しかし、デタントによってアメリカの国防費が低く抑えられたのに対して、ソ連は1970年代にかけて大幅な戦略核兵器の増強を行い、ICBM(大陸間弾道ミサイル)やSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)の保有量がアメリカを上回るようになりました。
戦略核兵器でアメリカを抜き去り、優位に立ったソ連は、返す刀で石油の供給地である中東に包囲網(ほういもう)を仕掛けるため、1977(昭和52)年にはエチオピア、1978(昭和53)年には南イエメンとアフガニスタンでクーデターを起こさせ、親ソ政権を樹立させました。
ソ連の野望は極東にも向けられ、昭和53(1978)年には、我が国固有の領土である北方領土のうち、国後(くなしり)・択捉(えとろふ)・色丹(しこたん)島に一個師団(兵力約12,000人)に相当する地上部隊を再配備したほか、長距離砲や対地攻撃用ヘリコプターまで配備するなど、極東における緊張感が高まりました。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ソ連による軍事介入は、中東包囲網の一環であるアフガニスタンを手放さないというソ連の意思を世界に示すとともに、ソ連の武力進攻がこの後もあり得るという厳然たる事実を明らかにしましたが、北方領土におけるソ連の軍事力増強を見せつけられていた我が国は、より一層の強い危機感を抱くようになりました。
また、ソ連の野望が世界に示されたことは、同時に米ソ間の緊張が再び高まったことを意味しており、デタントが崩壊するとともに、翌1980(昭和55)年に行われた、ソ連でのモスクワオリンピックに対して、アメリカや我が国を含む西側諸国の多くが、アフガニスタン侵攻への抗議を理由にボイコットしました。
なお、1980(昭和55)年夏にポーランドで自主独立の労働組合として「連帯」が結成され、政治の民主化を求めましたが、これに対してソ連が軍事介入をほのめかして圧力をかけると、翌1981(昭和56)年にポーランド軍部がクーデターを起こして、ヴァウェンサ(=ワレサ)氏を中心とする「連帯」の幹部が逮捕されるなど、ソ連による脅威は東側諸国にまで容赦なく及びました。
ちなみにヴァウェンサ(=ワレサ)氏は、その後1983(昭和58)年にノーベル平和賞を受賞したほか、民主化後の1990(平成2)年には、選挙によってポーランドの大統領に就任しています。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、当時のイギリスのサッチャー首相(保守党)は、経済に対する政府の過度の介入を避け、民間の活力に重きを置いた「小さな政府」をめざそうとする「新保守主義」を唱えていましたが、レーガンはサッチャー政権と協調したうえで「強いアメリカ」を標榜(ひょうぼう、主義・主張や立場などを公然と表すこと)して、ソ連に対する強硬姿勢を見せました。
レーガンによる軍備の拡大は、必然的にソ連との軍拡競争をもたらしたため、米ソによる「新冷戦」と呼ばれましたが、果てしない軍拡競争によって、経済が急速に悪化したアメリカは、海外製品の流入などによる国内産業の空洞化や、国家財政と国際収支のいわゆる「双子の赤字」に苦しんだのみならず、世界最大の債務国へと転落してしまいました。
先述した、アメリカによる我が国に対する自動車などの輸出自主規制や、農産物の輸入自由化を強く求めるといった「貿易摩擦」は、こうした背景から生まれたものでした。アメリカからすれば「誰がお前の平和を守ってやっているんだ」という思いがあったのかもしれません。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
当時の我が国は中曽根康弘首相の時代でしたが、中曽根首相はレーガンと愛称で呼び合う(いわゆる「ロン・ヤス」)ほどの関係を構築し、日米関係は一気に緊密化しました。
レーガンが日本を味方に引き入れたのには大きな理由がありました。円高不況を乗り越え、バブル景気を迎えつつあった当時の我が国の国内総生産(=GDP)は、アメリカに次いで世界第2位であり、しかもそのアメリカに迫る勢いを見せていました。
アメリカは我が国の力を警戒するとともに「強い日本」と連携(れんけい)することで、ソ連との果てしない軍拡競争を有利に展開しようと算段したのです。そして、そこに世界に大きな影響力を保持していた、かつての「大英帝国」が加われば、まさに「鬼に金棒」でした。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なお、我が国が戦後に「国際情勢をも動かすことができる大国」として本格的に復活したのは、中曽根内閣の頃からです。中曽根氏には「靖国神社への参拝を取りやめた」という大きな失点があり、評価の分かれるところではありますが、レーガンやサッチャーとともに一時代を築き上げたという歴史的意義に関しては、もっと語られてよいと思います。
それでなければ、我が国の最高勲章の一つである大勲位菊花大綬章(だいくんいきっかだいじゅしょう)を、存命中に授与されるということもなかったでしょう。なお、中曽根氏と同じように大勲位菊花大綬章を生前に授与されたのは、戦後ではいずれも元首相の吉田茂(よしだしげる)と佐藤栄作のみです。
