当時の国家の多くが「資本主義による自由経済体制には限界があるのではないか」と思い込んだことで、世界経済は大きな変革を迎えるようになりました。
1929(昭和4)年10月、ニューヨークのウォール街において株価が大暴落したことをきっかけにアメリカで恐慌が起きると、その影響がヨーロッパなどにも飛び火して「世界恐慌(または世界大恐慌)」となりましたが、大恐慌を乗り切るためには国内産業を保護するしかないと考えたアメリカは、翌1930(昭和5)年に「ホーリー・スムート法」を成立させ、アメリカに輸出される多数の品目に対して、途方もなく高い関税をかけました。
突然のアメリカの仕打ちに激怒した他国が、報復としてアメリカ製品に対する関税を引き上げたことで、アメリカの貿易量は半分以下となり、恐慌が長期化しました。景気を回復させようとしたアメリカの政策が、かえって不況を増長させるという最悪の結果となったのです。
ホーリー・スムート法によって、それまでの自由貿易から一気にブロック経済に入ったアメリカに対し、イギリスも1932(昭和7)年に、カナダやオーストラリア・ニュージーランド・インドなどの英連邦諸国を集めてオタワ会議を開き、英連邦やイギリスとの間で、アメリカと同じように排他的な「ブロック経済」の体制を構築しました。
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高い経済力を持つアメリカや、植民地を含めた領土が世界の4分の1の規模を占めていた大英帝国ことイギリスがブロック経済体制に入ったという現実は、世界の貿易に重大な影響を与えましたが、アメリカやイギリス自身にとってはそれほど大きな問題にはなりませんでした。
なぜなら、アメリカは広大な領土とそこに眠る資源を持っており、またイギリスも世界各地に植民地を持っていたことから、両国とも自給自足による国家の運営が可能だったからです。
その他にもフランスやオランダ、あるいはソ連といった国々も、同じく自給自足によってブロック経済を乗り切ろうとしました。
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彼こそが、ナチス(=国家社会主義ドイツ労働者党)を率いて1933(昭和8)年に政権を握ったヒトラーでした。ヒトラーは賠償金の支払いの破棄を宣言したほか、新たな体制の構築によって自給自足が可能な国家の建設をめざし、やがては他国との戦争を模索(もさく)するようになるのです。
なお、同じように経済的に苦しんでいたイタリアでは、1922(大正11)年に政権を得ていたファシスタ党のムッソリーニが、領土の獲得をめざして1935(昭和10)年にエチオピアへ侵入しています。
ブロック経済体制は、他国との貿易によって国家の生計を立てていた我が日本にも深刻な影響を与えました。製品の輸出も資源の輸入もできなければ、国内産業が壊滅すると同時に国家の生命線である軍備も整えられなくなってしまうからです。
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こうした考えが、当時我が国が権益を持っていた満州を自給自足の、すなわち我が国が他国からの干渉を受けずに統治するという発想に至り、ドイツと共に第二次世界大戦への遠因の一つとなるのです。
しかしながら、そもそもアメリカやイギリスなどがブロック経済を行わなければ、日独両国はここまで追いつめられることはありませんでした。
いずれにせよ、英米を中心とするブロック経済体制は、共産主義という全く異なる経済体制であったために大きな影響を受けなかったソ連も含めて、世界の構図を大きく変えましたが、そんな中での当時の我が国による内政や外交の動きが、世界全体にさらなる影響をもたらすようになるのです。
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経済の自助作用から政府主導での経済立て直しへと政策を大きく転換した点では、むしろ社会主義的な色彩の濃いものと言えるかもしれません。なお、ニューディール政策によってアメリカは大規模な公共事業を起こし、国民の雇用と賃金を確保することで不況を乗り切ろうとしました。
もっとも、アメリカが本格的に不況を脱出する要因となったのは、我が国と大東亜戦争に突入したことによって、第二次世界大戦へ参戦したことで、戦争特需が生まれたことが挙げられ、ニューディール政策にどれだけの影響があったかどうかは意見が分かれています。
なお、アメリカで12年ぶりの民主党政権となったことで、フランクリン=ルーズベルトが、それまでの共和党政権が拒否してきたソ連の国家承認を就任早々行うなど、容共政権(=共産党に理解を示す政権のこと)の性格を持っていましたが、この事実は、今後の歴史を振り返る際に重要な意味を有することになります。
