毛沢東はソ連の、蒋介石はアメリカの支援を受けてそれぞれ戦闘を続けましたが、戦局は共産党の優位に展開し、敗れた蒋介石は1949(昭和24)年に台湾に逃れ、中華民国政府として存続しました。
一方、毛沢東は、同年10月に北京で「中華人民共和国」の建国を宣言し、自らが主席となりました。共産党が最終的に内戦で勝利を得た背景には、ソ連のコミンテルンによる「日本と蒋介石とを戦わせて、両者を疲弊(ひへい)させたうえで『漁夫の利』を得る」という作戦が成功した流れが存在していると考えられています。
なお、台湾はかつて我が国の領土でしたが、戦後に国民党による一方的な支配が行われるようになると、この動きに反発した台湾民衆が抗議行動を起こした際に、政府が軍事力で徹底的に弾圧して、多数の犠牲者を出した「二・二八事件」が1947(昭和22)年に起きています。
また、アメリカとソ連によって分割占領された朝鮮半島は、北部に金日成(キム・イルソン)を首相とする「朝鮮民主主義人民共和国(=北朝鮮)」が、南部に李承晩(イ・スンマン)を大統領とする「大韓民国(=韓国)」が1948(昭和23)年にそれぞれ成立し、翌年に建国された中華人民共和国や、戦前からのモンゴル人民共和国(現在のモンゴル国)、さらにはソ連の存在とともに、東アジアの共産主義化がますます加速することになりました。
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しかし、中国大陸や朝鮮半島における共産主義の台頭によって、アメリカが得られた果実がほとんど存在しないという厳しい現実や、大戦末期からの米ソ対立の激化が、いわゆる「トルーマン=ドクトリン」などの対ソ封じ込め政策を招いたことによって、アメリカは「日本の弱体化」を目論(もくろ)んだ従来の方針を改めざるを得なくなりました。
アメリカは、我が国を政治的に安定した工業国として復興させるとともに、東アジアにおける自由主義陣営の防波堤として共産主義陣営に対峙(たいじ)させ、西側陣営にとっての東アジアの友好国と位置づけようとしました。
しかし、アメリカが考えた「東アジアにおける自由主義陣営の防波堤」という我が国の立場は、戦前からの本来の姿と全く同じでした。「日本憎し」という感情から、そんな我が国を自らの手で徹底的に潰(つぶ)したアメリカがわざわざ再構築しなければならなくなるという現実は、皮肉以外の何物でもなかったのです。
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これらの原則を実施させるため、翌昭和24(1949)年にGHQの顧問として来日した銀行家のドッジは、同年度に赤字歳出を許さない超均衡(きんこう)予算を編成させ、財政支出を大幅に削減させました。
また「1ドル=360円」の単一為替レートを設定し、日本経済を国際経済へと結びつけることで、我が国の国際競争力を強化しようとしました。ドッジによるこうした一連の施策は、今日では「ドッジ=ライン」と呼ばれています。
なお、ドッジ=ラインを税制面から裏づけるため、昭和24(1949)年と翌昭和25(1950)年の2度にわたって来日したシャウプを団長とする税制使節団の指導によって、直接税中心主義や法人税の減税、累進(るいしん)課税制度など税制の大改革が実施されました。こちらは「シャウプ勧告」といいます。
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不況による人員整理によって、街には失業者が増大するとともに、労働争議も激しくなりましたが、昭和24(1949)年に国鉄(現在のJR)による人員整理が発表された直後に「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」が相次いで発生し、その際に疑いの目が国鉄労働組合や共産党に向けられたことで、労働運動は大きな打撃を受けました。なお、これらの事件の真相はいまだに謎に包まれています。
この他、不況の深刻化以前の昭和23(1948)年には、GHQの命令による政令201号によって国家公務員法が改正され、当初は認められていた官公庁職員のストライキが禁止されました。
また、産別会議(=全日本産業別労働組合会議)内における共産党の党勢拡大に反発した勢力を中心に、昭和25(1950)年に「日本労働組合総評議会(=総評)」が結成されるなど、内部分裂を起こした労働運動が次第に沈静化しました。
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また、同じ1950(昭和25)年の1月には、アメリカのアチソン国務長官が「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン-沖縄-日本-アリューシャン列島までであり、それ以外の地域は責任を持たない」と発言しました(これを「アチソンライン」といいます)。
アチソンラインの意味を「韓国はアメリカの防衛圏内ではない」と判断したソ連のスターリンが、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)に韓国への侵略を指示すると、同年6月25日に北朝鮮軍が突然38度線を越えて韓国へ侵攻を開始しました。いわゆる「朝鮮戦争」の始まりです。
開戦3日後の6月28日に韓国軍を撃破した北朝鮮軍が、韓国の首都であるソウルを占領すると、国際連合の安全保障理事会は、北朝鮮を侵略国とみなして即時停戦を要求する決議を採択し(拒否権を持つ常任理事国のソ連は欠席でした)、マッカーサーを総指揮官とする「国連軍」を結成しました。
