海上の警備機関たる「海上警備隊」が独立回復と時を同じくして誕生すると、同年8月には「保安庁」が設置され、それまでの警察予備隊が「保安隊」に改称されたほか、海上警備隊も「警備隊」と改められました。
その後、昭和29(1954)年3月に「日米相互防衛援助協定(=MSA協定)」が結ばれると、アメリカからの兵器や農産物などの援助と引き換えに防衛力の増強が求められたことから、政府は同年7月1日に「防衛庁」を新設したほか、保安隊や警備隊を統合し、新たに陸上・海上・航空の3隊からなる「自衛隊」を発足させました。
この他、同じ昭和29(1954)年には「新警察法」が制定され、それまでの自治体警察を廃止して都道府県警察を設置し、警察庁に統轄させることで組織の中央集権化が図られました。
なお、防衛庁は総理府(のち内閣府)の外局という立場でしたが、平成19(2007)年に「防衛省」へ移行され、内閣の統括の下に独立した行政機関である省の一つとなっています。また、平成26(2014)年7月1日に自衛隊は発足以来60年を迎えましたが、同じ日に第二次安倍晋三(あべしんぞう)内閣によって、我が国の安全保障政策を大きく転換させる「集団的自衛権の行使容認」が閣議決定されました。
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後に「血のメーデー事件」と呼ばれたこの出来事をきっかけとして、暴力主義的破壊活動を行った団体を公安調査庁に取り締まらせるため、第三次吉田茂内閣が「破壊活動防止法」を制定しました。
この他、教育の分野では昭和29(1954)年にいわゆる「教育二法」が公布され、公立学校の教員による政治活動や偏向した政治教育が禁止されました。
その後、昭和31(1956)年には「新教育委員会法」が公布され、それまでは公選だった教育委員が各地方自治体の首長による任命制となりましたが、法案の制定に日教組(=日本教職員組合)が強く反発し、国会での採決時に警察官が出動するという騒ぎとなりました。
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昭和27(1952)年には石川県で「内灘(うちなだ)事件」が、昭和30(1955)年には東京都立川市で「砂川事件」が発生していますが、事件の背景には地元民の反発のみならず、日本共産党や総評あるいは全日本学生自治会総連合(=全学連)の支援があったとされています。
また、1954(昭和29)年にアメリカがビキニ環礁(かんしょう)で水爆実験を行った際に、我が国の漁船である第五福竜丸が放射性物質(=死の灰)を浴びて死亡者が出た事件(これを「第五福竜丸事件」といいます)をきっかけに「原水爆禁止運動」が広がり、翌昭和30(1955)年には第一回原水爆禁止世界大会が広島で行われました。
なお、第五福竜丸事件で乗組員が死亡したのは、放射能による被曝(ひばく)ではなく、売血輸血による肝炎ウイルス感染であったという説もあります。
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しかしその一方で、1955(昭和30)年にアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の各首脳がスイスのジュネーブで集まり、軍縮やヨーロッパの安全保障あるいは東西間の交流の拡大などを協議した「ジュネーブ四巨頭会談」が行われました。
ジュネーブ四巨頭会談そのものは具体的な成果に乏しかったものの、米ソによるこうした流れは両国間の緊張緩和への期待を高めることになりました。なお、これらの動きは今日では「雪どけ」と呼ばれています。
米ソの「雪どけ」を受けて、東アジアでも緊張緩和の動きが進みました。1954(昭和29)年には中華人民共和国の周恩来(しゅうおんらい)首相がインドのネール首相と会談を行い、主権尊重・相互不可侵・内政不干渉・平等互恵・平和共存の「平和五原則」を確認しました。
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その後、1954(昭和29)年のジュネーブ国際会議で「インドシナ休戦協定(=ジュネーブ協定)」が結ばれ、フランス軍がベトナムから撤退しましたが、北ベトナムは1949(昭和24)年に誕生したベトナム共和国(=南ベトナム)と北緯17度線を境界に分離されました。
一方、冷戦が続く中において連帯を強めたアジア・アフリカの新興独立諸国を中心として、1955(昭和30)年にインドネシアのバンドンで「アジア=アフリカ会議(=バンドン会議)」が開かれ、我が国など29か国が参加しました。
