文学では、社会常識や既成のリアリズムに挑戦したり、自身の戦争体験を表現したりするといった、戦後の新しい価値観を代表した、太宰治(だざいおさむ)や坂口安吾(さかぐちあんご)、大岡昇平(おおおかしょうへい)や野間宏(のまひろし)などの作品が、当時の人々の話題を呼びました。
その一方で、三島由紀夫(みしまゆきお)や川端康成(かわばたやすなり)といった、日本民族の独自の美的感覚を追求した小説や、日本における近代批評の先駆者となった、小林秀雄(こばやしひでお)による我が国の古典や芸術を題材とした評論文など、古来の伝統を重んじる作品も発表されました。
この他、保守主義の論客として、安易な進歩主義を批判した福田恆存(ふくだつねあり)や、松本清張(まつもとせいちょう)や司馬遼太郎(しばりょうたろう)、あるいは池波正太郎(いけなみしょうたろう)といった、大衆向けでありながら芸術性を失わない中間小説や、星新一(ほししんいち)や筒井康隆(つついやすたか)、小松左京(こまつさきょう)のようなSF小説なども、多くの人々に広く読まれました。
なお、昭和45(1970)年11月25日に、三島由紀夫は東京の市ヶ谷(いちがや)駐屯地で、日本民族の精神的覚醒(かくせい)を強く訴えた後に自決し、人々に大きな衝撃を与えています。
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また、昭和24(1949)年には、理論物理学者の湯川秀樹(ゆかわひでき)が日本人で初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞し、敗戦後の国民に大きな勇気を与えました。同年には、あらゆる分野の科学者を代表する機関としての「日本学術会議」が設立されています。
同じ昭和24(1949)年には、法隆寺金堂壁画が火災で焼損するという出来事がありましたが、これをきっかけとして、翌昭和25(1950)年に「文化財保護法」が制定され、国宝などの貴重な伝統的文化財が保護されるようになりました。
なお、日本人のノーベル賞受賞者はその後も様々な分野で増え、平成30(2018)年現在、5分野で27人(ただし、うち3名は日本出身の外国籍)が受賞しています。
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歌謡曲では、終戦後の混乱期に並木路子(なみきみちこ)の「りんごの唄」に代表される、軽快かつ明るい歌が流行したほか、美空(みそら)ひばりが多くの流行歌を生み出し、国民に長く愛されました。
大衆娯楽としての映画は、戦後に黄金時代を迎えました。昭和29(1954)年には、黒澤明(くろさわあきら)が「七人の侍」で、溝口健二(みぞぐちけんじ)が「山椒大夫(さんしょうだゆう)」で、それぞれヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を獲得しました。また、小津安二郎(おづやすじろう)は「東京物語」などによって、伝統的な日本の家族の美風を、独自の視点で表現しました。ただし、テレビの一般家庭への普及によって、映画界は次第に斜陽産業と化していきました。
スポーツの分野では、水泳の古橋広之進(ふるはしひろのしん)が「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた泳ぎで世界の注目を集めたほか、プロレスで一時代を築いた力道山(りきどうざん)や、東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉(つぶらやこうきち)、プロ野球で読売ジャイアンツの黄金時代の主力となった長嶋茂雄(ながしましげお)や王貞治(おうさだはる)など、次々と新たなスターが誕生しました。
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安保闘争が激化した1960年代には、革新的な立場の「朝日ジャーナル」や、保守的な立場の「諸君!」が創刊され、高度経済成長後に全盛期を迎えた、学園紛争や進歩的文化人といった左派勢力の台頭の中で、昭和48(1973)年には、産経新聞社から保守的な雑誌である「正論」が創刊されました。
出版界では、昭和20年代後半から週刊誌ブームが起こり、「週刊文春」や「週刊新潮」など、多くの出版社が週刊誌を発行しました。また、少年向けの漫画週刊誌も登場し、手塚治虫(てづかおさむ)や長谷川町子(はせがわまちこ)などの漫画が広く読まれたことで、本来は子供向けの娯楽であった漫画が、次第に大人にも親しまれるようになりました。
その後、日本の漫画家が描いたキャラクターの中から、世界中の子供に好かれるものも数多く生まれ、我が国の漫画文化は世界を席巻するまでの成長を遂げたのです。
