裁判では、文明に対する罪や平和に対する罪を大義名分としたうえで「個人を罰しない限りは国際犯罪である侵略戦争を実効的に阻止できない」とされ、従来の戦争に対する概念では考えられないような主張が正当化されました。
裁判は1946(昭和21)年10月に結審し、12名の被告に死刑が宣告されたり、7名に終身刑や有期懲役刑が宣告されたりという、ドイツにとっては非常に厳しい判決が下されました。
しかし、ニュルンベルク国際軍事裁判と並行して行われた「極東国際軍事裁判(=東京裁判)」において、我が国はドイツとは比較にならないほどの理不尽な仕打ちを受けてしまうのです。
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日本など有色人種の国家にとって悲願でもあった「人種差別の撤廃」という大きな理想が、大東亜戦争によって初めて達成されたといえますが、こうした現実は、白色人種たる欧米列強にとって許されざる問題でした。
「日本のせいで自分たちが甘い汁を吸えなくなった」。そうした嫉妬(しっと)とも憎悪ともいえるどす黒い感情が、敗戦国となった我が国に容赦なく襲いかかったのが東京裁判だったのですが、その実態は、裁判とは名ばかりの「戦勝国による復讐の儀式」でした。
なぜなら、東京裁判の裁判官が戦勝当事国からしか出ていないからです。本来は中立国から出せばよいのであり、それが無理なら、せめて戦勝国と同数の裁判官を敗戦国から出すべきでした。
要するに、東京裁判は「戦争の勝者が敗者を裁く」という一方的な内容であるとともに、それまでの国際法などの法律を一切無視したものであったことから、その正当性すら疑わしい「茶番」だったといえるのです。
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にもかかわらず、GHQが「戦争犯罪人」の逮捕に積極的だった背景には、日本国民に「戦争そのものが犯罪である」という、本来は外交の一手段に過ぎない戦争に「犯罪」という誤った認識を植え付けさえようという意図があったのではないか、と考えられています。
GHQによる戦争犯罪人の逮捕はその後も続き、11月19日には12名、12月2日には広田弘毅(ひろたこうき)元首相ら59名、同月6日には近衛文麿(このえふみまろ)元首相ら9名の逮捕を指示し、最終的には、GHQが昭和初期からの国家指導者とみなした100余名が戦犯として拘禁(こうきん)されてしまいました。
なお、自らが戦争犯罪人となったことを受けて、近衛文麿が12月16日に青酸カリを服毒して自殺していますが、この件に関しては近年の研究で別の見方もされているようです。
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こうした観念が大東亜戦争当時には認知されているはずもありませんから、条例は「事後法によっては過去を訴追できない」という不遡及(ふそきゅう)の原則を明らかに逸脱(いつだつ)したものであり、法理学上においても後世に大きな禍根(かこん)を残すものでした。
しかしながら、日本を断罪することに躍起(やっき)になっていたGHQや連合国は、同年4月29日の昭和天皇のお誕生日に、東條英機元首相ら28人を「A級戦犯」と一方的にみなして起訴し、翌5月3日から審理が開始されました。
なお、GHQがわざわざ昭和天皇のお誕生日を起訴の日に選んだ理由は、国民がこぞって祝うべき日に贖罪(しょくざい)意識を植え付けさえようという意図があったとされており、後日にはもう一つの「祝日」に対して、当てつけのような仕打ちを行うことになります。
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ABCの区分は「戦犯の単純な区分」であり、A級は「戦争を始めた国家指導者」が中心で、B級は「通常の戦争犯罪である捕虜虐待(ほりょぎゃくたい)などを命じた戦場の指揮官」、C級は「戦争犯罪を実行した兵隊」という意味です。
現代の私たちが、間近で起こった問題に対する責任の重さの違いを例えて「あいつはA級戦犯だ」と口にすることが多く見られますが、こうした行為は、歴史の事実に対して無知であるのみならず、戦争犯罪人とみなされ断罪された人々への冒涜(ぼうとく)でしかありません。
なお、東京裁判ではA級戦犯とみなされた人々のみを裁いており、B級戦犯・C級戦犯と決めつけられた人々は、国内外の軍事法廷で裁かれました。
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裁判において、清瀬一郎(きよせいちろう)らの日本側弁護団は、ブレイクニーらの連合国側弁護団と協力のうえで「平和に対する罪」や「人道に対する罪」といった国際法に定められていない罪に基づいて裁判を行う資格はないと主張しましたが、ウェップはこれを認めませんでした。