昭和54(1979)年に社会学者エズラ・ヴォーゲル氏の著書である「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が発表され、世界的ベストセラーとなりましたが、中曽根内閣の頃には「日本はアメリカ以上の大国になるかもしれない」と世界中の人々が本当に考える時代を構築していたのです。
ちなみに、我が国が安定成長期からの円高不況を乗り越え、空前の好景気を迎えた1980年代に関しては、一般的には「バブル景気」と否定的に語られることが多いですが、その一方で「黄金の80年代」という呼び方も有名です。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
我が国もバブル崩壊(詳しくは次回の講演で紹介します)後の不況が長引いたこともあって、国内総生産(=GDP)が30年近く前からほとんど上昇していないほど経済が停滞(ていたい)していますし、またイギリスもヨーロッパ連合(=EU、詳しくは後述します)の設立以後はその影響力が低下するなど、世界の情勢はすっかり様変わりしました。
そんな中、勢いを増しつつあるのが、日米英の連携時代にはGDPが日本の10分の1ほどしかなかった中華人民共和国です。GDPで既に我が国を上回った中華人民共和国は、年間予算の多くを軍事費に回すことで、世界での影響力をますます強めています。
それに対して、GDPが横ばいのままのみならず、後述する歴史問題での「いわれなき誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)」を受けている我が国の停滞ぶりが、中華人民共和国の増大にますます拍車をかけているのが今の世界情勢であることを、私たち日本国民はもっと理解すべきではないでしょうか。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なぜなら、自由主義社会を本当に回しているのは、他でもない資産家、すなわち「金持ち」だからです。金持ちが産業を創造し、人を雇い、また贅沢(ぜいたく)をすることによって、国の資産が循環するとともに、新たな文化が栄えて、さらなる経済発展が望めるのです。
しかし、軍拡競争によって軍事費が増大したことで、アメリカと同様に財政状況が悪化したソ連は、もっと深刻な問題と化しました。なぜなら、ソ連の国家体制が「社会主義(共産主義)」だったからです。
本来であれば、金の産出や石油の埋蔵といった資源に恵まれ、世界有数の大穀倉(こくそう)地帯であるウクライナを支配に置き、無限大に広がる森林や広い国土を有していたソ連は、世界一の裕福な国家になれる素地を充分に持っていました。
ところが、私有財産を敵視し、富を国家で分配するという社会主義体制において、自らの能力で稼いだ資産がすべて「悪」とみなされたことが、ソ連にとって致命傷となったのです。なぜそう言い切れるのでしょうか。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ということは、仮に事業に成功しても、国民は私産を一切得られませんし、それどころか、どれだけ頑張って働いたとしても、計画経済の下では、ノルマのみを実現させた人間と同じ価値としか見られないのです。
このような体制で、どうやって労働意欲を高められるというのでしょうか。計画経済が長く続いたことは、必然的に労働力の低下をもたらしたことで、結果として「計画が実現できない経済」と化しました。
それでも、かつての「五か年計画」のように、資源が豊富な間は、まだ国家として十分に機能していました。しかし、有り余る資源を使い切るか、あるいは国家として使えなくなるまでに体制が低下したことによって、もはや修復が不可能になるまで財政状況が悪化してしまったのです。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
就任当時54歳の若さだったゴルバチョフは、それまでの社会主義体制の立て直し(これを「ペレストロイカ」といいます)に着手し、情報公開(これを「グラスノスチ」といいます)を軸とした政治や社会の自由化を推進しました。
また、アメリカとの軍拡競争が国家財政の危機を招いたことから、ゴルバチョフはアメリカなどの西側諸国と折衝を重ね、1987(昭和62)年に中距離核戦力(IMF)全廃条約をアメリカと調印したほか、翌1988(昭和63)年には国連総会に自ら出席して50万人の兵力削減を約束し、また同年には軍事介入したアフガニスタンからの撤退を始めました。
さらには、1989(平成元)年12月に地中海のマルタ島で、アメリカのブッシュ大統領(共和党)との会談に臨んだ後に、米ソ両首脳による「冷戦の終結」が宣言され、東西冷戦が事実上の終止符を打ちました。これを「マルタ会談」といいます。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、アメリカと和解するために軍縮に踏み切ったことは、ソ連の軍事力が低下したと同時に、他の東欧諸国に対する締め付けが弱くなったことを意味していました。このため、東西冷戦の終結と相まって、ソ連という「支柱」を失った他の東欧共産主義国家は、雪崩(なだれ)を打って崩壊への道を歩むようになりました。
