イスパニア(=スペイン)やポルトガルによって始まった大航海時代は、やがてイギリス・オランダ・フランスによる海外進出をもたらしましたが、それらの国々には、大西洋に面して海に出やすいという共通点がありました。
一方、国が内陸に存在したドイツやオーストリア・イタリアは、列強による植民地の争奪戦に出遅れていましたが、19世紀に入ると、国家の保護によって重化学工業を発達させたドイツが、産業革命においてイギリスを追い越さんばかりの勢いを見せるようになりました。
これに危機感を抱いたイギリスは、「名誉ある孤立」を捨てて日本と同盟を結んだほか、ロシアやフランスと「三国協商」を結びましたが、一方のドイツも、オーストリアやイタリアと「三国同盟」を締結しました。
20世紀に入って、ヨーロッパではイギリスを中心とする三国協商と、ドイツを中心とする三国同盟の二つの陣営が、それぞれ軍備を拡大するなど対立関係が深まりましたが、これらの流れに決定的な一撃を与えたのは、当時「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていた、バルカン半島で放たれた一発の銃弾でした。
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こうして、戦いはドイツ側の同盟国と、イギリス側の連合国とによって、ヨーロッパだけでなく世界へと拡大する空前の大戦争となり、4年3か月にも及ぶ長期戦となりました。この戦争は、今日では「第一次世界大戦」と呼ばれています。
第一次世界大戦の緒戦はドイツが優勢であり、苦戦していたイギリスは、同盟国である我が日本に対して、しきりに参戦を促(うなが)しましたが、日英同盟の範囲がインドまでと定められていたこともあり、我が国の態度は慎重でした。
当初は参戦をためらっていた我が国でしたが、イギリスの再三の要請を受けたこともあり、当時の第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣が、同年8月にドイツに対して宣戦布告しました。
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また、我が国は海軍を地中海やインド洋・太平洋など各地へ派遣して、連合国の商船や輸送船の護衛などを担当しましたが、ヨーロッパ戦線に陸軍を派遣することはなく、どちらかと言えば限定的な参戦に留まりました。
一方、第一次世界大戦を欧州各国との友好関係の構築の好機と見たアメリカは、1917(大正6)年に参戦し、ヨーロッパ各地を転戦して多くの犠牲者を出しながらも、連合国側に最終的に勝利をもたらすことに成功しました。
この結果、イギリスなどの連合国と、参戦に消極的な(と見られた)我が国と積極的に貢献したアメリカとの関係が、第一次世界大戦を通じて明らかに変化したほか、ヨーロッパにおけるアメリカの発言権が大きくなりました。そして、このことが結果として我が国に不幸をもたらすことになるのです。
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正規の戦争において獲得した権益の返還を求められたのであれば、相手国にその代償を求めるのは当然の権利です。かくして、我が国は大正4(1915)年1月に、袁世凱政府に対して、チャイナにおける満州(現在の中国東北部)や内蒙古(ないもうこ)などの、日本の権益の強化と保全を目的とした内容の文書を提出しましたが、これが後に「二十一箇条の要求」と呼ばれるようになりました。
提案した主な内容は、山東省におけるドイツの権益を日本が継承すること、南満州や東部内蒙古における日本の優越権の承認、旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)および南満州鉄道の租借期間の延長、日中合弁事業の推進などでした。
チャイナとの交渉は難航の末に、我が国が最後通牒(さいごつうちょう)を出したこともあり、同年5月に提案の大部分を袁世凱に承諾させましたが、これら一連の動きが諸外国にねじ曲げられて伝えられたことが、我が国の立場を後々まで悪化させる原因となってしまったのです。
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しかし、少しでも我が国からの干渉を逃れたいと思った袁世凱は、極秘のはずだった提案内容を外部へ漏(も)らしたほか、我が国からの提案を「要求」と捏造(ねつぞう)して、我が国の「不当」を喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)しました。
これらの動きに敏感に反応したチャイナの世論が、袁世凱が「要求」を受けいれた5月9日を「国恥(こくち)記念日」としたほか、以後の排日運動の活発化をもたらしてしまいました。