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しかし、中華人民共和国が人民解放軍を「義勇兵」として派遣したことで北朝鮮軍は勢力を盛り返し、その後の戦局は一進一退を繰り返しました。
ところで、この朝鮮戦争を通じて、マッカーサーは「日本にとって朝鮮半島がいかに重要な土地であったか」ということを嫌というほど思い知らされました。
なぜなら、北方から強大な勢力が朝鮮半島に現れた際に、半島を守らなければ日本の安全が保障できないうえに、朝鮮半島から敵の勢力を完全に追い払おうと思えば、それこそ満州に出て行かざるを得ないということが、自分がその立場に追い込まれて初めて分かったからです。
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解任されて帰国したマッカーサーは、翌5月3日に開かれたアメリカ上院軍事外交合同委員会において、以下のように証言しています。
「日本が戦争へと向かった動機は、その大部分が安全保障の必要性に迫られてのことだった」。
それにしても、これだけの重要な証言が、教科書を含めた我が国の歴史教育においてほとんど知らされていないというのは、いったいどういうことでしょうか。
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その後、アメリカで早期停戦を主張し続けていた共和党のアイゼンハワーが大統領に就任したり、ソ連の独裁者であったスターリンが死去したりするなど、米ソの指導者の交代を契機として、1953(昭和28)年7月にようやく休戦となり、軍事境界線上にある板門店(はんもんてん)で休戦協定が調印されました。
朝鮮戦争による死傷者は、民間人を含めれば数百万人にまで及ぶ膨大(ぼうだい)な数となりました。また、朝鮮戦争はあくまでも「休戦中」であり、北朝鮮と韓国との間はいまだに戦闘状態が継続されています。
また、朝鮮戦争のドサクサに紛(まぎ)れて、韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領が、1952(昭和27)年に国際法を無視して沿岸から60海里(カイリ)までの権利を主張し(これを「李承晩ライン」といいます)、我が国固有の領土である竹島もラインの中に含まれるとして強引に占領しました。これ以降、韓国はいまだに竹島への不法占拠を続けています。
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多くのアメリカ軍が朝鮮半島へ出動することで、日本に軍事力の空白ができることを恐れたGHQは、昭和25(1950)年に我が国に「警察予備隊」の設置を指令しました。これが自衛隊のルーツとなります。
また、戦後の強引な公職追放によって、各界において左翼勢力が大幅に増加していましたが、これを危惧(きぐ)したGHQが、朝鮮戦争の勃発直前に共産党幹部全員を公職から追放すると、第三次吉田茂内閣によって追放の範囲が広げられ、官公庁から民間企業まで多くの共産主義者が追放されました。これを「レッド=パージ」といいます。
レッド=パージの拡大に伴って、服役中の戦犯容疑者の釈放や各界保守層の公職追放解除が進められましたが、前回(第66回)述べたように、一度追放された者が同じ職に復帰することは難しく、各層の左傾化の流れを止めるには至りませんでした。
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昭和26(1951)年1月に来日した大統領特別顧問のダレスは、我が国に対して「対日講和七原則」を示して、単独(多数)講和や在日米軍の駐留などの構想を明らかにするとともに、我が国の再軍備を強く迫りました。
しかし、当時の吉田茂首相は、日本国憲法第9条によって我が国が戦争放棄をうたっていることを理由として再軍備の要求を拒絶し、アメリカもこれに同意しました。
かくして我が国は、経済の復興を最大の目標に掲(かか)げるとともに、国家の防衛をアメリカの軍事力に依存するという、戦後日本の基本的な枠組みを構築したのです。
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しかしその一方で、当時の我が国は復興への道をようやく歩み始めたばかりであり、経済に過酷な負担を強(し)いることになる再軍備が、現実的に可能だったかどうかという見方もあります。
また、朝鮮戦争で数百万人もの尊い生命が失われていることから、終戦間もない我が国が戦争に参加することで、多数の犠牲者を出すことを当時の国内世論が受けいれたかどうかということも、判断材料の一つとしてとらえるべきではないでしょうか。
いずれにせよ、アメリカによる再軍備の要求は、我が国における講和問題への関心をより加速させる効果をもたらしましたが、同時に講和方針をめぐって国論を二分する対立も生み出しました。
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そして戦後、日本というストッパーがなくなった東アジアは、朝鮮戦争の勃発に代表されるように、中国大陸や満州やモンゴル、あるいはシベリアに至るまで、大陸のほとんどが共産主義と化してしまったのです。
自らが招いた事態の深刻さにようやく気づいたアメリカは、日本を自分たちの陣営に引き込むため、我が国との講和を急ぐようになりましたが、それは日本国内においても講和問題への関心が高まるという効果をもたらしました。
