自由党総裁でもあった吉田の後を受けて首相になったのは、改進党と自由党の一部が結成して誕生した日本民主党の総裁を務めていた鳩山一郎(はとやまいちろう)でした。鳩山内閣は、自主憲法の制定と自主外交による領土回復、自衛軍の創設などを唱え、自主独立路線を基本として翌昭和30(1955)年2月に行われた衆議院総選挙に臨みました。
しかし、総選挙では、鳩山率いる日本民主党が第一党となり、第二次鳩山内閣が成立したものの、憲法改正や自主防衛に反対する革新勢力が衆議院全体の3分の1以上を占めたため、念願だった憲法改正は事実上不可能となってしまいました。
なぜなら、日本国憲法第96条によって、憲法改正のためには衆議院・参議院でそれぞれ総議員の3分の2以上の賛成で発議し、さらに国民投票で過半数の賛成を得なければならないからです。
結果的に「改憲阻止」に成功した革新勢力でしたが、それまでの流れは決して一筋縄ではありませんでした。
※下記の映像は10月15日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
その後、鳩山一郎が憲法改正を視野に内閣を組織すると、総選挙直前の昭和30(1955)年1月に左右両派がそれぞれ党大会を開き、改憲阻止を名目として結束しました。そして、両派を含む反対派が衆議院で3分の1以上の勢力を擁(よう)したことを受けて、同年10月に党大会を開いて再統一を果たしたのです。
社会党の一連の流れに危機感を募(つの)らせた保守政党の日本民主党と自由党は、同年11月に「保守合同」によって「自由民主党」を結成し、以後は衆参両院で3分の2近くを占める自由民主党が、社会党を中心とする野党と対立するという構図が出来上がりました。これを「55年体制」といいます。
55年体制は、その後も「過半数の議席を得た自由民主党と、それ以外の社会党などの野党」という構図で40年近くも続き、与党となった自由民主党(=自民党)が昭和30年代以降の我が国の政治を担(にな)うこととなりました。
※下記の映像は10月15日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
自主外交路線をめざし、対ソ問題の解決に取り組んでいた鳩山一郎首相は、第三次内閣の時の昭和31(1956)年10月に自らがモスクワを訪問し、ソ連のブルガーニン首相との間で「日ソ共同宣言」に調印して国交を回復させました。
日ソ共同宣言によって、他の東欧諸国との国交が正常化したほか、ソ連が日本の国連加盟に反対しなくなったので、同年12月に我が国はようやく国際連合への加盟を実現させました。
しかしながら、日ソ共同宣言では領土問題に関して意見の一致を見出すことができなかったため、我が国固有の領土である国後島(くなしりとう)・択捉島(えとろふとう)・歯舞諸島(はぼまいしょとう)・色丹島(しこたんとう)のいわゆる「北方領土」はいまだに返還されておらず、また、現在のロシアとのあいだには「平和条約」が締結されていません。
※下記の映像は10月15日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
第一次防衛力整備計画を決定して、我が国の自衛力の強化に努めた岸内閣は「日米新時代」のスローガンを掲げて、片務的な内容だった従来の日米安全保障条約の改定に意欲を見せました。
岸首相の努力もあって、我が国とアメリカは昭和35(1960)年1月にワシントンで「日米相互協力及び安全保障条約(=新安保条約)」を調印しました。新安保条約は、アメリカの日本防衛義務を設けるなど対等な内容に近づけたほか、在日アメリカ軍の軍事行動における事前協議制や、固定有効期限を10年とすることなどが規定されました。
しかし、新安保条約の批准(ひじゅん、全権委員が署名して内容の確定した条約に対して締結権をもつ国家機関が確認のうえ同意を与えること)をめぐって、日本国内で激しい闘争が繰り広げられるようになるのです。
※下記の映像は10月15日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、当時の国会で審議されていた警察官職務執行法の強化や、教員の勤務評定などをめぐって、岸信介内閣は革新勢力と対立していましたが、これらと同時期に新安保条約の調印が行われたため、条約を批准する国会審議において与野党の意見が激突しました。
このため、岸内閣はやむを得ず昭和35(1960)年5月19日に衆議院で条約批准案を野党欠席のまま強行採決に踏み切りましたが、これを契機として院外の「安保改正阻止闘争(=安保闘争)」は激しさを増し、安保改定阻止国民会議や全学連(=全日本学生自治会総連合)による10万人を超えるデモ隊が連日のように国会を取り囲むようになりました。
そして、6月15日には全学連主流派の約1万人が国会に乱入し、警官隊と衝突して死者を出す惨事となってしまったのです。
新安保条約は参議院の承認を得られぬまま、6月19日に自然成立となりましたが、この騒ぎによって予定されていたアメリカのアイゼンハワー大統領の訪日が中止されたほか、混乱の責任を取って岸内閣が総辞職しました。
※下記の映像は10月15日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかしながら、日米が対等の関係に近づいた新安保条約によって、アメリカの「核の傘」に入るという選択を強いられながらも我が国の安全保障が飛躍的に高まったことが、その後の平和と繁栄をもたらしたのが歴史の真実なのです。
とはいえ、新安保条約批准以後の歴代自民党政権が、さらに大きな混乱を招きかねない憲法改正や再軍備といった重要な問題を棚上げして、経済成長に偏重(へんちょう)する政策に終始するようになるなど、安保闘争が保守陣営に与えた影響は大きなものがありました。
なお、安保闘争をめぐって意見が対立した社会党右派の西尾末広(ひしおすえひろ)が離党し、昭和35(1960)年1月に民主社会党(後の民社党)を結成しています。
※下記の映像は10月15日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
そして、岸内閣が構築した「国防をアメリカに依存した日米安保体制」を背景として、防衛費を抑制する代わりに経済の高度成長をめざした「所得倍増計画」を発表しました。