しかも、こうしたチャイナの「捏造」による悪影響が、日中両国間のみならず、海外においても「欧米列強がヨーロッパ戦線にかかりきりになっていたことに乗じて、日本がチャイナに権益拡大要求を強引に押し付けた」という印象が定着してしまったのですが、その原因を中華民国とともにつくった国こそがアメリカだったのです。
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しかし、我が国が日露戦争に勝利したという事実は、アメリカをして我が国に警戒感を植え付けせしむ結果をもたらしましたし、さらに、前回(第64回)に詳しく紹介したように、戦争後に鉄道王ハリマンの提案を我が国がはねつけたことも、満州など東アジアでの権益を狙っていたアメリカの対日感情の悪化につながりました。
かくして、アメリカは我が国に対して敵意をむき出しにするようになり、アメリカ本土における日本からの移民に厳しい政策を行うようになったほか、チャイナが喧伝した「二十一箇条の要求」を「利用」して、アメリカ政府がチャイナを支援することを表明したり、アメリカの新聞各紙もこぞって我が国を非難したりしました。
これらの「攻撃」に対して、我が国は明確な対策を講じることが結局はできず、日本に関する「意図的につくられた不当なイメージ」だけが独り歩きする結果を残してしまったのです。こうなった原因の一つとしては、元老(げんろう)がその威厳によって我が国を支えていた明治の頃と比べ、政党が自己保全のために政争を最優先することが多かった大正時代には、軍事や政治の安定したバランスが崩れていたことが挙げられます。
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寺内内閣は西原亀三(にしはらかめぞう)を北京に派遣(はけん)して、袁世凱の後継となった段祺瑞(だんきずい)政権に対して巨額の借款(しゃっかん)を与えました。これを「西原借款」といいます。
借款の総額は、当時の金額で約1億4,500万円にものぼりましたが、寺内内閣がこれほどまでの巨額を北京政府に貸し付けたのは、チャイナにおける政治・経済・軍事など、様々な影響力を拡大しようとする思惑(おもわく)があったと考えられています。
しかし、その後に借款の大半が償還(しょうかん)されずに焦(こ)げついてしまったことで、我が国はほとんど成果が挙げられなかったどころか、北京政府と対立していた南方革命派の反感を買ってしまい、むしろ反日の風潮が拡大してしまいました。
西原借款は、我が国の多額の財貨を消失させたばかりか、かえってチャイナにおける反日感情を高めるという散々な結果となってしまいましたが、我が国の歴史教科書の多くが、なぜか借款が大失敗に終わったという事実を書いていません。約100年前のチャイナへの投資が、結果として我が国を苦境に陥(おちい)らせたという史実を学ぶことは、現代の中華人民共和国に対する莫大(ばくだい)な投資への「貴重かつ重要な教訓」になるはずですが…。
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大正5(1916)年、我が国とロシアは第四次日露協約を結び、極東における両国の特殊権益の擁護を相互に再確認したほか、両国の軍事同盟的な関係を強化しました。また、翌大正6(1917)年にはイギリスとの間に覚書を交わして、山東省におけるドイツの権益を我が国が継承することを承認させました。
一方、我が国のチャイナへの進出に対して最も警戒し、かつ批判的であったアメリカとの間においても、同じ大正6(1917)年に、前外務大臣の石井菊次郎(いしいきくじろう)とランシング国務長官との間で「石井・ランシング協定」が結ばれ、チャイナの領土保全・門戸開放の原則と、チャイナにおける我が国の特殊権益の保有とを確認しあいました。
しかし、この協定が結ばれた当時は、アメリカが第一次世界大戦に参戦している時期であり、アメリカが我が国と協定を結んだのは、自国が参戦中に、中国大陸に対して日本が余計な手出しをしないように抑え込もうと考えたのが主な目的でした。それが証拠に、この協定は大戦終了後の大正12(1923)年に早くも破棄(はき)されています。
このように、我が国とアメリカとの関係は常に不安定であり、資源を持たない我が国にとって生命線であった満州などチャイナにおける権益を、アメリカが脅(おびや)かすようになりましたが、ちょうどこの時期に「ある大国」が滅亡したことによって、これらの権益がさらに危機的な状況を迎えてしまうのです。
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三月(=二月)革命後のロシアは不安定な政治情勢が続きましたが、その中から勢力を拡大したのは、共産主義を標榜(ひょうぼう、主義・主張や立場などを公然と表すこと)するレーニンでした。マルクスに由来する「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」という耳に心地よい思想が、それまでの長い帝政に苦しめられてきたロシアの民衆の熱烈な支持を集めたのです。
