また城明け渡しの儀式に際しては「敵味方に分かれるのは運命であり、一旦(いったん)帰順したからには兄弟も同じである」と官軍を丸腰で入場させる一方で、庄内藩士には帯刀(たいとう)を許しました。
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「武士が一旦兜(かぶと)を脱いで降伏した以上、武士の一言(いちごん)を信じるのが武士というものである。もし反逆すれば、また討てばよい」。
それにしても、長州藩の厳しい処置に比べて、なぜ西郷はここまで寛大であったのでしょうか。その背景には、西郷が自然と身に着けていた武士道精神に基づく兵法がありました。
その精神をまとめたものを「闘戦経(とうせんきょう)」といいます。
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そこで、今から約900年前に大江家(おおえけ)があらわした兵法書が、日本人本来の精神的な崇高(すうこう)さや美徳を重視した闘戦経であり、武士道精神を守るとともに、孫子ばかりに頼って国を誤ることのない様にと伝えられたものとされています。
なお、孫子と闘戦経とを表裏(ひょうり)で学んだ天才的な武人としては、あらゆる戦術を完璧にこなして、類稀(たぐいまれ)なる立派な戦例を残しながら、最期には君命に従って湊川(みなとがわ)で壮絶な戦死を遂げた楠木正成(くすのきまさしげ)の名が挙げられます。
振り返れば、西郷隆盛のこれまでの姿勢は、時として幕府を挑発して戊辰戦争を起こさせるなど「孫子の兵法」が見られる一方で、山岡鉄舟の説得を受けいれたり、自ら降伏した庄内藩に寛大な処置を行ったりと「武士道精神」の神髄(しんずい)が見受けられるのも、西郷自身が闘戦経の体現者である証拠だとはいえないでしょうか。
なお、闘戦経に基づく武士道精神は、その後の彼の人生に幾度も垣間見えるようになります。
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父親の希次の厳しい教育と、乃木家の親戚であり父の親友、さらには吉田松陰(よしだしょういん)の叔父でもあった、萩の玉木文之進(たまきぶんのしん)の薫陶(くんとう)を受けた乃木将軍は、心身共に立派な男子として成長を遂(と)げました。
明治維新を迎えた後も、次々と出世を重ねた乃木将軍は、明治4(1871)年旧暦11月に陸軍少佐に昇進しました。当時22歳で少佐に任じられたのは異例の大抜擢であり、後に任官された日を「生涯で何よりも愉快な日であった」と述懐しています。
その後、明治10(1877)年2月に「西南の役(えき)」が始まり、西郷隆盛を首領とする薩摩軍が熊本城を包囲すると、乃木将軍は主力を率いて小倉を出陣し、2月22日の夜に熊本城から北約10kmに位置する植木という場所で薩摩軍と遭遇(そうぐう)しました。
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連隊長としてあるまじき大失態に絶望した乃木将軍は、もはや死をもってその大罪を償う他はないと言わんばかりに、敵の砲煙弾雨(ほうえんだんう)をものともしない奮闘ぶりを見せ、同年4月に官軍が薩摩軍の熊本城に対する包囲網を打ち砕くと、同月22日に乃木将軍はその功績を称えられて中佐に昇進し、熊本鎮台参謀に任じられました。
連隊旗喪失の件も、西南の役の功績が評価されて無罪となった乃木将軍でしたが、彼の心は暗く沈んでいました。そんなある日、彼はついに人知れず割腹自決を遂げようとしたのですが、同じ熊本鎮台参謀で、長州藩出身者として普段から親しかった児玉源太郎(こだまげんたろう)少佐が気付き、すんでのところで食い止めることに成功しました。
どうにか自決を止めることができた児玉は、乃木将軍に向かって言いました。
「死ぬなら立派に死ね。しかし、貴様が腹を切ったら失った軍旗が出てくるとでもいうのか。もし仮に軍旗が出てきたとしても、その責任はそれで済むのか。武士が過失をしても、腹さえ切ればそれで責任が解除されるというのが、俺たちが学んだ武士道なのか。どうせ死ぬと決めたのならば、過失を償(つぐな)うだけの働きをしてからでも遅くはあるまい。ただ死ぬのは犬死だ」。
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その後、時が流れて明治27(1894)年に日清戦争が勃発(ぼっぱつ)すると、乃木将軍は歩兵第一旅団長として出陣して遼東(りょうとう)半島に上陸し、清国にとって最重要の拠点であった旅順(りょじゅん)の要塞(ようさい)を、一万数千人の兵力によって、わずか一日で陥落させました。
そして、そんな乃木将軍を優しく見守り続けられたのが、明治天皇でいらっしゃいました。
明治天皇が乃木将軍の存在を認識なされたのは、皮肉にも将軍が連隊旗喪失事件を起こした後に、敵前をいとわず獅子奮迅(ししふんじん)の働きを見せていた頃でした。乃木将軍の行動がやがて天皇のお耳に達すると、陛下(へいか)は「乃木を殺してはならん」と前線指揮官の職から外すように命じられたとのことです。
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「もののふの 攻めたたかひし 田原坂 松も老木に なりにけるかな」