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ところが、1914(大正3)年に第一次世界大戦が始まると、我が国を含む各国は、流出を防ぐ目的で金の輸出入を禁止したため、金本位制は一時停止されました。大戦後には世界各国が相次いで金本位制に復帰しましたが、その中で我が国だけが、関東大震災や金融恐慌といった混乱が続いたために遅れていたのです。
昭和4(1929)年7月に成立した立憲民政党の浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣は、大蔵大臣に井上準之助(いのうえじゅんのすけ)を起用し、金の輸出入を解禁して(これを「金解禁」といいます)、列強と同じく金本位制に早期に復帰することを大きな目標としました。
金本位制では貿易赤字が続くと、その分だけ通貨(=金貨)が海外に流出して、国内の通貨量が減ると同時にモノの売り上げも落ち込むため、困った国内企業が経営合理化によってモノの値段を下げることで、結果として国内外で再び売り上げが伸びるようになる、という経済上での大きな特徴がありました。
我が国が金本位制に復帰すれば、世界における円の為替相場も安定するため、経営合理化によって輸出を拡大して、国内産業を活性化させると同時に、企業の国際競争力を確保することで、不況が続く日本経済を立て直すことが可能になるであろう、と浜口内閣は考えていたのです。
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金解禁の際に問題となったのが、円とドルとの交換比率でした。当時の為替相場が100円=44ドル前後(1ドル=2.300円前後)であった一方で、金の輸出入を禁止する前は「1ドル=2.005円」でした。もし現在の相場を基準とした新平価(平価とは「外貨と比べての価値」のこと)で金解禁を行えば円安となり、日本製品の輸出に有利となります。
しかし、浜口内閣は新平価での金解禁を主張した国内の反対の声を押し切るかたちで、旧平価である「金2分=1円=0.49875ドル(1ドル=2.005円)」での交換によって、昭和5(1930)年1月11日に金解禁を断行しました。
これでは円高となって輸出に不利となりますが、円の価値を下げて解禁に踏み切れば国としてのメンツが立たないのと、国内の企業をあえて逆境の中に放り出すことによって、合理化と体質改善を行わせ、結果として国際競争力を強化させるという狙いがあったとされています。
ところが、浜口内閣や井上蔵相によるこうした目論見(もくろみ)は、完全に裏目となってしまったのです。
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だからこそ浜口内閣は金解禁を断行したのですが、当時はアメリカの大不況によって我が国の輸出額は激減していました。不況にあえぐ国が、他国からモノを買う余裕などなかったのです。このため、売れなくなった生糸や繭(まゆ)の価格が大暴落し、養蚕(ようさん)農家が大きな打撃を受けることになりました。
さらに我が国に深刻な影響をもたらしたのが、正貨(=金貨)の大量の海外流出でした。世界恐慌の嵐が吹き荒れる中では、各国の正貨の保有が死活問題となりますが、そんな折に我が国が金解禁をしたものですから、世界各国が日本からの金の輸入に殺到し、我が国の金の保有量があっという間に減少してしまったのです。
加えて、金解禁をめざしていた浜口内閣が緊縮財政を行っていたことが、不況をさらに拡大させました。景気が悪化した際には、現代の「アベノミクス」のような積極的な経済政策が求められているにもかかわらず、その真逆を行ったことにより、全国各地で企業の倒産や操業短縮が相次いで、多数の失業者があふれるようになり、結果として「昭和恐慌」と呼ばれた甚大な恐慌に陥(おちい)ってしまいました。
なお、政府は恐慌への対策として、昭和6(1931)年に「重要産業統制法」を制定し、指定産業におけるカルテル(=寡占状態にある同一業種の企業が競争を避けて利益を確保するために価格や生産量・販路などについて結ぶ協定のこと)の結成を促進し、生産と価格の制限を設けようとしています。
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折からの恐慌で農家の兼業が望めなくなったうえに、都市の失業者の多くが帰農した際に大凶作となったことから、農村では甚大な危機となりました。農家の多くは翌年の種籾(たねもみ)まで食い尽くしたほか、欠食児童や婦女子による身売り(=親が給与を前借りして働きに出すこと)が続出しました。
