中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に何度も失敗していた孫文に対して言葉巧(たく)みに近づきました。
1923(大正12)年に、コミンテルンのボロジンやヨッフェと次々に会談した孫文は、チャイナの全土統一のためにソ連の援助を受けることを決断し、翌1924(大正13)年に共産党と連携(れんけい)しました。これを「第一次国共合作」といいます。
しかし、この国共合作は、コミンテルンが仕組んだ「巧妙な罠(わな)」でした。新たに孫文の顧問となったボロジンは、中国共産党を裏で操りながら国民党をも動かす地位を得たことで、彼の指示によって多くの共産党員が国民党内に流れ込み、国共合作後のチャイナの情勢に大きな影響を与えてしまうのです。
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国民革命軍は、南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で、国民党内で共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に、上海で多数の共産党員を殺害しました。この事件は、今日では「上海クーデター」と呼ばれています。
上海クーデターの後に国民政府を立ち上げた蒋介石が、共産党と対決する姿勢を明確に示したことで、第一次国共合作は事実上崩壊しました。蒋介石が率いた革命軍は、その後も北伐に向けて進撃を続けましたが、チャイナにおける大きな混乱は、大陸に権益を持っていた世界各国に深刻な影響をもたらしていました。
上海クーデターより以前の1927(昭和2)年1月、当時は租界と呼ばれた外国人居留地であった漢口(かんこう)や九江(きゅうこう)が革命軍に次々と襲われ、多数のイギリス人が殺害されただけでなく、租界そのものを革命軍に奪われてしまうという事件が発生しました。これを「イギリス租界奪取事件」といいます。この非常事態に対して、イギリスは自国内で多数の軍隊を動員するとともに、かつての北清(ほくしん)事変にならって列強各国に出兵を要請しました。
しかし、我が日本は「外交上の理由」でこの要請を拒否してしまうのです。
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幣原外相による外交は今日では「幣原外交」、あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が、相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が国の外交面での信頼を大きく損ねることになったのです。
先述したイギリス租界奪取事件においても、協調外交の姿勢を重視した幣原外相は、イギリスからの出兵要請を無視しましたが、これに味をしめたチャイナの革命軍は、同じ昭和2(1927)年3月に南京の我が国を含む外国領事館や居留民を襲撃し、これに怒ったイギリスとアメリカの軍艦が砲撃戦を行いました。これを「南京事件」といいます。
南京事件は在留の日本人が殺害されるなどの大きな被害をもたらしましたが、事を荒立てるのを嫌った幣原外相が、チャイナに対して一切報復せずに固く「平和」を守ったため、その「弱腰」ぶりがさらなる悲劇をもたらすことになってしまいました。
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イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して、暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪を働いたりする行為は不法そのものでした。しかし、我が国はチャイナに攻撃を仕掛けることで大陸中が大混乱になり、その結果多くの日本人居留地や居留民が被害を受けることを恐れるあまり、協調外交を口実に一切の報復を行わなかったのです。
南京事件や漢口事件が起きたことで、日本国内においても幣原外相の「軟弱外交」に対する批判がようやく高まりましたが、当時は金融恐慌(きんゆうきょうこう)などによって内政が大混乱となっており、チャイナによる度重なる租界襲撃に対して一切の報復を行わなかった我が国が、世界における信頼を失いつつあることにまで気が付いていませんでした。
「過ぎたる協調外交は結果として国を滅ぼしかねない」。これも歴史における大きな教訓ですが、実は幣原外交はこの2年後に復活して、我が国をさらなる混乱に巻き込んでしまうのです(詳しくはいずれ後述します)。
なお、南京事件や漢口事件はいずれも中国共産党の扇動によって起きたとされており、これらが蒋介石による上海クーデターにつながったといわれています。
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昭和2(1927)年の中国大陸では、蒋介石の国民革命軍による北伐が急激に進み、北京・天津(てんしん)方面から山東(さんとう)半島へと迫りつつありましたが、山東半島には数多くの日本人が居留していたほか、莫大(ばくだい)な投資を行っていたため、先述した南京事件や漢口(かんこう)事件といった悲劇を繰り返さないためにも、これらの人的あるいは物的な保護が政府の大きな課題となりました。
昭和2(1927)年5月、田中内閣はイギリスやアメリカ・フランス・イタリアといった諸外国に事前に連絡し、反対がないことを確認したうえで、山東半島へ向けて出兵しました。これを「第一次山東出兵」といいます。
第一次山東出兵の後に、蒋介石が北方軍閥に敗れて北伐を中止すると、山東半島における危機が去ったとみなした日本軍は、同年9月までに撤兵しました。