しかし、こうした動きを最も警戒したのがソ連でした。かつて零戦(ゼロせん、零式艦上戦闘機)や戦艦大和などを自力で作ったほどの実力を持つ日本が、自分たちと敵対する自由主義陣営(=西側諸国)につくことを恐れたからです。
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昭和25(1950)年1月には、当時の南原繁(なんばらしげる)東大総長などが「単独講和は特定国家への依存や隷属(れいぞく)をもたらすものである」と全面講和を主張し、また一部の新聞社や雑誌社、あるいは社会党や共産党、さらには総評や日本教職員組合(=日教組)も活発な反対運動を展開しました。
しかし、彼らが主張する「全面講和」に対して、いわゆる「単独講和」はソ連やその衛星国数か国を除いたものに過ぎず、さらには米ソによる「冷戦」が続く状況下では、全面講和論は現実性を持たないものでした。
南原総長の主張に対し、当時の吉田茂首相は「全面講和は到底行われないことであり、政治家の領域に立ち入ってかれこれ言うことは、曲学阿世(きょくがくあせい、真理にそむいて時代の好みにおもねり世間の人に気に入られるような説を唱えること)の徒に他ならない」と批判しています。
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連合国のうち、ソ連やチェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)・ポーランドは講和会議に出席したものの調印せず、インド・ビルマ(現在のミャンマー)・ユーゴスラビアは参加しませんでした。また、中華人民共和国および中華民国(=台湾)は、代表政権をめぐる意見不一致のため、会議に招かれませんでした。
サンフランシスコ講和条約において、我が国は海外に持っていた領土などの権利をすべて放棄しましたが、同時に交戦国の多くが我が国への賠償請求権を放棄しました。我が国は1年後の昭和27(1952)年にインドと「日印平和条約」を、中華民国(=台湾)と「日華平和条約」を結びましたが、両国とも賠償請求権を放棄しています。
結局、我が国が戦後補償に応じたのは、フィリピンやビルマ・インドネシア・南ベトナム(当時)などの一部の国に留まりました。なお、我が国は南樺太(みなみからふと)や千島列島の権利を放棄しましたが、ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印していないため、国際法上における北方領土を除く千島列島や南樺太の帰属は確定していません。
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第11条の正確な内容は「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の『諸判決』を受諾する」ですが、当時の外務省によって「諸判決」が「裁判」と誤訳されてしまったのです。
「日本は『極東国際軍事裁判(=東京裁判)』の『諸判決』を受諾する」という条約の正式な英文は「Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East.」ですが、これが「裁判を受諾する」という英語であれば「Japan accepts the judgment of the International Military Tribunal for the Far East.」と言う表記となります。
この場合なら、相当無理をして「単数形」の「judgment」を「裁判」と訳したうえで「日本は極東軍事法廷の裁判を受諾する」と全体を翻訳することは有り得るかもしれませんが、正式な条文では、そのような「誤解」をなくすため、英語の正文で「複数形」たる「judgments」としました。「裁判」ではなく「諸判決」であることを明確にする意図があったためと考えられます。
さらに付け加えれば、これが「日本は極東国際軍事裁判そのものを受諾する」となると、英語の直訳では「Japan accepts the International Military Tribunal for the Far East.」という表記となりますから「the judgments of」がなくなります。従って、条文を「裁判」と訳したのは明らかに「誤訳」であり、条約を調印した最初の段階から、我が国に贖罪(しょくざい、犯した罪をつぐなうこと)意識を植えつけるといったような、何らかの意図や思惑があったのではとも疑われるのです。
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無論、我が国は茶番劇たる東京裁判のすべてを受けいれる意図はありませんでした。しかし、戦後から40年が経過した昭和60(1985)年頃から、日本政府の公式な見解として「東京裁判を受諾して日本は国際社会に復帰した」という表現をするようになっています。
そもそも我が国は東京裁判などの「諸判決」のみを受けいれたからこそ、独立回復後の昭和28(1953)年に、一方的に戦犯として処罰された人々の名誉を、前回(第66回)述べたように衆議院において全会一致で回復させ、我が国から戦犯をなくしたのです。
我が国の名誉のためにも、意図的ともいえる誤訳を何としても解消しなければならないのではないでしょうか。