また、アメリカによる我が国への原爆投下に関しては、ブレイクニーは原爆のような武器の使用を禁じたハーグ陸戦条規第4条を根拠として、日本側の報復の権利を主張しましたが、ウェップは「ここは連合国を裁く法廷ではないから、連合国側の非法を立証しても本審理の助けとはならない」と主張し、これらに関する証拠書類提出を即時却下しました。
これらの例を見ても分かるように、東京裁判においては「連合国側の戦争犯罪」はすべて不問に付された一方で、突如として主張された「南京大虐殺」など、連合国側の戦争犯罪をごまかすため、存在しない悪行を「捏造(ねつぞう)」するといった、まさに「やりたい放題」の「茶番」な「復讐劇」が繰り広げられたのです。
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判決は7人(東條英機、広田弘毅、板垣征四郎=いたがきせいしろう、土肥原賢二=どいはらけんじ、松井石根=まついいわね、木村兵太郎=きむらへいたろう、武藤章=むとうあきら)が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑という厳しいものであり、このうち絞首刑は同年12月23日に執行されましたが、この日は当時の皇太子殿下(=今上天皇)のお誕生日であり、起訴日(昭和天皇のお誕生日)とともに、日本国民に贖罪意識を植え付けようと意図したと考えられています。
ところで、東京裁判の判決は、多数判決の他に少数判決が存在しており、なかでもインドのパル判事は「事後法による不当性」「復讐心の満足と勝利者の権力誇示が目的」「勝者が敗者を罰しても将来の戦争発生を防止できない」などの理由で全被告の無罪を主張しました。パル判事の判決文の最後は以下のような文章で締めくくられています。
「時が熱狂と偏見をやわらげた暁(あかつき)には、また理性が虚偽からその仮面を剥(は)ぎ取った暁には、その時こそ正義の女神は、その秤(はかり)の平衡(へいこう)を保ちながら、過去の多くの賞罰に、その処(ところ)を変えることを要求するであろう」。
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裁判においては、証人や資料が少なかったり、栄養失調の捕虜にゴボウを食べさせたことや、腰を痛めた捕虜に灸(きゅう)を据(す)えたことが虐待と認定されたりするなど杜撰(ずさん)な内容が多く、無実の罪で裁かれた者も多かったのではないかといわれています。B級・C級戦犯の処罰や処刑は、いわば戦勝国の敗戦国に対する「見せしめ」と「報復」がその実態でした。
いずれにせよ、我が国が連合国側によって無実の者を含めて多数の者が不当な裁きを受けさせられ、1,000人以上の生命を奪われてしまった事実に変わりはありません。
「日本は戦後補償がまだ不足している」と声高に主張する人が、今もなお日本国内あるいは外国において後を絶たないようですが、数多くの尊い同胞の生命が失われてしまったという悲劇を経験した我が国のどこが「償(つぐな)いを果たしていない」というのでしょうか。
しかも、連合国において一方的に決めつけられた「戦犯」という言葉は、今の我が国では完全に否定されているのです。
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独立回復から間もなく、極東国際軍事裁判(=東京裁判)によって「戦犯」と決めつけられた人々を即時に釈放すべきであるという運動が始まったのです。同年6月には、日本弁護士連合会(=日弁連)が「戦犯の赦免勧告に関する意見書」を提出したこともあって、運動は全国に広がり、当時の人口の約半分にあたる4,000万人もの日本国民の署名が集まりました。
これに基づいて、翌昭和28(1953)年8月3日に衆議院で「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で可決されました。この決議は現在も有効ですから、我が国において「戦犯」なる者は一切存在しないのです。
にもかかわらず、我が国の国会議員やマスコミなどは、こうした厳然たる事実に頬(ほお)かむりをして、靖国(やすくに)神社に祀(まつ)られたかつてのA級戦犯の人々を非難するなど、戦犯に対する不当な扱いを続けており、日本国民や世界中の多くの人々も戦犯が未だに存在すると錯覚しています。
なぜそうなってしまったのかといえば、年月が経って戦争体験が風化するにつれて、公職追放によってあらゆる業界を支配した左翼思想の猛毒が我が国の全身に回り、WGIPが種をまいた自虐史観が、売国的日本人によって増殖し続けたからですが、この件に関しては、いずれ改めて詳しく紹介します。