金解禁を断行した浜口内閣への非難の声は、外務大臣の幣原喜重郎による協調外交がもたらした軍縮に関する問題(詳しくは後述します)もあって日増しに高まり、浜口首相が昭和5(1930)年11月に東京駅で狙撃(そげき)されると、翌昭和6(1931)年4月に内閣が総辞職し、後継の第二次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣も短命に終わりました。
その次の立憲政友会による犬養毅(いぬかいつよし)内閣が、組閣直後の昭和6(1931)年12月に「金輸出再禁止」を行ったほか、大蔵大臣の高橋是清(たかはしこれきよ)による経済政策によって、我が国の景気はようやく回復へと向かうのですが、それまでの昭和恐慌の爪痕(つめあと)は予想外に大きく、我が国の将来に重大な影響を与えることになるのです。
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一方、共産主義国家のソ連では、いわゆる「五か年計画」が成功しているかのように見えたことで、世界の経済政策は、先述したアメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領によるニューディール政策や、ドイツのヒトラーなど、自由主義から社会主義へとシフトし始めるものも現れました。
我が国でも、金融恐慌から昭和恐慌へと不況が続くなかで、北一輝(きたいっき)や大川周明(おおかわしゅうめい)などを中心として、次第に「国家社会主義思想」が広まるようになりました。
国家社会主義とは、天皇を中心としながらも、その思想は「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」という社会主義(=共産主義)そのものでした。
要するにドイツのヒトラーや、当時のソ連の指導者であったスターリンを天皇に置き換えただけであり、天皇という「錦の御旗(みはた)」を利用することで、社会主義の本質をごまかしているに過ぎなかったのです。しかし、当時の我が国が大不況であったがゆえに、この国家社会主義思想は当時の軍人、特に青年将校を中心に大きな広がりを見せるようになりました。
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しかし、その優秀さとは裏腹に、彼らの給料は決して高くなく、また預かった兵士からは、東北地方を中心に欠食児童や婦女子の身売りなどの悲惨な境遇の話を聞かされたことで、多くの青年将校たちが、当時の経済体制を不満に感じるとともに憎むようになりました。
彼らの怒りは富裕層である地主や資本家、そして財閥(ざいばつ)に向けられ、さらにはそんな体制を許しているとともに、財閥と癒着(ゆちゃく、好ましくない状態で強く結びつくこと)している(と彼らが思い込んでいた)政党政治をも敵視し始めました。
そんな彼らが、先述した国家社会主義思想に染まっていくのは、ある意味自然な流れでもありました。頭脳明晰で文武両道の青年将校たちは、自分の思想に絶対の自信を持っており、そんな彼らの様々な行動によって、やがて我が国の運命が大きく暗転することになるのです。
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このため、補助艦についても主力艦同様に制限をかけるため、昭和2(1927)年にスイスのジュネーヴで、アメリカ・イギリス・日本の3か国間で討議されましたが、アメリカとイギリスとの意見の衝突によって物別れに終わりました。これを「ジュネーヴ軍縮会議」といいます。
その後、昭和3(1928)年には、アメリカやフランスの提案によって各国の代表がパリに集まり、国際紛争の解決や国家の手段としての戦争を放棄することを規定した「パリ不戦条約」が結ばれました。
もっとも、不戦条約によって一切の戦争を放棄したわけではなく、自衛のための戦争は認められるという見解を、我が国を含む各国が持っていました。ただし、自衛戦争の範囲がどこまで認められるかについての明確な規定がなかったために、後に中国大陸などでの我が国による政策や軍事的行動が「不戦条約違反」として各国から非難されるようになったのです。
なお、パリ不戦条約には、違反した場合の制裁の規定はありませんでした。
会議では各国の意見が対立して難航しましたが、主力艦の建造禁止を昭和6(1931)年末から昭和11(1936)年末までさらに5年延長することや、補助艦の総トン数をアメリカ10・イギリス10.29・日本6.97の比率にまとめることになりました。
しかし、かねてよりアメリカを仮想敵国として、政府から軍事予算を引き出させるとともに、対米戦に備えて補助艦たる潜水艦の建造を増やしていた日本海軍の軍令部は、補助艦の建造が不可能となる軍縮条約の締結に猛反対しました。