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かくして、我が国は自国の安全保障をアメリカに委(ゆだ)ねるかたちとなりましたが、当初の条約は片務的(へんむてき、契約の当事者の一方のみが義務を負うこと)であり、アメリカに有利な内容でした。
例えば、我が国に駐留するアメリカ軍に日本防衛の義務がないことや、駐留軍には日本政府の要請に応じて内乱を鎮圧する権利があってもその義務がないこと、あるいは日本の意思だけでは条約を廃棄(はいき)できないことなどが規定されていたのです。
しかし、日本国憲法において事実上の非武装国と化していた我が国が、独立回復を機に米軍に撤退されれば、丸裸となった我が国が他国に侵略されるのは自明の理でした。現実問題として、我が国が現在に至るまで平和が保たれているのは、アメリカの「核の傘」に入り込むかたちとなった日米安保条約のおかげであり、決して日本国憲法第9条によるものではありません。
対等な立場での日米軍事同盟の構築を目指した我が国は、アメリカに働きかけることによって、約10年後の昭和35(1960)年に日米安保条約が改定されましたが、その際に大規模な「反対運動」が起きてしまうのです(詳細は後述します)。
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朝鮮戦争によって、我が国に駐留していたアメリカ軍が国連軍として出動しましたが、その際にアメリカ軍と我が国の業者との間で、国連軍への物資の提供やサービスの調達が直接契約で結ばれました。
この契約は、我が国が戦地に近いこともあって、アメリカ軍から繊維(せんい)・金属・機械などの発注が急増し、巨額の発注高となったほか、対価の大半がドルで支払われたため、日本政府の手持ちの外貨が戦争前の約2億ドルから約9億4000万ドル余りまで一気に増加しました。
かくして、我が国の経済は朝鮮戦争による特需によって急激に上向きとなったのです。これを「特需景気」といいます。
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しかし、もし当時の我が国の工業力などが不足していれば、アメリカ軍を中心とした巨額な発注を到底受けいれることはできなかったでしょう。逆に言えば、戦争という悲劇を経験してもなお高い水準を保っていた我が国の生産力が、特需景気を支えるとともに我が国の経済を復興させたとも言えるのです。
この他、当時の吉田茂首相がアメリカのダレスからの再軍備の要請を断ったことも、戦争によって生産を支える人手を失ったり、あるいは経済に多大な負担を強いる軍備によって復興が遅れたりすることを防いだとも考えられますし、また朝鮮戦争そのものは昭和28(1953)年に休戦となりましたが、アメリカの沖縄基地建設に関する需要などによって、特需景気はその後も長期間にわたって続いています。
いずれにせよ、敗戦後の混乱の中で国際競争力に乏(とぼ)しかった我が国の産業に対して、特需景気が巨大な外需をもたらし、日本経済の発展を促(うなが)す基盤(きばん)となったことは間違いないでしょう。
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IMFや世界銀行は「世界金融の公正かつ円滑な運営」を目的として設立されたほか、GATTは加盟国間の公平な貿易を実現するために、輸入制限や関税の障壁(しょうへき)を取り除くことで「自由で平等な国際貿易を促進する」ことが主な目的でした。
これらは、1930年代から40年代にかけてアメリカやイギリスなどで行われた「ブロック経済」などによって、資源を持たない我が国などが経済的に追いつめられ、第二次世界大戦や大東亜戦争を引き起こす原因の一つとなったことを反省して設立されたものでした。
IMFや世界銀行、あるいはGATTの加盟によって、我が国は経済的な面での国際社会復帰を実現させるとともに、自由主義経済の世界的な一員となったことで、貿易上の問題で戦争が起きることを未然に防ぐという抑止力を手に入れることとなったのです。
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道民 毎日読んで勉強しています。
ところで本日(9月24日)の記事アップなないのでしょうか
黒田裕樹です。Re: 今日の記事アップは
黒田裕樹 > 毎日読んで勉強しています。
> ところで本日(9月24日)の記事アップなないのでしょうか
いつも有難うございます。
当方の手違いで、本日分のUPができていませんでした。
たった今UPしましたのでご確認ください。
申し訳ございませんでした。
その後、戦争終結によって働き手が増えたことや、生産技術の向上などによってコメの生産が史上空前の豊作を繰り返したことで、昭和30(1955)年頃までにはコメの自給が可能となり、食糧難はようやく克服されました。
また、特需景気によって我が国が経済面での国際社会の復帰を果たしたこともあって、国民の個人所得が増加して消費水準も向上し、物価も安定したほか、公営住宅の供給が進んだことで住宅事情も改善され始めました。
昭和31(1956)年度に発行された我が国の経済白書において、政府が「もはや戦後ではない」と宣言し、当時の国民にも同じような意識が広がったことで、昭和30(1955)年から同32(1957)年にかけて「神武(じんむ)天皇以来」とうたわれた「神武景気」を迎えたのです。
※下記の映像は9月24日までの掲載分をまとめたものです。
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