かくしてレーニンは、1917(大正6)年11月にクーデターによって政治の実権を握ることに成功し、世界で初めての社会主義(=共産主義)政権であるソビエト政権を樹立しました。これを「十一月革命」、またはロシアの当時の暦に合わせて「十月革命」といいます。
ソビエト政権は、1922(大正11)年に「ソビエト社会主義共和国連邦」を成立させましたが、その裏でロマノフ王朝の一族をすべて処刑したばかりか、共産主義に賛同しないと見なした人民を数百万人も虐殺(ぎゃくさつ)するなど、血にまみれた恐怖政治を行い続けました。そして、広大な領土を持つ共産主義国家が突然誕生した現実は、我が国を含めた周辺諸国に甚大(じんだい)な影響を与えることになってしまうのです。
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ドイツに戦力を集中されることを恐れたイギリス・フランス・イタリアの三国は、当時シベリアで孤立していたチェコスロバキア軍を救援するという目的で、我が国にシベリアへの出兵を要請してきましたが、出兵によってアメリカをこれ以上刺激したくなかった我が国はこれを拒否しました。
その後、チェコ軍が危機に陥(おちい)っているという情報が流れて、アメリカ国内でチェコ軍の救援に向けて派兵すべしとの世論が高まり、アメリカが我が国に共同出兵を要請してきたことで、当時の寺内正毅内閣がようやく重い腰を上げて、大正7(1918)年8月にアメリカ・イギリス・フランスとともにシベリアへ派兵しました。これを「シベリア出兵」といいます。
しかし、出兵に際してそれぞれの思惑を持っていた各国は意思の疎通(そつう)を欠き、特に我が国はアメリカと激しく対立しました。なぜなら、アメリカが出兵した本音が「日本が満州北部やシベリアに進出するのを防止すること」であったのに対して、我が国には「ソビエトによる共産主義支配の危機が迫った満州を守る」という強い意思があったからです。
シベリア出兵は思ったよりもはかばかしい効果があげられないまま、大正9(1920)年初頭には各国が撤兵を開始しました。我が国もアメリカからの共同出兵打ち切りの報を受けて、撤兵への機運が高まりましたが、そんな折にとんでもない惨劇(さんげき)が起きてしまいました。
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パルチザンは我が国の守備隊と一旦は講和しましたが、やがて共産主義に同調しないニコライエフスクの市民を革命裁判と称して次々に虐殺するなど乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を繰り返し、同年3月には日本軍守備隊を全滅させ、また一部の日本人居留民を捕虜(ほりょ)としました。
日本政府は雪解けを待ってニコライエフスクに救援軍を派遣しましたが、パルチザンは救援軍が到着する前に、捕虜としていた日本人をことごとく惨殺(ざんさつ)したほか、市民のおよそ半分にあたる約6,000人を反革命派として虐殺し、最後には市外に火を放って逃走しました。
ニコライエフスクにいた約七百数十名の日本人全員が、戦死あるいは虐殺されるという大惨事に対し、我が国内で「元寇(げんこう)以来の国辱(こくじょく)だ」と対ソ強硬論が高まったのは当然でした。なお、この悲惨な事件はニコライエフスクの当時の呼称から「尼港(にこう)事件」と呼ばれています。
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後になって、ソビエトの革命政府が事件の非を認めてパルチザンの責任者を処刑しましたが、我が国が求めた賠償を革命政府が拒否したこともあって、現地での安全保障を重視した我が国は、大正11(1922)年までシベリアから撤兵ができませんでした。
シベリア出兵は最終的に当時で約10億円を費(つい)やしたほか、将兵約72,000人を現地に派遣し、そのうち約3,500名を失うこととなりましたが、結果としては何も得るものがなかったばかりか、領土的野心を周辺諸国に疑われ、特に日米関係に大きな溝をつくってしまいました。
ところで、我が国の多くの住民や兵士が虐殺された尼港事件ですが、これだけの大惨事でありながら、なぜか我が国の高校での歴史教科書の多くが取り上げていません。
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なお、我が国が保障占領した北樺太ですが、国家としてのソ連が成立した後の大正14(1925)年に日ソ基本条約が締結され、両国の国交が樹立したのを受けて、我が国が撤兵しています。