史上初の有色人種だけによる国際会議となったアジア=アフリカ会議では、反植民地主義や平和共存などの「平和十原則」が採択され、全世界に「第三勢力」としてのアジア・アフリカ諸国の存在と結束とを印象づけることとなりました。
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ソ連によるこうした動きは、それまで同国の支配下に置かれてきた東ヨーロッパ諸国において、共産主義体制の過酷な抑圧からの解放を求める声が高まる流れをもたらしました。
例えば、スターリン批判が行われた同じ1956(昭和31)年には、ハンガリーで政治的自由化を求める改革運動が起こりましたが、東欧諸国の自由化の波が拡大することを恐れたソ連が軍事介入を行って弾圧しました。これを「ハンガリー動乱」といいます。
また1968(昭和43)年には、チェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)で政治や経済の自由化への改革が行われましたが(これを「プラハの春」といいます)、ソ連などのワルシャワ条約機構軍が軍事介入を行って強引に鎮圧しました。
これら一連の事件は、いわゆる「スターリン批判」後も、ソ連による共産主義に基づく東欧の支配が軍事力による一方的かつ抑圧的なものであることを世界中に認識させるとともに、国際的な非難を浴びたソ連の影響力を次第に低下させる流れをもたらしました。
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ソ連の動きを警戒したアメリカのケネディ大統領がキューバを海上封鎖したため、米ソ両国の間で核戦争の危機が迫りました。これを「キューバ危機」といいます。この危機はその後、ソ連がミサイルを撤去したことで治まりました。
キューバ危機を回避した翌年の1963(昭和38)年に、アメリカ・イギリス・ソ連の3か国を中心として地下以外の核実験を禁止した「部分的核実験停止条約(=PTBT)」が結ばれ、また1968(昭和43)年には56か国が「核拡散防止条約(=NPT)」に調印するなど、核軍縮に向けて世界が動き出しました。
一方、ヨーロッパで1958(昭和33)年に西欧の6か国で成立していた「ヨーロッパ経済共同体(=EEC)」が、1967(昭和42)年には「ヨーロッパ共同体(=EC)」に発展し、関税同盟や農業協同市場を形成するなど経済統合を進めて、米ソに並ぶ経済力をつけていきました。
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そして、1965(昭和40)年にはアメリカが北ベトナムへの爆撃を開始し(これを「北爆」といいます)、アメリカや南ベトナム政府と、ソ連や中華人民共和国の支援を受けた南ベトナム解放民族戦線および北ベトナムとの全面対決へと発展しました。これを「ベトナム戦争」といいます。
その後、1973(昭和48)年に「ベトナム和平協定」が結ばれてアメリカ軍が撤退すると、1975(昭和50)年にはサイゴン(現在のホーチミン市)が陥落(かんらく)して戦争が終結し、北ベトナムが南ベトナムを併合して、翌1976(昭和51)年に「ベトナム社会主義共和国」が成立しました。
なお、ベトナムの社会主義化によって多くの難民が生まれ、南シナ海で漂流船に乗った「ボート・ピープル」と呼ばれるベトナム人が助けを求めました。
また、ベトナム戦争に参戦した韓国軍によって現地のベトナム人女性が暴行され、その結果として誕生した子供が迫害を受けるという「ライダイハン」の問題が起きています。
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その後、1964(昭和39)年に初の核実験を行い、核保有国となった中華人民共和国が西側諸国に対する発言力を強めると、1966(昭和41)年には毛沢東が復権をめざして「文化大革命」を起こし、劉少奇(りゅうしょうき)国家主席ら実権派を追放しました。約10年間続いた文化大革命によって、一説には数百万人が犠牲となるなど、国内は大混乱となりました。
一方、アメリカではベトナム戦争による軍事支出の増大や西側諸国への援助などによってドルへの信頼が揺らぎ始め、1971(昭和46)年にニクソン大統領が金とドルとの交換停止というドル防衛策を発表しました。これを「ドル=ショック(または「ニクソン=ショック」)」といいます。
ドル=ショック後も固定相場制を維持するため、それまでの「1ドル=360円」から「1ドル=308円」に切り上げる「スミソニアン協定」が結ばれましたが、1973(昭和48)年にドル不安が再燃し、我が国は西欧諸国とともに「変動為替相場制」へと移行しました。
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