当時は西南の役から四半世紀の時が流れていましたが、それだけの長い間乃木将軍と人生を共にしてきたというご感慨と同時に、老いてもなお忠義の臣として陛下に仕える将軍に対する愛情を込めて詠まれた御製でした。
その後、明治37(1904)年に日露戦争が勃発すると、乃木将軍は天皇ご自身が選ばれた親任官として第三軍司令官に任じられ、戦地に赴(おもむ)きました。
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にもかかわらず、二度の総攻撃をかけても旅順が落ちなかったという事実が大きな失望を呼び、事情を知らない軍内外からは、乃木将軍に対する非難の声が日増しに高まっていきました。
第三軍に対する非難は、ついに「乃木更迭(こうてつ)論」にまで達しました。しかし、天皇ご自身が選ばれた「親任官」であった乃木将軍を辞めさせるには、明治天皇のご裁可が必要でした。このため、陸軍参謀総長の山県有朋(やまがたありとも)は、御前会議において第三軍司令官を交代させるべく、明治天皇にお伺(うかが)いを立てましたが、陛下はただ一言仰られたのみでした。
「乃木を替えれば、乃木は生きてはおらぬぞ」。
第三軍の苦戦が続く最中であっても、明治天皇の乃木将軍へのご信任はいささかも揺(ゆ)らぐことはなかったのです。
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先述のとおり、旅順攻略が進まないことに対しては、乃木将軍一人にすべての責任をかぶせるにはあまりにも酷(こく)な条件がそろい過ぎていました。しかし、乃木将軍は一切言い訳をせず、多くの犠牲者を出しながら旅順を落とせない責任を、一人で被(かぶ)る決意をしていました。
そんな将軍の悲壮な覚悟が、第三軍の士気に影響しないはずがありません。「乃木将軍は多数の犠牲者が出たことに苦しんでおられるのみならず、我々のことを本当に心配しなさっておられる。将軍のためにも我々が頑張らなくてどうするというのだ」。
明治天皇のご慧眼(けいがん)どおり、第三軍は「乃木なればこそ」苦しい戦いをいとわず一丸となって奮戦し、また「乃木なればこそ」最終的に勝利をつかむことが可能となったのです。
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旅順陥落後の1月5日、水師営(すいしえい)において乃木将軍とステッセルとの会見が行われました。後の世に名高い「水師営の会見」です。会見に先立って、旅順攻略を深く喜ばれた明治天皇は、ステッセルが祖国のために力を尽くしたことを讃えると共に、武人としての名誉の確保を望まれるという聖旨(せいし、天皇のお考えのこと)を乃木将軍に発せられました。
これを受けて、乃木将軍はステッセル以下の将官に帯刀を許すなど名誉を重んじると共に、各国の従軍記者には、敵味方の優劣がつかない構図での撮影を許可しました。こうした姿勢が敗戦の将たるステッセルを感激させると共に、武人としての乃木将軍の高潔な精神が、世界各国から絶賛されたのです。
日露戦争は我が国の勝利に終わり、乃木将軍は明治39(1906)年1月に帰国の途に就きましたが、国民の熱烈な歓迎を受けた一方で、その心は暗く沈んでいました。多くの将兵を死に追いやりながら、自分だけがおめおめと生き延びたことを深く恥じていたのです。
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「臣希典不肖(ふしょう)にして、陛下の忠良なる将校士卒を多く旅順に失い申す。このうえはただ割腹して罪を陛下に謝し奉(たてまつ)らん」。
明治天皇は無言でお聞きになっておられましたが、乃木将軍が退出しようとすると呼び止められ、以下のように仰られました。
「卿(きょう、ここでは乃木将軍のこと)が割腹して朕(ちん)に謝せんとの衷情(ちゅうじょう、うそやいつわりのない本当の心)は、朕よくこれを知る。然(しか)れども今は卿の死すべきときにあらず。卿もし強(し)いて死せんとならば、朕世を去りたる後にせよ」。
乃木将軍は、陛下にとってかけがえのない多数の兵士の生命を、自分が奪ってしまったことの責任を取るために自刃すると述べましたが、明治天皇は、将軍の苦衷(くちゅう)を察せられたうえで「今は死ぬべき時ではない。どうしても死ぬというのであれば自分が世を去った後にせよ」と諭(さと)されたのです。
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翌明治41(1908)年4月から、裕仁(ひろひと)親王殿下(後の昭和天皇)が学習院初等科へご入学されましたが、乃木将軍は明治天皇のご期待に応え、裕仁親王に将来の天皇としての帝王学を厳格に教育すると共に、どんな小さなことでも大切だと思うことは丁寧に教え、親王も素直にそれを守られました。
例えば、乃木将軍は裕仁親王に普段から徒歩で通学されるように指導し、それ以降、親王は雨の日でも馬車に乗らずに、コートを着用されるなどして学校へと向かわれました。また、雪が降る寒い日であってもストーブにあたることなく、外に出て駆け回ることで体を温めるようにも指導したそうです。
親王当時に院長閣下の乃木将軍をお慕(した)いなされた昭和天皇は、後にご自身の人格形成に最も影響があった人物として、乃木将軍の名を挙げておられます。