なお、クラシックの音楽の世界では、伊福部明(いふくべあきら)や黛敏郎(まゆずみとしろう)といった作曲家があらわれ、日本的な素材や美化を生かした曲が、幅広い国民の支持を受けました。
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昭和62(1987)年に沖縄で秋の国民体育大会が行われることになり、開会式ご出席も兼ねてようやく念願のご行幸(ぎょうこう)が実現できると思われましたが、その直前に、ご病気によって中止となってしまいました。
陛下のご無念のお気持ちは、以下の御製で私たちもうかがい知ることができます。
「思はざる 病(やまい)となりぬ 沖縄を たづねて果(はた)さむ つとめありしを」
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終戦記念日の8月15日に日本武道館で行なわれた全国戦没者追悼式に際して、昭和天皇はご療養先の那須御用邸(なすごようてい)からヘリコプターで駆けつけられましたが、そのやつれたお姿に対して、多くの国民が息をのみました。
この日の陛下の御製です。
「やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど」
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その余りもの自粛ぶりに、一部の国民やマスコミからは不満の声も上がりましたが、国民のことのみをずっとお考えになり、自らを顧(かえり)みられることのなかった陛下がご重体となっておられるというのに、何も考えずに馬鹿騒ぎをすることが果たして許されるでしょうか。その証拠に、陛下のお見舞いのため皇居へ記帳に訪れた国民の数は、ご不例から3か月間で延べ800万人を越えているのです。
昭和天皇のご容態はその後も芳(かんば)しくない日々が続きましたが、そんな中でも陛下は国民のことを第一にお考えになっておられました。この年の我が国では秋の長雨が続いていましたが、そんなある日、雨音を耳にされたご病床の昭和天皇が「雨が続いているが、稲の方はどうか」とコメの作柄(さくがら)を案じられたというエピソードが残っています。
ご不例になられてからも、陛下は驚異的な生命力で病魔と闘っておられましたが、年が明けた昭和64(1989)年1月7日午前6時33分、太陽が静かに沈んでいくように、昭和天皇は崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されました。御年87歳でした。
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わずか半世紀近く前に世界の多くの国を相手に激しく戦った国の元首であるにもかかわらず、恩讐を越えて、昭和天皇に弔意(ちょうい)を示したのです。また、皇居から新宿御苑へ続く6.5kmの雨の沿道において、昭和天皇をお見送りした国民の数は、実に60万人にも及びました。
昭和という激動の時代を長く生き抜き、国民の象徴として我が国を支えてこられた昭和天皇。自らが果たすことがかなわなかった沖縄へのご行幸は、今上陛下(きんじょうへいか)によって平成5(1993)年4月に実現されました。
そして崩御から18年後の平成19(2007)年、昭和天皇のお誕生日である4月29日が、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」との目的で、新たに「昭和の日」として蘇(よみがえ)りました。
昭和が終わって早や30年近くが過ぎましたが、国民とともに歩まれた昭和天皇の大御心(おおみこころ)は、今もなお、そして永久に日本国民の心の中に生き続けていくことでしょう。
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新たな元号となった「平成」は、チャイナの古典である「史記」の「内平外成(内平かに外成る=うちたいらかにそとなる)」と、「書経」の「地平天成(地平かに天成る=ちたいらかにてんなる)」が由来であり、「内外(うちそと)や天地ともに平和が達成される」という意味が込められています。
昭和天皇の崩御から2年近い服喪(ふくも)の時を経た、平成2(1990)年11月12日には、天皇陛下のご即位の大礼が盛大に執(と)り行われ、外国からも国家元首級の約70人を含む158か国、2国際機関の祝賀使節が訪れました。
また、同月17日には、中央奉祝大パレードと大提灯行列が盛大に行われ、国民がこぞって陛下のご即位をお祝いしたほか、22日深夜から23日未明にかけて、古来「瑞穂(みずほ)の国」の祭祀(さいし)権者でもあられる天皇陛下の重要な儀式である「大嘗祭(だいじょうさい)」が、厳粛(げんしゅく)に斎行(さいこう)されました。
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