例えば、東西冷戦の象徴とされてきた「ベルリンの壁」が1989(平成元)年11月に崩壊したほか、翌1990(平成2)年には東西ドイツの再統一が実現しました。また、ポーランドやハンガリー、チェコスロバキアなどが無血で民主化が成し遂げられた一方で、ルーマニアではチャウシェスク大統領が公開で銃殺刑に処されるなど、流血の革命となりました。これら一連の流れを「東欧革命」といいます。
さて、東欧で共産主義国家が次々と倒れていったのには、ソ連と同様に経済状況が悪化したことや、ソ連自身の弱体化による民主化運動の高まりがあったのは間違いないですが、もう一つの「隠された理由」があることをご存知でしょうか。
実は、冷戦の終結に最も貢献したのは我が日本なのです。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
その後、占領期から朝鮮特需、そして高度経済成長を経て、見事に復興を成し遂げ、世界有数の経済大国となった我が国は、二度にわたる石油危機も乗り越え、次々と新商品を開発するようになりました。
日本の優れた製品は、やがて東欧諸国にも輸出されるようになりましたが、共産主義国家で経済が悪化し、技術力も停滞したままの東欧諸国では「Made in Japan」のハイテク製品をつくることができませんでした。
かつての歴史を知る東欧諸国民にとって、見下していたはずの黄色人種国家である日本の製品が、自国産のものよりも優れているというのは、たとえ日本が日露戦争でロシアに勝った国であるということが分かっていても、それはそれで屈辱的(くつじょくてき)なものでした。
ところが、日本と同じだけのハイテク製品を、マレーシアやインドネシアなど、かつて白人国家の植民地であった国々がつくっていることが分かると、東欧諸国民はより激しい衝撃を受けるようになったのです。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
黄色人種どころか、自分たちが人間扱いしてこなかった旧植民地の被支配者層がつくった製品ですら、自国ではつくることができない。この残酷な現実を突き付けられたとき、東欧諸国民は「自分たちがこうなってしまったのは、共産主義体制に問題があるに違いない」という「真実」に気づきました。
東欧共産主義国家が相次いで倒れたのは、単なる経済破綻(はたん)でもなければ、民主化運動の高まりだけでもありません。「百聞は一見に如(し)かず」ということわざがあるように、東欧諸国民がハイテク製品を見たことで、自国の国家体制に疑問を抱いたからこそ、内部からあっけなく崩壊してしまったのです。
そして、その崩壊のきっかけとなったものこそが、日本がつくったハイテク製品でした。すなわち、東欧共産主義国家の破綻は我が国にこそその遠因があり、また、それは大国ソ連といえども例外ではなかったのです。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、第二次世界大戦中にソ連に併合された、エストニア・ラトビア・リトアニアのいわゆる「バルト三国」がそれぞれ独立を主張するようになり、ソ連は軍事介入によって鎮圧を図ったものの、1991(平成3)年3月にはリトアニアが独立を宣言しました。
バルト三国の独立は、ソ連の連邦体制の崩壊を意味していたのみならず、同年7月には、ソ連が主導して設立されたワルシャワ条約機構が解散するなど、ソ連の国家体制がますます揺(ゆ)らぐようになりました。
こうした状況に危機感を強めた、ヤナーエフ副大統領らの共産党保守派は、ゴルバチョフがモスクワを離れた隙(すき)を突いて、1991(平成3)年8月19日にクーデターを起こし、国家非常事態委員会が実権を握りました。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
そして、同年12月までに「ソビエト社会主義共和国連邦」を構成していた共和国のすべてが独立を宣言したことで、ソ連は崩壊し、新たにロシア共和国などからなる独立国家共同体(=CIS)が誕生したのです。
ソ連崩壊後の新生ロシアでは、1917(大正6)年のロシア革命以前の三色旗(白・青・赤の横長)が復活し、あちらこちらに建てられていたレーニン像が取り壊されたほか、「レニングラード」が「サンクトペテルブルク」に戻るなど、旧名称が復活した都市も存在しました。
かくして、ロシア革命から74年、1922(大正11)年の設立から69年を経て、ソビエト連邦が崩壊したことで、東西の冷戦構造は完全に消滅しました。
ところが、ソ連の崩壊によって、世界中の左翼の学者や評論家がその存在価値を失ったにもかかわらず、我が国においては、むしろ「左傾化」あるいは「赤化」が加速するという皮肉な結果となったのです。その背景には「保守の油断」と「左翼の方針転換」がありました。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、そんな保守系の「油断」の隙を突くかたちで、左翼系の「進歩的文化人」と呼ばれた人々は、自らの思想を満足させるために、ソ連崩壊以前から続けていた「日本の歴史から、中華人民共和国や韓国の好みそうな問題を取り上げ、両国に『御注進』する」という流れを一気に加速し始めました。