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しかし、明治天皇は同年7月30日午前0時43分に、61歳(満年齢59歳)で崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されました。陛下の崩御を知らされて絶望の底に叩き落された乃木将軍は、殉死をする決意を固めました。
明治天皇の大喪の儀は大正元(1912)年9月13日に行われることになりましたが、その直前の9月10日、乃木将軍は皇孫殿下に最後のご挨拶(あいさつ)をしました。その際、将軍は裕仁親王に山鹿素行(やまがそこう)の名著である「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」を差し上げ、素晴らしい本であるから熟読されるようにと勧めました。
いつもと違い、ただならぬ気配が漂(ただよ)う乃木将軍の様子に、裕仁親王は「院長閣下(=乃木将軍)はどこかへ行かれるのですか?」と聞かれたそうです。
9月12日の夜、乃木将軍は遺書と辞世を書きました。そして御大葬がしめやかに行われた9月13日、すべての身辺整理を終えた乃木将軍は、御遺体を乗せた御霊轜(ごれいじ、霊柩車のこと)が静かに宮殿を出発する合図の号砲が打たれた午後8時過ぎに、自邸にて妻の静子と共に先帝の後を追って自刃しました。享年64歳(満年齢62歳)でした。
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乃木将軍の殉死を受け、国民を主体として様々な動きが見られるようになりました。東京・赤坂の乃木邸には多くの国民がこぞって訪れ、付近の坂の名前も「乃木坂」と改められました。
やがて神戸・大阪・京都など近畿圏をはじめ、全国各地の乃木将軍を尊崇(そんすう)する人々の尽力により、大正5(1916)年9月に京都で乃木神社が創建されたほか、大正8(1919)年には東京で乃木神社創立の許可がくだり、翌大正9(1920)年に明治天皇と昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)とをお祀(まつ)りする明治神宮が創建された後に造営の事業が起こされ、大正12(1923)年11月1日に鎮座祭が行われました。
乃木将軍が我が国に遺した数々の実績は、多くの国民を感動に包むと共に、ご祭神として今もなお国民の心に生き続けているのです。
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ポツダム宣言の内容は「軍隊の無条件降伏」こそ示されているものの、宣言文に「私たちの条件は以下のとおりである」という降伏の条件が記載されており、決して「国全体の無条件降伏」ではありませんでしたが、その一方で宣言文には重大な欠陥がありました。天皇の地位に対する保証が明記されていないのです。
いつの時代であろうとも、天皇なくして我が国の将来は有り得ません。このため、我が国ではポツダム宣言を受けいれるかどうか、態度を明確にしないまま連合国の出方をうかがうことにしたのですが、この裏には、アメリカによるとんでもない謀略が隠されていました。
実は、当初の宣言文には「日本が降伏すれば天皇の地位を保証する」と書かれていたのです。駐日大使の経験者で我が国の実情をよく知っていたグルーによって、我が国が宣言に応じやすいようにつくられていたのですが、土壇場(どたんば)でアメリカ大統領のトルーマンが削除しました。
トルーマンが削除した宣言が発表されたことによって、アメリカは宣言以前に決まっていた計画を実行に移しやすくなったのです。その計画こそが、悪名高い「原子爆弾の日本への投下」でした。
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我が国が降伏寸前であったにもかかわらず、まるで実験を行うかのように原爆を2つも落としたアメリカによる暴挙は、国際法上でも決して許されることのない、民間人などの非戦闘員を対象とする空前の大虐殺です。
さらには、アメリカの原爆投下に慌(あわ)てたのか、ソ連がそれまでの日ソ中立条約を一方的に破って8日に我が国に宣戦布告し、9日から満州北部などへの侵攻を開始しました。
このままでは北海道をはじめとする我が国北部の領土がソ連に奪われてしまいます。我が国はまさに絶体絶命の危機に陥(おちい)ってしまったのでした。
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会議は鈴木首相の他に、阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣、東郷茂徳(とうごうしげのり)外務大臣など合計7人で行われ、東郷外相は宣言の受諾を、阿南陸相はいわゆる本土決戦も辞さないと徹底抗戦をそれぞれ主張し、いつまで経っても平行線が続きました。
やがて日付も10日に変わり、開始から2時間経ったある時、鈴木首相は立ち上がって昭和天皇に向かい、こう言いました。
「出席者一同がそれぞれ考えを述べましたが、どうしても意見がまとまりません。まことに畏(おそ)れ多いことながら、ここは陛下の思(おぼ)し召(め)しをおうかがいして、私どもの考えをまとめたいと思います」。
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