これに対して、当時の浜口雄幸内閣は、幣原喜重郎外務大臣による協調外交を展開しており、また金解禁の実施のために徹底した財政緊縮の必要があったことから「ロンドン海軍軍縮条約」の締結を決断しましたが、このことが日本国内に大きな波紋を呼ぶことになるのです。
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なるほど、確かに大日本帝国憲法(=明治憲法)の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり、条文を素直に読めば、統帥権は天皇のみが有するという規定となりますが、実際にはもちろん天皇ご自身が指揮を取られることはなく、陸軍や海軍の責任者が握っていました。
また、そもそも国の軍備について決定を下すことは統治権の一部であり、統治権は天皇の名の下に内閣が行うものです。従って、軍部による主張は統帥権の拡大解釈に過ぎず、統帥権干犯問題は軍部による反撃材料の一つでしかありませんでした。
ところが、時の野党である立憲政友会が「与党の攻撃材料になるのであれば何でもよい」とばかりに、統帥権干犯問題を政争の具として、軍部と一緒になって政府を攻撃したことで、話が一気に拡大してしまったのです。
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ところが、軍部が火をつけ、政友会が油を注いだ統帥権干犯問題はもはや止めることができず、ロンドン海軍軍縮条約そのものは何とか批准(ひじゅん、国家が条約の内容に同意すること)に成功したものの、先述のとおり、浜口首相が昭和5(1930)年11月に東京駅で狙撃されて重傷を負い、翌昭和6(1931)年4月に内閣総辞職をした後、同年8月に死亡しました。
統帥権干犯問題は、確かに大日本帝国憲法における欠陥ともいえましたが、憲法制定当初は全く問題視されていませんでした。それがなぜ、制定から40年以上も経ってから、我が国に深刻な影響を与えるようになったのでしょうか。
その背景には、例えば伊藤博文(いとうひろぶみ)のような明治維新の元勲(=国家に尽くした大きな功績のある人のこと)たる「元老」の存在があったのです。
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そもそも明治維新や明治新政府は、元老たちが明治天皇の下で起こしたのですから、元老の意見は天皇の意見と同じだけの重みをもっていましたし、その元老たちの推薦によって内閣総理大臣が選ばれたことから、首相や内閣も天皇や元老と一体のものと考えられていたのです。
これだけの重み<がある以上、たとえ大日本帝国憲法に規定のなかった内閣であっても、その指導力はいかんなく発揮され、日清戦争や日露戦争の際にも、その絶妙な政治的判断によって、我が国は国難を何度も乗り越えてきました。
しかし時が流れ、昭和を迎える頃には、元老のほとんどが死に絶えてしまい、大正期に元老となった西園寺公望のみとなってしまいました。こうなると、元老の意見が天皇の意見と同じであると誰も思わなくなり、同時に内閣の権威も低下してしまったことで、統帥権干犯問題が表面化してしまったのです。
そして、そんな統帥権干犯問題をさらに拡大してしまったのが、本来は軍部をコントロールする立場であるはずの政党であったことが、何とも言えない皮肉でもありました。
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しかし、当時の野党であった立憲政友会が「政争の具」として軍部と一緒になって浜口内閣を攻撃したことが、憲政を擁護(ようご)する立場であるはずの政党政治に致命的な打撃を与えてしまったのです。
なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自らが「軍部は政府の言うことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして、我が国では軍部の独走を事実上誰も止められなくなってしまうようになりました。
さらには、政府のいうことを聞く必要がなくなった軍部自体も、似たような悩みを抱えることになりました。なぜなら、軍のトップが憲法を盾(たて)に政府の言うことを聞く必要がないということが、自身の部下に対して「政府の言うことはもちろん、陸海軍の中央の意向も確認する必要がない」という風潮を同時に生み出してしまったからです。
やがて我が国では、青年将校を中心とした軍部による「血の粛清(しゅくせい)」が当たり前になったほか、陸軍首脳などが全くあずかり知らないところで、現地の軍隊が勝手に軍事行動を起こすようになりますが、これらは元はといえば、国家全体の指揮系統を弱めた政治家や軍部の責任でもあるのです。
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