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GHQは、昭和20(1945)年11月に皇室財産の凍結を指令すると、翌昭和21(1946)年11月に公布された日本国憲法の第8条で「皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは贈与することは、国会の議決に基づかなければならない」と規定し、皇室への経済力の集中を事実上遮断(しゃだん)しました。
さらに、翌昭和22(1947)年1月には「皇室経済法」と「皇室典範(てんぱん)」が公布され、これらによって皇室財産の大部分が国有化されたほか、残った財産も課税対象となりました。ちなみに、昭和天皇が崩御(ほうぎょ)された際に、今上陛下は相続税を納付されておられます。
この他、宮内省の組織が縮小されて「宮内庁」となり、昭和天皇の弟君であられた秩父宮家(ちちぶのみやけ)・高松宮家(たかまつのみやけ)・三笠宮家(みかさのみやけ)以外の11宮家・51人の皇族が皇籍を離脱されました。
さらには刑法における皇室に関する「不敬罪」も廃止され、一部の心ない国民が天皇や皇族に対する誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)を行っても、一般的な罪以外は問われなくなってしまい、現在に至っています。
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これについては、軍事に関する条文などへの部分的な改正は必要であったとしても、現行の日本国憲法のように全面的な改正を、ましてや大日本帝国憲法の完全否定までは考えていなかったと、ポツダム宣言の起草者であった駐日大使の経験者のグルーらが後に述懐しています。
さらには我が国側も、終戦直後に成立した東久邇宮内閣や、そのあとを受け継いだ幣原(しではら)内閣も、戦前までの政治体制を改めるとともに選挙法などの個別法さえ改正すれば、連合国側が求める我が国の民主化は達成できると判断しており、基本法である大日本帝国憲法の改正は必要ないと考えていました。
しかし、GHQはその政策の大きな柱として、ポツダム宣言に違反し、さらに国際法であるハーグ陸戦条規にも反する「新憲法の制定」を当初から決定していました。しかも、宣言違反をカムフラージュするために、あたかも「日本が自主的に憲法を改正、または起草を行う」ように仕向けることが、当時の基本方針として明示されていたのです。
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翌昭和21(1946)年に改正憲法の草案が完成し、2月8日に政府がGHQに提出しました。この草案は、憲法問題調査委員会の中心人物であった国務大臣の松本烝治(まつもとじょうじ)の名前から「松本試案」と呼ばれています。
松本試案の内容は、前年の昭和20(1945)年の帝国議会で松本大臣が発表した、いわゆる「松本四原則」に基づいていました。その内容は以下のとおりです。
1.天皇の制度の基本原則を変更しない
2.議会の権限の拡大
3.国務大臣の議会に対する責任の明確化
4.自由及び権利の保護の拡大と侵害に対する国家の保障の強化
政府としては、大日本帝国憲法の基本方針を大きく変更する必要はなく、部分的な改正だけでGHQが求める民主化に十分対応できると判断していたのです。しかし、GHQは松本試案の内容は保守的であると見なして2月13日に拒否通告し、さらにGHQが独自に作成した「マッカーサー草案」を政府に提示しましたが、GHQの高飛車な対応や、草案の内容に対して、松本大臣をはじめとする当時の政府の首脳は、唖然(あぜん、あっけにとられること)かつ慄然(りつぜん、恐れおののくこと)としました。
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松本大臣がなぜ一院制なのかをGHQに問いただすと、ホイットニー民政局長は「日本にはアメリカのように州という制度がないから上院は必要ないし、一院制の方がシンプルではないか」と答えました。要するに、憲法草案を作成した立場の人間が、二院制の意義を全く知らないのです。
さらに松本大臣を驚かせたのが、「土地その他の天然資源は国有とする」という事項でした。これは私有財産の否定を意味しており、松本大臣が後に幣原首相に草案を報告した際に「まるで共産主義者の作文だ」という会話が残されています。
なぜマッカーサー草案には二院制に対する認識が欠けていたり、あるいは私有財産を否定するような内容が含まれていたりしたのでしょうか。それもそのはず、実はマッカーサー草案は「憲法の素人がたったの一週間で作った急ごしらえ」のものだったからなのです。
