この当時、マッカーサーは「戦争終結後に日本軍が速やかに武装解除に応じたのは、天皇が出した勅令(ちょくれい、天皇が発した法的効力のある命令のことであり、ここでは「終戦の詔書(しょうしょ)」を意味する)があったからだ」という事実を耳にしていたこともあり、昭和天皇を戦争犯罪人とするかどうかを慎重に検討していました。
しかし、同時にマッカーサーは昭和天皇との会見に不安を感じていました。もし天皇が自分に対して命乞(いのちご)いをするような人物であったら、やはり戦犯として裁かざるを得ないのでは、と考えていたのです。
マッカーサーがそう思うのも無理はありませんでした。そもそも戦争に敗北した国の元首の末路は、亡命や自殺、あるいは市井(しせい)の人間として不遇な人生を終え、その血は途絶えてしまい、全く新しい王朝に取って代わるのが当然だったからです。
ところが、昭和天皇がマッカーサーに対して発せられたお言葉は、彼の不安を打ち消すどころか、想像すら及ばないものでした。
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昭和天皇のお言葉を聞いたマッカーサーは「われ、神を視(み)たり!」と大いに感動して、それまで陛下の前で椅子に座り、足を組んでパイプをくわえたままの姿勢からやおら立ち上がると、抱きつかんばかりに陛下と握手を交わしました。なお、マッカーサーは後に当時の心境を「この瞬間、私の前にいる天皇が日本の最上の紳士であることを感じとった」と述懐(じゅっかい)しています。
会見が終了して昭和天皇がお帰りになる際には、マッカーサーは自ら玄関まで出て陛下を見送りました。たった一度の会見だけで、マッカーサーは陛下のお人柄の虜(とりこ)となってしまっていたのです。
マッカーサーの態度を豹変(ひょうへん)させたのは、昭和天皇が強く感じておられた戦争に関する責任のお気持ちでした。大東亜戦争の開戦そのものは、大日本帝国憲法(=明治憲法)の規定に従って手続きが進められ、昭和天皇は閣議決定の裁可をそのままお認めになられただけでした。
立憲君主制の原則から見ても、昭和天皇に直接の戦争責任があるとは到底認められないものでしたが、その一方で、陛下はご自身のお力で戦争を防ぐことができなかった「道義的責任」を強く感じておられました。だからこその「戦争責任のすべてはこの私にある」というお言葉だったのです。
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昭和天皇の無私のご行動によって、皇室を中心とする我が国の国体(=国家としての体制のこと)を護ることはできました。終戦の直前、昭和天皇による2度目のご聖断が下った際に、慟哭(どうこく)した阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣に対して、陛下がお優しく「私には国体を護れる確信がある」と仰られたとおりとなったのです。
もしマッカーサーとのご会見の際に、昭和天皇が他の一般的な国家元首のように、命乞いをする哀れな君主であったとすれば、その後の我が国の運命はどうなったでしょうか。考えただけでも私は寒気がしてきます。
ただし、我が国が皇室中心の国体を護れた一方で、GHQによる日本の占領統治は過酷を極めたものとなっていきました。
占領軍による数々の「日本解体」あるいは「洗脳」は、その後の我が国における「自虐(じぎゃく)史観」を決定づけるものであったといえますが、その具体的な内容はどのようなものであったのでしょうか。
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我が国はアメリカ軍を主力とする占領軍の軍事的支配下に入り、東京にはGHQの本部が置かれました。また日本占領の最高機関として、アメリカやイギリス、ソ連(現在のロシア)など交戦した11か国で構成された「極東委員会」がワシントンに設けられ、東京にはアメリカ・イギリス・ソ連・中華民国の代表が構成する「対日理事会」が設置されました。
しかし、極東委員会の参加国のうち、アメリカ・イギリス・ソ連・中華民国に拒否権が与えられていたことで、アメリカが拒否権や「緊急時における中間指令権」を発動したことによって、極東委員会の存在は有名無実化しました。
また、対日理事会も連合国最高司令官、すなわちマッカーサーの諮問(しもん、意見を求めるという意味)機関に過ぎなかったことにより、占領政策に影響を及ぼすことができず、GHQは占領期の日本政府の政策決定機関として大きな権限を持つようになったのです。
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大東亜戦争開戦の翌年の1942(昭和17)年には、早くも対日戦後政策がアメリカ外交関係協議会で討論されたほか、1944(昭和19)年には、アメリカの国務・陸軍・海軍調整委員会(=SWNCC)が発足して、具体的な対日方針が計画されました。
これらの計画は、GHQの占領政策にも少なからず影響を与えることになるのですが、その背景には、我が国が再びアメリカの脅威(きょうい)とならないように、非軍事化・民主化を通じて「日本弱体化」を目標とする思惑がありました。つまり、大東亜戦争において我が国が勇敢に戦い続けたことで、米軍に多大な損害を与えたことをアメリカは恐れていたのです。