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一方、田中内閣は、昭和2(1927)年6月に東京で日中の外交官や軍人など関係者を招集して「東方会議」を開き、チャイナにおける我が国の権益を守るため、積極的に防衛対策を行うことが決められました。
翌1928(昭和3)年に蒋介石が北伐を再開すると、田中内閣は同年4月に「第二次山東出兵」を行い、多数の日本人が居留していた済南(さいなん)を警備しました。5月になって蒋介石の国民革命軍が済南に入城すると、日章旗を損傷したり、排日ビラを貼付(ちょうふ)したりするなどの反日行為を行ったため、日本軍が抗議しました。
これに対し、蒋介石は「済南の治安は革命軍が責任を持って確保するので、城内の日本軍による警備を撤去してほしい」と申し入れしてきたので、蒋介石を信用した日本軍は、夜を徹して兵を引き揚げました。
しかし、このことが、信じられないような虐殺事件を招いてしまうのです。
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国民革命軍による非人道的な虐殺行為に激高した我が国は、直ちに「第三次山東出兵」を行って済南城を攻撃すると、革命軍は夜陰に乗じて城外に脱出し、日本軍が済南を占領しました。これら一連の流れは「済南事件」と呼ばれています。
当時の欧米列強は、日本軍による軍事行為を正当防衛と認めましたが、済南で日本軍がチャイナの便衣兵(べんいへい、いわゆるゲリラのこと)を射殺した際、その中にチャイナの外交官も含まれていたことから、チャイナが「日本軍が無抵抗の外交官を虐殺した」と喧伝したほか、国際連盟に提訴するなどして我が国を激しく非難しました。
ところで、我が国の歴史教科書では、済南事件についての記述はあるものの、チャイナによる虐殺行為が一切書かれていないため、なぜ日本軍が国民革命軍を攻撃したのかという理由が分からなくなっています。
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済南事件による悲惨な虐殺を経験した我が国は、北伐が当初の目的である北京占領で終わらず、日本の生命線たる満州の権益を害しに来ることを恐れたのです。
北京へ迫る蒋介石の国民革命軍と、満州を守る日本軍とに挟まれた張作霖は総退却を決断し、昭和3(1928)年6月に、再起を期して北京から満州へと列車で移動しましたが、同月4日に奉天(ほうてん、現在の瀋陽=しんよう)郊外で列車ごと爆破されて死亡しました。
この「張作霖爆殺事件」は、当時「満州某(ぼう)重大事件」と報じられ、国民には真相が知らされていませんでしたが、やがて事件の首謀者として、関東軍の河本大作(こうもとだいさく)大佐が浮かび上がりました。
田中首相は、昭和天皇の思召(おぼしめ)しもあって、事件の関係者の厳重処分を決断しましたが、閣僚や陸軍の反対を受けてしまい、結局事件をうやむやにしたうえで、翌昭和4(1929)年6月27日に、調査結果を昭和天皇に上奏(じょうそう、天皇に意見や事情などを申し上げること)しました。
まだ28歳とお若かった昭和天皇のお顔の色がにわかに変わり、お怒りの声を発せられました。
「この前の約束と話が違うではないか!」
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そのためには、軍隊であっても当然規則を守らねばならないはずなのに、大きな事件を起こしたばかりか、その結果をうやむやにしようとする田中首相の報告を、昭和天皇はお許しになられなかったのです。そして、そのお怒りが、さらなるお言葉を生み出してしまいました。
「辞表を出してはどうか」。
昭和天皇から直接辞職を迫られた田中首相は大きなショックを受けて、5日後の7月2日に内閣を総辞職すると、それから3か月も経たない同年9月29日に死亡してしまいました。
なお、立憲政友会の田中内閣が総辞職したことによって、憲政会と政友本党とが合同して誕生した立憲民政党の浜口雄幸(はまぐちおさち)が新たに内閣を組織しましたが、その際に幣原喜重郎が再び外務大臣となったことにより、この後の我が国は、復活した協調外交という名の「弱腰外交」によって、さらなる大きな混乱を招いてしまうのです。
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いくら曖昧(あいまい)な報告だったからとはいえ、昭和天皇が田中首相に直接辞職を迫られたことは「天皇による政治への介入」に他なりませんでした。
これは「国王は君臨すれども統治せず」とする立憲君主制の原則を明らかに破ることなのです。
まして、ご自身の発せられた言葉が内閣を総辞職させ、首相を死に追いやったかもしれないという結果が、日頃から責任感のお強かった昭和天皇に大きな影響をもたらすことになりました。
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「今後、内閣が私に上奏することは、たとえ自分の考えと反対の意見であったとしても、裁可を与えることにしよう」。
昭和天皇にとっては、立憲君主というご自身のお立場をお考えになってのご決断でしたが、時代は統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)に関する問題が深刻化しており(詳しくは後述します)、陛下のご決断は、結果として軍部の様々な行動を黙認されることにつながってしまいました。
これ以降、昭和天皇は、内閣とは無関係に、ご自身で政治的な問題に決断されることが2回ありました。それは、昭和11(1936)年2月の「二・二六事件」と、昭和20(1945)年8月のいわゆる「終戦のご聖断」です。
なお、張作霖爆殺事件は関東軍の河本大作大佐が首謀者であったと長い間考えられてきましたが、最近の研究では、ソ連のコミンテルンによる謀略ではないかという説も出てきています。
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