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GHQは事前に松本試案の概要を入手しており、日本政府に先手を打つかたちで、自分側からの草案作成を急いでいたのです。
ところが、民政局員の25人のメンバーのうち、弁護士の資格を持っている人物こそ存在したものの、憲法学を専攻した者は一人もいませんでした。このため、民政局は日本の民間憲法草案やアメリカ合衆国憲法ほか、世界各国のありとあらゆる憲法を参考として、わずか一週間で急ごしらえの草案をまとめ上げ、マッカーサーの承認を得たうえで日本政府に通告したのです。
なお、民政局のメンバーには、ベアテ・シロタ・ゴードン氏のような女性も含まれており、彼女によって「家族生活における個人の尊厳と両性の本質的平等」が規定された憲法第24条が起草されたことが知られていますが、何と言っても憲法に対する素人が、しかも外国人の手によって作成された草案ですから、我が国にとっては困惑以外の何物でもありませんでした。
しかし、我が国は松本試案を断念して、マッカーサー草案を受けいれる以外に選択肢は存在しませんでした。なぜなら、GHQが占領という立場を悪用した脅(おど)しを我が国にかけてきたからです。
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そして昭和21(1946)年2月13日にマッカーサー草案を提示した際、ホイットニー民政局長は松本大臣に対して、「この改正案(=マッカーサー草案)を受けいれなければ天皇の地位を保証することができない」と通告しました。これはすなわち、昭和天皇のお身柄と引き換えにマッカーサー草案の受けいれを求めるという、事実上の脅迫(きょうはく)でした。
さらに、ホイットニーらが会合の場所である外務大臣官邸から一旦庭に出た際に、一機のB29爆撃機が大きな轟音(ごうおん)を響かせて飛んでいきました。これも「言うことを聞かなければ日本に爆撃を加えるぞ」という、政府に対する心理的な圧迫でした。
加えてホイットニーは、GHQと政府との連絡役を務めていた白洲次郎(しらすじろう)に対して、「我々は戸外に出て原子力エネルギーの暖(だん)を取っているのだ」と言い放ちました。この発言も、広島や長崎に次いで三度目の原爆投下を行う可能性があることを示したものであると考えられています。
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また、憲法改正における重要な審議である憲法改正特別小委員会は非公開とされ、すべてがGHQの思惑どおりに進められたうえで、若干の変更を加えたのみで衆議院と貴族院で相次いで可決され、昭和天皇のご裁可を経て、昭和21(1946)年11月3日に「日本国憲法」が公布されるとともに、翌昭和22(1947)年5月3日に施行(しこう)されました。この日は「憲法記念日」として国民の祝日となっています。
新しく制定された日本国憲法が、マッカーサー草案を下敷きとしていることは、GHQによって機密事項とされ、我が国が独立を回復する昭和27(1952)年まで一切公表されませんでした。国民が全くあずかり知らないところで新しい憲法が誕生していただけでなく、そこには本来許されるべき日本人による自由な憲法批判が全く認められない、という閉鎖性が秘められていたのです。
「五箇条の御誓文(ごせいもん)」を国政の指針と定めた後、我が国の古典などを参考にしたうえで、約8年近くの長い歳月をかけて完成させた大日本帝国憲法に対して、素人が一週間で書き上げた、しかも外国製の憲法を、国会での審議とは名ばかりで、GHQによって無理やり制定させられた日本国憲法。憲法に対する我が国での自由な議論は大いになされるべきですが、少なくとも両憲法の成立過程を十分に理解したうえで進めるべきではないでしょうか。
なお、日本国憲法の制定は、形式上は大日本帝国憲法の改正手続きに則(のっと)って行われましたが、枢密(すうみつ)顧問官として改正作業にかかわっていた憲法学者の美濃部達吉(みのべたつきち)は、大日本帝国憲法下でも民主化は可能であることを理由として、憲法の全面改正に一貫して反対しています。
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憲法において、天皇は日本国と日本国民統合の象徴とされ、国会は国権の最高機関で、公選の議員からなる衆議院・参議院の二院で構成され、議院内閣制が採用されたほか、第9条には戦争放棄や軍備の撤廃が明記されました。
そして、施行から70年以上が経過したにもかかわらず、いまだに一字一句改正されていないことから、日本国憲法が「日本にふさわしい憲法として完全に定着している」と主張する人々が数多く見られます。