こうした流れのなかで、我が国がポツダム宣言によって受諾した「軍隊の無条件降伏」が、いつしか「国全体の無条件降伏」へとすり替えられ、ポツダム宣言の内容に明らかに違反する占領統治が、GHQを通じて繰り広げられる結果となってしまうのでした。
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これは、大日本帝国憲法第8条1項において「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由(よ)リ帝国議会閉会ノ場合ニ於(おい)テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス」、すなわち「帝国議会(=国会)が閉会のあいだに『法律にかわる勅令』を発することができる」と規定されていたことに基づいていました。
ポツダム命令で発せられる勅令によって、GHQは自らが直接軍政を行わずとも、日本政府に発する指令や勧告を通じて間接統治を可能とする形式を完成させたのです。しかも、勅令は天皇の命令を意味しますから、GHQによる完全な「天皇の政治利用」でもありました。
GHQのこうした横槍(よこやり)を可能としたのは、ポツダム宣言を「国体護持」を条件に受けいれた我が国側に対する、連合国側の8月12日の回答であった「天皇の地位や日本政府の統治権は、連合軍最高司令官に従属する」が背景にもなっていたのです。これではどうしようもありません。
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実際には直接統治にもかかわらず、我が国を裏で操るがごとく間接的に統治するという占領政策が可能となったのですから、GHQは非常にやりやすかったことでしょう。
後に行われた極東国際軍事裁判(=東京裁判)において、ソ連などからの「天皇を戦争犯罪人として処刑すべきだ」という意見を押し切って、GHQが昭和天皇を訴追しなかったのも、事実上の「偽(にせ)の勅令」で国民を自由に動かすことができる「便利な存在」である天皇を残した方が、自分たちにとって都合が良いからだと考えたからではないでしょうか。
なお、ポツダム命令の代表的なものとして、いわゆる「公職追放令」がありますが、詳細は後に改めて紹介します。また、ポツダム命令の多くは、サンフランシスコ講和条約が昭和27(1952)年4月28日に発効してから約半年で廃止されていますが、なかには「物価統制令」のように、現在においても法律としての効力を持つものも存在しています。
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アメリカによる占領下で、日本を罪深い国に仕立て上げたこれらの計画は「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(=WGIP、日本人に戦争犯罪者意識を刷り込む計画)」と呼ばれ、戦後70年以上を経た今もなお、日本国と日本民族を洗脳し続けています。
WGIPに関しては、これまでその存在が疑わしいとされてきましたが、近年になってGHQが発行した証拠文書が発見され、私たちが「日本人への洗脳工作」の概要を知ることができるようになっています。
WGIPなどの様々な手段によって、マッカーサーによる命令は我が国において絶対的なものとなり、GHQの「プレス=コード」によって新聞や出版物などの徹底的な事前検閲(けんえつ)や言論統制が行われたほか、ラジオ放送には「ラジオ=コード」が定められました。
この他、映画や演劇の世界においても、チャンバラや仇討・封建的忠誠などの主題が禁じられ、日本人にとって欠かすことのできない物語であった「忠臣蔵」の上映や上演もできなくなってしまいました。
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もし新聞や雑誌を発行しようにも、GHQの検閲によって削られた箇所を別の文章で埋めることができなければ、その号は発行できません。これは、終戦直後で紙が不足していた時代に必死の思いで用紙をやり繰りしていた新聞社や出版社にとって死活問題となりました。
かくして、新聞や雑誌のほとんどが、GHQの検閲を受けないために「自主規制」を強めるようになり、そうした流れが、何事においても「そんなこと言ってもいいんですか」と考えてしまう、戦後の日本人の卑屈(ひくつ)ともいえるメンタリティを生んでしまったのです。
なお、新聞の事後検閲に関しては、各新聞社の「自主規制」が十分過ぎるほどになされたことから、検閲が不必要になったとして昭和24(1949)年10月に廃止されました。
ちなみに、プレス=コードの直前に、朝日新聞の記事の内容がGHQの逆鱗に触れ、3日間の発禁処分が下されています。
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1.占領軍総司令部(連合軍最高司令官、マッカーサー)の批判
これによってマッカーサーは聖人君子のごとき扱いを受けるようになりました。この効果は絶大で、やがて日本国民の中から、マッカーサーへの感謝の思いをつづった手紙がGHQに届くようになります。
2.極東国際軍事裁判(=東京裁判)の批判