ロマノフ王朝による帝政ロシアの時代に、当時の民衆は支配者たる王朝の圧政に苦しめられ続けました。だからこそ、彼らはマルクスによる「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」という共産主義思想に憧れて、ロシア革命を引き起こしたのです。
しかし、共産党による一党独裁の政治を始めたソビエトは、共産主義社会の実現を名目として、反対する民衆を、裁判にかけることもなく有無を言わさず大量に虐殺しました。政治や言論の自由を失った民衆からしてみれば、ロマノフ王朝以上に抑圧された、非民主国家での圧政の日々と言えたかもしれません。
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コミンテルンはやがて目標の一つを東アジアに定め、中国大陸内で民衆に共産主義を広めたほか、我が国にもコミンテルン日本支部ともいうべき組織を「日本共産党」という名称で大正11(1922)年に秘密裏(ひみつり)に立ち上げました。
そもそも我が国は、ソビエトと国境を接した満州に権益を持ち、あるいは朝鮮半島を自国の領土としていましたから、ロマノフ王朝を皆殺しにするなど、君主制の廃止を何とも思わなかった共産主義による脅威(きょうい)を、天皇陛下に万が一のことがあっては大変なことになると、世界で最も強く感じていました。
共産主義への恐怖と内部で密(ひそ)かに進んだコミンテルンの工作とが、大正時代以降の我が国の歩みを大きく狂わせる結果を招くようになるのです。
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翌1919(大正8)年1月に、フランスのパリで講和会議が開かれましたが、我が国も連合国の一国として、当時の原敬(はらたかし)内閣が、西園寺公望(さいおんじきんもち)を全権として会議に派遣しました。
会議の結果、同年6月にドイツと連合国との間で講和条約が結ばれましたが、ドイツは全植民地を失ったほか、本国領土の一部を割譲(かつじょう)させられたのみならず、軍事を制限されたうえに多額の賠償金が課せられることになりました。なお、この講和条約は「ヴェルサイユ条約」と呼ばれており、また、条約に基づく新たなヨーロッパの国際秩序を「ヴェルサイユ体制」といいます。
ヴェルサイユ条約によって、我が国は山東半島におけるドイツの権益を譲り受けたほか、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得ました。なお、このときに我が国が委任統治した島々の一つに、現在の「パラオ共和国」があります。
パリ講和会議は敗戦国となったドイツにとって非常に厳しい内容となりましたが、実は我が国にとっても、権益など得るものが多かった一方で、国際的に苦しい立場に追い込まれることになったというもう一つの事実があり、またそうなった原因をつくったのが、アメリカとチャイナ(=中華民国)でした。
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かくして、講和会議はアメリカ・イギリス・フランスを中心に行われただけでなく、アメリカは自国の立場を利用して、会議にオブザーバーとして参加した中華民国の発言権を認めました。
会議において、中華民国はドイツの旧権益を、我が国を通さずに直接返還することを申し出るなど強気な発言を繰り返し、最終的にヴェルサイユ条約の調印を拒否しましたし、チャイナの国内における排日活動も、アメリカの支持を得て激しくなっていきました。
また、先述した十四か条の平和原則に基づいて、国際紛争の平和的解決と国際協力のための機関として、1920(大正9)年に「国際連盟」が設立されましたが、連盟で行われた会議において、日米両国がまたしても激しく対立することになったのです。
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我が国が提出した撤廃案は、会議に出席した16か国のうち、11か国の多数の賛成を得ましたが、議長であったアメリカのウィルソン大統領が「このような重要な事項は全会一致でないと認められない」と主張して強引に否決しました。
アメリカからすれば、日本人移民の迫害ができなくなることへの危機感もありましたし、何よりも、これまでの「白人を中心とする世界秩序」や「有色人種を奴隷(どれい)扱いする植民地制度」を破壊する可能性が高い提案は、欧米列強にとって「危険思想」以外の何物でもなかったのです。
かくして我が国は、アジアやアフリカの独立諸国や植民地支配を受けていた有色人種の民族に大きな勇気を与えた一方で、欧米列強からますます警戒されるようになり、特にアメリカの日本敵視がさらに強くなってしまいました。
ちなみに、世界平和の実現に大きな期待が寄せられた国際連盟でしたが、常任理事国として日本・イギリス・フランス・イタリアが選ばれたものの、そもそもの提案国であったアメリカが上院の反対で加盟できなかったり、またロシア(=ソビエト)や敗戦国であったドイツが除外されたりするなど、運営は当初から順調ではありませんでした。