しかし、我が国の国柄を一切顧(かえり)みられずに制定された日本国憲法は、本当に「改正する必要がない」のでしょうか。憲法の条文を細かく解釈していけば、先の戦争における「反省」を我が国だけが一方的にさせられているといった屈辱的(くつじょくてき)な内容が見られるなど、実は「問題だらけ」であることが理解できるのです。
それはまず、憲法の前文にあります。
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一読しただけでは見逃してしまいそうですが、この文章は独立国にとって生命線でもある「安全保障」を「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して保持する」、つまり「他国にその一切を委(ゆだ)ねる」と宣言しているのです。
自国の安全保障を他国に委ねる国が、いったいどこに存在するというのでしょうか。それに、百歩譲って私たちが「平和を愛する諸国民の公正と信義」を「信頼」したところで、相手国が無視して我が国に攻め込んで来れば何の役にも立たないことは言うまでもありません。
いずれにせよ、この前文が存在する限り、私たち日本国民は先の戦争における謂(い)われなき反省を永遠にさせられてしまうのです。
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第9条 第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
我が国の公民教科書の多くが、第9条で掲(かか)げられた平和主義を高く評価しており、中には「軍拡などにより近隣諸国に脅威を与えることなく、平和憲法の原則を守りながら、自国の安全を確保することが重要である」と書いているものもあります。
しかしながら、先述した憲法前文と同様に、いかに我が国が平和主義を一方的に訴えたところで、相手国が言うことを聞かなければ何の意味もありません。
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しかし、憲法制定後間もなくアメリカはソ連と冷戦状態になり、1949(昭和24)年には中華人民共和国が誕生したほか、翌1950(昭和25)年には北朝鮮(=朝鮮民主主義人民共和国)と韓国(=大韓民国)との間で朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)しました(詳しくは次回の講演で紹介します)。
こうした動きが東アジアの共産主義化につながることを警戒したアメリカは、それまでの我が国への占領政策を180度転換して、同年に「警察予備隊」の編成を我が国に命じましたが、これが現在の自衛隊のルーツとなっています。
なお、この流れのなかで、昭和25(1950)年10月にGHQ最高司令官のマッカーサーが、アメリカのトルーマン大統領に対して「東京裁判は間違いだった」と告白していますが、日本という共産主義化に対する大きな防波堤を自らぶち壊したアメリカにとっては、文字どおり「後の祭り」でした。
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樹梨 林三 今の日本憲法では自国の安全保障を他国に委ねていることを、何故、多くの日本国民は気づかないのか?本当に平和ボケになっているね。このままでは素晴らしい誇りある日本が他国に乗っ取られてしまうよ。黒田先生と同感です。
このため、自衛隊が憲法とは別の法律である「自衛隊法」によって規定されるとともに、憲法改正を避けた日本政府が、第9条の拡大解釈という名の「苦しい言い訳」によって、自衛隊を「合憲」としているのです。
昭和29(1954)年に自衛隊が正式に発足して早や60年以上になりますから、もういい加減に憲法で正式に規定しても良いはずですし、また自衛隊をあくまで認めたくないのであれば、例えば「自衛隊の禁止」を憲法に明記するよう運動することなどによって、長年の論争に決着をつけるべきなのです。
ところで、憲法第9条の第2項において「前項の目的を達するため」という一文がありますが、これは憲法改正特別小委員会で芦田均(あしだひとし)が付け加えたものでした。このことから「芦田修正」と呼ばれています。
芦田修正によって「国際紛争を解決する手段としての武力は持たない」との限定解釈が可能となったほか、いわゆる「自衛のための防衛力」を保持する余地を残したとされており、このことが後の警察予備隊から自衛隊創設の大きな流れにつながったとも考えられています。
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