3.占領軍総司令部が日本国憲法を起草したことへの批判
日本国民に東京裁判なるものの意味と実態を知らせないようにしたほか、日本国憲法制定までの流れを非公開とすることで、本来許されるべきであった、日本人による自由な憲法批判を全く認めないという異常な事態となりました。
4.検閲への言及
先述のとおり、GHQによる完全なる言論統制が行われていました。現代の「自主規制」の源流ともいえます。
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6.ソ連の批判
7.イギリスの批判
8.朝鮮人の批判
9.中国の批判
10.その他の連合国の批判
11.連合国の全体批判
連合国への批判を一切許さなかったほか、我が国と朝鮮人や中華民国とを離反させる流れにもつながりました。
12.満州での日本人処遇への批判
ソ連による侵攻後の満州における日本人の苦難が報道されなくなり、その結果として、日本人が満州において所持していた膨大(ぼうだい)な資産が略奪された事実も隠蔽(いんぺい)されました。
13.連合国の戦前の政策の批判
これが知られてしまうと、ABCDラインや蒋介石(しょうかいせき)への連合国からの支援など、我が国が大東亜戦争を戦わざるを得なかった歴史の流れが明らかにされてしまうからでした。
14.第三次世界大戦への論評
15.ソ連と西側諸国との対立への論評
「日本が悪いことさえしなければ世界は平和になる」と思わせるなど、大東亜戦争後の世界情勢を日本人の目から逸(そ)らさせました。
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これによって、本来あるはずの「戦争の原因」の隠蔽に成功したのみならず「日本だけが悪かった」という何の根拠もない「架空の神話」が独り歩きすることになりました。
17.神国日本の宣伝
18.軍国主義の宣伝
皇室を中心とする我が国の国体を破壊すると同時に、我が国に「軍国主義があった」と見せかけ、戦時における日本軍の活躍などを報じることが禁止されました。
19.民族主義(国家主義)の宣伝
国家として当然である「民族主義の宣伝」を、日本にだけ許さないようにしました。現在の我が国が「健全なナショナリズム」の育成に努めなければならない原因の一つです。
20.大東亜に関する宣伝
我が国が持っていた、欧米列強がアジアに持っていた植民地を解放して、日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようという「大東亜共栄圏」の構想を隠蔽するためでした。なぜなら「大東亜」という言葉だけで当時のアジア情勢が分かってしまうからです。
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抽象的な内容ですが、逆にこれを理由としてGHQに都合の悪い人物を追放したり、都合の悪い文書を破棄あるいは没収したりすることを可能としました。「GHQのためなら何でもあり」を可能とする重要な項目だったのです。
22.戦争犯罪人の正当化または弁護
この事項が、いわゆる極東国際軍事裁判(=東京裁判)における連合国側の「何でもあり」を可能としました。
23.占領軍将兵の日本女性との懇交
日本政府がGHQの要請によっていわゆる「慰安所」を設けていたにもかかわらず、各地で米兵による婦女暴行が横行していましたが、これに関する記述を不可能としました。
24.闇市場の取引
物資不足は必然的に闇取引の横行を招きましたが、これに関する記述を禁止しました。
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当時の米兵が罪を犯しても「背の高い男」などと抽象的な表現でしか報道できなかったばかりか、米兵の犯罪による賠償金を日本政府に肩代りさせ、それすら報道させませんでした。
26.飢餓(きが)状態の誇張
深刻な食糧不足で飢える国民が増えていたにもかかわらず、その実態を「誇張」と一方的にみなして報道させませんでした。
27.暴力行為と不穏状態の誘導
日本国民による占領軍に対する抗議行動の一切を禁止しました。
28.虚偽の陳述
真実の陳述であっても虚偽の陳述とみなされてしまいました。
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GHQを聖域とし、一切言及できないようにしました。
30.時期尚早(しょうそう)の発表
解禁されていない報道の公表を禁じることによって、GHQによる政策の一切を隠蔽し、同時に日本人に対策を立てさせない効果をもたらしました。
プレス=コードによって、我が国は新聞から雑誌、私的書簡に至るまですべての文書が丹念に検閲され、プレス=コードに触れると判断されれば、容赦なく発禁あるいは私信の没収が行われました。
プレス=コードは発行済のものにまで及び、当時の国民学校や中学校の教科書の至るところが「墨塗(すみぬ)り」で消されてしまっただけでなく(詳細は後述します)、我が国が独立を回復した後も、健全な青少年の育成に欠かせない教科書の内容を勝手に「自主規制」する流れをもたらしてしまったのです。
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