こうした我が国の左翼からの誘いに中華人民共和国や韓国が乗ったことで、「日本はアジアの人々を中心に、世界中の人々に耐え難い苦痛を与えた」という自虐(じぎゃく)史観が、ソ連崩壊以前より強固に定着してしまいました。
加えて、単なる自虐史観で飽(あ)き足らない左翼の人々が、歴史的に有り得なかったり、そもそも虚構から始まったりしている「南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)」や「従軍慰安婦」といった問題を拡散したことで、我が国に今もなお深刻な影響を与えているのです。
さらには、29年前の中華人民共和国で現実に起きた「悲惨な事件」の存在が、現在の我が国の公営放送で「なかったことにされている」という、異常な事態となっているのをご存知でしょうか。いわゆる「天安門事件」のことです。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、中華人民共和国は、同年5月20日に北京に戒厳令(かいげんれい)を発すると、6月4日には人民解放軍が学生や市民に対して無差別に発砲するなどの武力弾圧を行い、多数の死傷者を出しました。これを天安門事件といいます。
天安門事件は、当時のメディアを通じて世界中へ発信され、我が国を含めた西側諸国が中華人民共和国政府に対して抗議や経済制裁を行うなど、中華人民共和国は国際的な非難を浴び、世界から孤立しました。
ところが、そんな「追いつめられた」国家に対して、わざわざ「救いの手」を差し伸べた国が存在したことで、中華人民共和国は息を吹き返したのです。その「救った」国家こそが日本であり、またその手段とは「天皇陛下の訪中」でした。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国がチャイナを訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下がチャイナの都を訪問されれば、それは我が国が「チャイナの傘下(さんか)に入る」ことを意味していました。
にもかかわらず、当時の宮澤喜一(みやざわきいち)首相と加藤紘一(かとうこういち)内閣官房長官は、中華人民共和国側の誘いにあっさりと乗ってしまい、平成4(1992)年に天皇陛下の訪中が実現してしまいました。
中華人民共和国は天皇のご訪問に「感激」して「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に約束しましたが、日本を「家来」扱いした「チャイナ」が、そんな口約束を守るはずがありません。
かくして、天皇陛下の訪中をきっかけとして、以後の中華人民共和国は、平成21(2009)年に習近平(しゅうきんぺい)国家副主席(現在は国家主席)が無理やり天皇陛下との会見をねじ込むなど、我が国に対して傲岸不遜(ごうがんふそん、おごりたかぶって人を見下すさま)な姿勢をとるようになってしまったのです。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
かつて官房長官時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中華人民共和国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで「チャイナ」に売り渡したのです。
しかも、宮澤首相はこの後、平成5(1993)年に河野洋平(こうのようへい)内閣官房長官(当時)を通じて「河野談話」を発表させ、我が国がいわゆる「従軍慰安婦」問題に関していわれなき誹謗中傷を、今もなお受け続けなければならないきっかけすらつくってしまっています。
なお、中華人民共和国が多数の市民を一方的に殺傷した天安門事件ですが、これだけの大事件にもかかわらず、我が国で多くのシェアを誇っている日本史の歴史教科書には一切の記述がありませんし、先述のとおり、我が国の公営放送のある番組では、天安門事件の存在そのものが「なかったこと」にされています。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
これに対し、1989(平成元)年には、チベットのダライ・ラマ14世が、世界平和やチベット宗教・文化の普及に対する貢献が評価され、ノーベル平和賞を受賞しました。
また、2010(平成22)年には、天安門事件の主導者であった作家・人権活動家の劉暁波(りゅうぎょうは)氏が、一連の民主化への活動を評価されてノーベル平和賞を授与されましたが、中華人民共和国政府は、この受賞に対して強い抗議を行いました。
中華人民共和国によるこれらの強引な政策あるいは手段は、国際社会における深刻な人権問題であるはずですが、日本国内の各種人権団体の多くが、なぜか今日まで沈黙を守り続けています。
※下記の映像は12月12日までの掲載分をまとめたものです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。