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また、これも先述しましたが、講和会議以前の1915(大正4)年に、我が国がチャイナに対して行った提案を袁世凱(えんせいがい)が「二十一箇条の要求」と捏造(ねつぞう)したばかりか、要求を受けいれた5月9日を「国恥(こくち)記念日」としたり、袁世凱亡き後の北京政府が、西原借款(しゃっかん)によって我が国と癒着(ゆちゃく)した格好となったりしたことも、チャイナの国民の反発を招きました。
こうした流れの中で、1919(大正8)年5月4日に、北京で学生を中心に行われたデモ行進をきっかけとして、チャイナの各地で学生・商人・労働者らによる激しい反日運動が起こりました。これを「五・四(ご・し)運動」といいます。
五・四運動は反日運動であるとともに、チャイナの国内におけるナショナリズムを高めた効果があったとされていますが、実は、同じ年に同じ東アジアで広がった事件も大きな影響を与えていました。
その事件とは、当時我が国が併合していた朝鮮で起きた「三・一(さん・いち)独立運動(または三・一事件、万歳事件)」のことです。
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大正8(1919)年、アメリカのウィルソン大統領の民族自決(=各民族が自らの意志によってその帰属や政治組織あるいは政治的運命を決定し他民族や他国家の干渉を認めないとする集団的権利のこと)に関する宣言に触発された朝鮮人によって、3月1日に京城(現在のソウル)のパゴダ公園(現在のタプッコル公園)を中心に各地で集会が行われました。
集会では「独立万歳」の声が上がり、やがて示威(しい、威力や気勢を他に示すこと。いわゆるデモのこと)行為が朝鮮全土に広がったことによって警察との衝突が起こり、最後には軍隊も出動して流血の惨事となってしまいました。
三・一独立運動は不幸な出来事でしたが、その後の裁判によって死刑を宣告された人間は一人もいませんでした。当時の朝鮮総督である斎藤実(さいとうまこと)が融和策をとったからです。斎藤総督はその後も集会や言論、あるいは出版に一定の自由を認めるなど、事件の反省を受けて朝鮮半島における統治政策を緩和しました。
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アメリカの思惑に気付いた我が国は、これに対抗する目的で、艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、八八艦隊の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメリカは、やがて世界各国に海軍の軍備制限を呼びかけました。
かくして大正10(1921)年に、アメリカ大統領ハーディングが中心となって、海軍軍備制限と極東及び太平洋問題に関する国際会議がワシントンで開かれました。これは、今日では「ワシントン会議」と呼ばれています。
ワシントン会議には、アメリカや日本の他に、イギリス・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9か国が参加して行われ、我が国からは、当時の海軍大臣で後に首相となった加藤友三郎(かとうともさぶろう)を全権とする代表団が派遣されました。
この会議によって、アメリカが大きな利益を得たのに対して、我が国は第二次世界大戦、あるいは大東亜戦争にもつながる国際社会での孤立を招くことになってしまうのです。
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しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカは、ドイツが敗れて同盟の必要がなくなったことを口実として、カナダとともに日英同盟の破棄を強く迫りました。
イギリスは日英同盟の破棄までは必要ないと考えていましたが、第一次世界大戦において経済的あるいは軍事的に大きな恩恵を受けたアメリカの強硬な態度に抗しきれず、日英同盟を破棄する代わりに、イギリス・アメリカ・日本・フランスの「四か国条約」が大正10(1921)年に結ばれました。
しかし、同盟というものは「1対1」だからこそ威力を発揮するのであり、数か国が連帯すれば責任の所在が分からなくなることから、何の意味もなくなってしまうのが常識でした。まさに「共同責任は無責任」であり、太平洋の現状維持を取り決めた四か国条約が、この後に役立つことはなかったのです。
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