所得倍増計画は、昭和36(1961)年からの10年間で一人当たりの国民所得を倍増させようというものでしたが、実際には経済成長率が毎年10%を超え、昭和42(1967)年度には早くも当初の目標を達成しました。
我が国の国民総生産(=GNP)は10年間で3倍増という驚異的な数値を残したほか、昭和43(1968)年には資本主義国の中でアメリカに次いで第2位にまで上昇するなど、高度経済成長政策によって日本経済は著しく躍進を遂げることとなったのです。
※下記の映像は10月15日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
例えば東海道新幹線(詳しくは次回の講演で紹介します)は、満州に展開していた「南満州鉄道株式会社(=満鉄)」の技術がなければ実現できなかったかもしれません。戦前において、満鉄の鉄道技術は既に世界一だったのであり、超高性能の蒸気機関車によって牽引(けんいん)された全客車冷房完備の「特急あじあ号」が特に有名でした。
加えて、1960年代の世界では「技術革新(=イノベーション)」が進んで産業が発展したのみならず、IMF体制によって国際通貨が安定し、また人員の完全雇用をめざして財政あるいは金融政策が普及していました。
そんな時期において、我が国は世界における貿易の成長率の約2倍という高さで輸出を拡大して、成長産業の需要を増加させるとともに、輸出によって得た多額の外貨を基本として、生産の増加に必要な原材料や燃料を輸入していました。
また、産業の拡大には燃料の安定供給が欠かせませんが、当時は中東における原油生産が急増し、価格が低下していたため、我が国が推進していた重化学工業化に必要な原材料や燃料を安い価格で入手することが可能だったのです。
※下記の映像は10月15日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
産業界はこぞって技術革新(=イノベーション)の成果を導入し、積極的な設備投資を行ったことでオートメーション化が進み、生産性を向上させるとともに、国内市場のみならず、輸出の拡大によって世界市場にも日本商品が多く出回るようになりました。
高度経済成長期には、石油化学工業や電子工業・合成繊維工業が新たに誕生したほか、鉄鋼業・造船業・カメラなどの精密工業、後には自動車工業が国際競争力をつけるようになりました。
また、鹿島や千葉・川崎・四日市・堺・岩国・福山・水島などの太平洋ベルト地帯にも、次々と大型コンビナートが建設されました。
この他、高度経済成長を機に、終身雇用制や年功序列型賃金などを特色とする、いわゆる「日本的経営」が定着したほか、重化学工業が伸長したことによって、第二次・第三次産業が日本経済の中心を担うようになりましたが、第一次産業の比重はその分低下しました。
※下記の映像は10月15日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
こうした労働者や農民の所得の増加が国民全体の所得を引き上げるとともに、国内市場の拡大にもつながったことから、所得倍増計画が予想を超える早さで進んでいったとも考えられるのです。
高度経済成長によって日本経済は上向きとなり、昭和34(1959)年から同36(1961)年にかけては「神武景気」以上の好景気となる「岩戸(いわと)景気」、昭和41(1966)年から同45(1970)年には、それらをもしのぐという意味で命名された「いざなぎ景気」といった好況に恵まれました。
また、産業構造の変化に伴い、主力エネルギーもこれまでの石炭から石油へと急速に転換されました(これを「エネルギー革命」といいます)。しかし、斜陽化した石炭産業では、三井三池炭鉱争議などの労働争議が発生したほか、九州や北海道を中心に炭鉱の閉山が相次ぐようになりました。
※下記の映像は10月15日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なお「LT貿易」とは、交渉に当たった日本代表の高碕達之助(たかさきたつのすけ)と、中華人民共和国代表の廖承志(りょうしょうし)の両名の頭文字をとったものです。
我が国は昭和35(1960)年に「貿易為替自由化大綱(たいこう)」を決定して貿易の自由化が計画的に進められ、昭和39(1964)年にはIMFと世界銀行の年次大会が東京で開かれました。
また、我が国は同じ昭和39(1964)年に「国際収支を改善する目的では為替管理を行えない」、すなわち貿易支払いや資本移動に対する制限を禁止された国である「IMF8条国」となるとともに、経済協力開発機構(=OECD)にも加入して「為替と資本の自由化」を実施したほか、貿易の自由化が義務づけられました。
我が国は前年の昭和38(1963)年に「国際収支上の理由から輸入制限をすることができない」とされた「GATT11条国」にも移行しており、世界から「経済大国」としての存在を認められたといえます。
※下記の映像は10月15日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
開放経済体制の下で国際競争力を高めるために、我が国の企業も様々な動きを見せました。例えば、昭和39(1964)年には財閥(ざいばつ)解体によって3社に分割された「三菱重工」が再合併しました。
また、昭和45(1970)年には八幡製鉄と富士製鉄とが合併して「新日本製鉄」が創立されるなど、企業の大型合併が進められました。なお、同社は平成24(2012)年に住友金属工業と合併して「新日鉄住金」となっています。
この他、三井・三菱・住友・富士・三和・第一勧銀など、旧財閥系を中心とする都市銀行が、系列企業への融資を通じて「企業集団」を形成するなどの動きも見られました(これを「六大企業集団」といいます。
かくして、経済を大幅に成長させる政策を次々と行った自由民主党への支持が我が国で高まったことが、55年体制のもとで保守政権が長期化していく流れをもたらしたのです。
※下記の映像は10月15日までの掲載分をまとめたものです。
(※第67回歴史講座の内容はこれで終了です。次回(10月16日)からは第68回歴史講座の内容の更新を開始します)
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。