ところで、昭和天皇は昭和21(1946)年の元日に「新日本建設ニ関スル詔書(しょうしょ)」を発布なされましたが、今日ではこれが昭和天皇による「人間宣言」とされ、自ら「天皇の神格化を否定した」と、一般に使用される教科書で紹介されることが多いですが、この表現は正しくありません。
なぜなら、そもそも「新日本建設ニ関スル詔書」の中に「人間」「宣言」という言葉が一切使用されておらず、さらには「人間宣言」という名称自体が、後日にマスコミや出版社が勝手に命名したものだからです。
では、なぜ私たちは「人間宣言」に対して思い違いをしているのでしょうか。その謎を探るために、そもそも「新日本建設ニ関スル詔書」が発表された経緯を振り返ってみましょう。
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しかし、これをGHQの主導で無理やり行えば、日本国民の反発を招き、占領政策に悪影響となるのは確実でした。
このため、GHQは昭和天皇があくまでも「自主的」に神格化を否定することを期待したことで、その意を汲(く)んだ宮内省によって、GHQを納得させることができる詔書の作成が行われました。
こうした動きに対し、昭和天皇は元々自らが現人神(あらひとがみ)であることを否定されておられたので、特に問題には思われませんでした。なぜなら、天皇と国民とのつながりは、神格化によってのみ保たれるような弱いものではないことを、陛下ご自身が一番理解されておられたからです。
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「天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基(もとづ)クモノニモ非(あら)ズ」。
この文章だけ読めば、昭和天皇が自らの神格化を否定されたと見なすことも不可能ではないですが、これは詔書のほんの一部分に過ぎませんし、陛下が本当に仰りたかった内容は、実はこの文章の直前にあるのです。
「然(しか)レドモ朕(ちん)ハ爾等(なんじら)国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚(きゅうせき、喜びや悲しみのこと)ヲ分(わか)タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依(よ)リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」。
陛下は常に国民とともに存在し、国民と利害を同じくして、喜びも悲しみも一緒に分かち合いたいと仰ったうえで、天皇と国民との間の紐帯、すなわち強い絆(きずな)は単なる神話や伝説によってではなく、相互の信頼と敬愛とによって結ばれているとされておられるのです。
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ところで、この詔書の最初に、明治天皇による「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が紹介されているのを皆さんはご存知でしょうか。詔書に五箇条の御誓文を付け加えられたのは昭和天皇ご自身のお考えであり、実はこのことこそが、陛下が詔書において本当に仰りたかったことなのです。
昭和52(1977)年、昭和天皇は記者からの質問にお答えなさるかたちで、詔書の始めに五箇条の御誓文が引用されたことについて、以下のようにお言葉を発せられました。
「それが実はあの詔書の一番の目的であり、神格とかそういうことは二の問題でした。当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、日本が圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです」。
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それなのに、マスコミや出版社の多くが「天皇が神格化を否定した」という、詔書のほんの一部に過ぎず、かつ陛下の本当のご意思とは全く異なる部分だけを取り上げて「人間宣言」ともてはやし、ついには歴史教科書にまで記載されてしまっているのです。なぜこのような誤解が生まれてしまっているのでしょうか。
さて、同じ昭和21(1946)年正月の歌会始(うたかいはじめ)において、昭和天皇は以下の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)をお詠みになられました。
「ふりつもる み雪にたへて 色かへぬ 松ぞ雄々(おお)しき 人もかくあれ」
終戦直後の絶望感が漂(ただよ)う中であっても、雪の中の青々とした松のように国民も強く生きて欲しいという、昭和天皇の国民への思いやりが込められています。
またこの頃、陛下は国民を慰めるためには自分がどうすればよいのかをお考えになり、そのための行動に移ろうとされておられました。
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「先の戦争によって先祖からの領土や国民の多くの生命を失い、大変な災厄を受けた。この際、私としてはどうすればよいのかと思い、退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、全国をくまなく歩いて国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせるための勇気を与えることが自分の責任と思う」。
「このことをどうしても早い時期に行いたいと思う。ついては、宮内官(=宮内省の役人のこと)たちは私の健康を心配するだろうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまったく考えることなくやってほしい。宮内官はその志(こころざし)を達するよう全力を挙げて計画し実行してほしい」。
今までに経験したことのない敗戦を喫して、大きく傷ついた国民を励まし、復興へ向けて立ち上がらせる勇気を持たせたい。そのためには自分の生命がどうなってもかまわない。そんな昭和天皇の崇高(すうこう)なるお考えを、GHQが理解できるはずがありませんでした。
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それだけに、陛下のご巡幸の計画を聞いたGHQも、当初は「天皇の意図が分からない」と怪しみましたが、やがて一つの確信を得るに至って、敢えて許可しました。
「ヒロヒトのおかげで、父親や夫が殺されたんだから、旅先で石のひとつでも投げられればいいのさ」
「ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男であるということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、ということをね」
「それこそが生きた民主主義の教育というものだよ」
GHQの役人たちには、昭和天皇がご巡幸によって多くの国民から無視され、蔑(さげす)まれ、疎(うと)まれ、あるいは暴力をもって迎えられるといった惨(みじ)めな姿しか想像できませんでした。しかし、彼らの期待は別の意味で大きく裏切られることになるのです。
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それだけに、会場には外国のカメラマンやアメリカ兵たちがひしめき合っており、彼らによって昭和天皇はあちこち引っ張られるなどもみくちゃにされました。
しかし、陛下は全く意に介されずに社長の説明を静かにお聞きになり、また工員たちには「生活状態はどうか」「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」など細かくお尋ねになりました。外国人から何をされても 「耐え難きを耐え」、また口先だけとは考えられない陛下の工員たちに対するお優しいお姿に、涙が止まらない人もいたそうです。
「わざはひを わすれてわれを 出むかふる 民(たみ)の心を うれしとぞ思ふ」
昭和21(1946)年のご巡幸の際における陛下の御製です。
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しかし、陛下は「戦災の国民のことを考えれば何でもない。十日ぐらいは風呂に入らなくてもかまわない」と全く気にされることもなく、元気にご巡幸の毎日をお過ごしになられました。
昭和22(1947)年8月の暑い盛りに福島県の炭坑をご巡幸された際は、地下450mの地底まで降りられ、さらに40度を超える炎暑の坑内を150mも歩かれて、居並ぶ坑夫たちを激励されました。
当時は石炭が貴重なエネルギーでしたが、陛下のお出ましに感激した坑夫たちによって、その後の出炭率が急上昇したそうです。以下は当時の情景を詠まれた御製です。
「あつさつよき 磐城(いわき)の里の 炭山に はたらく人を ををし(=雄々し)とぞ見し」
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奉迎場(ほうげいじょう、身分の高い人をお迎えする場所)となった広島護国神社の跡地には、何と7万人もの人々が集まりました。昭和天皇はマイクを使用されて、以下のお言葉を発せられました。
「このたびは皆の熱心な歓迎を受けてうれしく思う。本日は親しく市内の災害地を視察するが、広島市は特別な災害を受けて誠に気の毒に思う。広島市民は復興に努力し、世界の平和に貢献しなければならない」。
陛下の激励に対して、7万の群衆が一体となって「天皇陛下万歳!」と何度も何度も叫びましたが、GHQの関係者は、特に天皇を恨んでいる者が多いと思っていた被爆地の広島でのこの様子に、驚くとともに恐ろしくなりました。
この影響もあったのか、翌昭和23(1948)年にご巡幸は中止となりましたが、多くの国民の熱意によって、翌昭和24(1949)年に再開されました。以下は広島における陛下の御製です。
「ああ広島 平和の鐘も 鳴りはじめ たちなほる見えて うれしかりけり」
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寮の各部屋の孤児一人ひとりに対して声をかけられた陛下は、最後の部屋で父と母の位牌(いはい)を抱いていた女の子に目を留められ、お尋ねになられました。
「(位牌をご覧になって)お父さん、お母さん?」
「はい、そうです」。
「どこで?」
「父はソ満(そまん、ソ連と満州のこと)国境で、母は引揚げの途中で亡くなりました」。
じっと女の子の顔をご覧になった陛下は、悲しそうなお顔をされてお言葉を続けられました。
「おさびしい?」
「いいえ、さびしくはありません。私は仏の子供ですから、お父さんやお母さんに会いたいと思えば、み仏様の前に座って呼びかければ、そばにやって来てそっと私を抱きしめてくれます。ですから私はさびしくはありません」。
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「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」。
そう仰った昭和天皇の目から、はたはたと涙が流れ落ち、女の子は小さな声で「お父さん」と陛下を呼びました。
このとき、その場にいた大人たちは、東京から随行した新聞記者も含めて、皆が顔を覆(おお)って泣いたそうです。
「みほとけの 教(おしえ)まもりて すくすくと 生(お)ひ育つべき 子らにさちあれ」
上記の御製は、因通寺の梵鐘(ぼんしょう)に鋳込(いこ)まれています。
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「どなたが戦死をされたのか」。
「息子でございます。たった一人の息子でございました」。
声を詰まらせながら返事をする老婆に、陛下は続けて声をかけられました。
「どこで戦死をされたの?」
「ビルマ(現在のミャンマー)でございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。息子の命は陛下に差し上げております。息子の命のためにも、長生きをしてください」。
そう言って老婆は泣き伏してしまいました。じっと耳を傾けておられた昭和天皇は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられておられたそうです。
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「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけでなく、このような戦争があったことに対し、深く苦しみをともにするものであります。皆さんは、外国において、いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として新しい方向に進むことを希望しています。みなさんと共に手を携(たずさ)えて、新しい道を築き上げたいと思います」。
昭和天皇のお言葉を受け、引揚げ者の一人が陛下に近づいて、以下のように言いました。
「私は陛下を恨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私だけではなく、陛下も苦しんでいらっしゃることが今分かりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。陛下と一緒に私も頑張ります!」
この言葉に対して、側(そば)にいた青年が声をあげて泣き伏しました。
「こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。俺が間違っておった。俺が誤っておった!」
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泣きじゃくる青年に対して、陛下は頷(うなず)きながら微笑みかけられました。昭和天皇による慈愛(じあい)に満ちたお振る舞いやお言葉が、洗脳された青年たちの心を溶かしたのです。
その後も昭和天皇によるご巡幸は続けられ、昭和29(1954)年8月の北海道ご視察まで、当時アメリカの占領を受けていた沖縄を除く全国46都道府県において、日数にして165日、延べ3万3千kmにも及びました。陛下がご巡幸の際に直接お声を掛けられた人々は、2万人にものぼったといわれています。
ご巡幸において人々を励まされ、人々と共に悲しまれ、そして涙を流された昭和天皇のお姿を間近に拝見した国民は大いに感激するとともに、陛下の大御心(おおみこころ)に恥じないように自分たちも頑張らなければいけない、という気持ちが自然と芽生えていきました。
多くの国民が共通して抱いた熱意は、その後の復興への目覚ましいエネルギーとなったのです。
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