日露戦争での勝利は、結果として我が国の国際的地位を高めることにつながりましたが、それを裏づけるかのように、明治38(1905)年にアメリカとの間で桂・タフト協定が結ばれ、アメリカのフィリピンにおける指導権と、日本の韓国における指導権をそれぞれ承認しました。
また、同じ明治38(1905)年には日英同盟が改定され、イギリスのインドに対する支配権と引き換えに、我が国の韓国への指導権をイギリスが承認しました。この他、ロシアと同盟していたフランスとの関係も良好なものとなり、戦争を経験したロシア自身との国交も修復されました。
我が国とロシアとは、明治40(1907)年から大正5(1916)年まで四次にわたって日露協約を結び、韓国における日本の権益をロシアが承認したり、満州や内蒙古(ないもうこ)の両国の勢力圏を確認しあったりするなど、お互いの利害関係を調整しました。
このように、日露戦争後に良化したと思えた我が国をめぐる国際関係でしたが、やがて利害の調整に失敗した国との関係が悪化していきました。それはアメリカのことです。
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ハリマンの申し出に対し、アメリカとの関係を重視した元老の井上馨(いのうえかおる)や伊藤博文、あるいは首相の桂太郎(かつらたろう)らが賛同しましたが、外務大臣の小村寿太郎が猛反対したことで、実現しませんでした。
ポーツマス条約を実際に締結した小村からすれば、多くの血を流して手に入れた満州の権益を、いかに共有とはいえ、むざむざとアメリカに譲り渡すことが我慢できなかったのかもしれません。
しかし、満州での権益を得られなかったアメリカは、この件を境に我が国への態度を硬化させ、翌1906(明治39)年にはサンフランシスコで日本人学童排斥(はいせき)事件が起きるなど、日本からの移民に対して厳しい政策を行うようになりました。
かくして、南満州鉄道の共同経営を巡(めぐ)って一度こじれた日米関係は、この後も好転することなく、日露戦争終結から36年後の昭和16(1941)年には、ついに両国が直接戦う運命となってしまうのです。悲しいかな、これも厳然たる「歴史の大きな流れ」なんですよね。
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しかしながら、清国からロシアへと事大主義に走る韓国をそのままの状態にしておけば、またいつ「第二、第三のロシア」が出現して、韓国の独立と我が国の安全保障が脅(おびや)かされるか分かったものではありません。
そこで、我が国は韓国の独立を保ちながら、軍事権や外交権などを握ることによって、韓国を「保護国」とする方針を固めました。我が国と韓国は、日露戦争中の明治37(1904)年に、日本による韓国防衛の義務などを明記した日韓議定書(ぎていしょ)を結ぶと、同じ年に、韓国政府の財政や外交の顧問に日本政府の推薦者を任命するとした第一次日韓協約を結びました。
日露戦争終結後の明治38(1905)年には第二次日韓協約(=日韓保護条約)を結び、韓国の外交権を我が国が持つことで、韓国は事実上我が国の保護国となりました。また、条約に基づいて首都漢城(かんじょう、現在のソウル)に統監府(とうかんふ)を置き、伊藤博文が初代統監となりました。
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しかし、会議に出席していた列強諸国が条約の違法性を認めずに密使の会議への参加を拒絶したことで、韓国は目標を達成できませんでした。高宗や密使らの当初の思惑とは裏腹に、国際社会が第二次日韓協約の正当性を認めたことにもつながったのです。
韓国の面従腹背(めんじゅうふくはい)ぶりが明らかになったことで、韓国は当時の国際社会の信頼を損なうと同時に我が国の激怒を招き、高宗は退位に追い込まれました。
そして同年に第三次日韓協約が結ばれ、韓国の内政権が完全に日本の管轄下に入ったことで、我が国による統治がさらに強化されることになりました。
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伊藤としては、韓国の独立国としてのプライドを守るために、近代的な政権が誕生するまでは外交権と軍事権のみを預かり、その後に主権を回復させる考えだったのです。
教育者であるとともに植民地政策に明るかった新渡戸稲造(にとべいなぞう)が、韓国の植民地化に関する計画を伊藤に持参した際にも、伊藤は「植民地にしない」と一蹴(いっしゅう)したうえで、韓国人による韓国の統治の必要性を、時間をかけて新渡戸に説明したというエピソードが残っています。
「韓国は韓国人によって統治されるべきである」。我が国初の内閣総理大臣であり、維新の元勲(げんくん)でもある伊藤だけにその発言は重く、伊藤が生きている間には韓国が併合されることはないだろうと考えられていました。しかし、その伊藤が、よりによって韓国人に暗殺されてしまうという悲劇が起こってしまったのです。
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熱心な愛国家であったとされる安重根からしてみれば、初代統監として韓国を保護国化した伊藤の罪は重く、また伊藤こそが韓国を併合しようとしている首謀者だと考えたのかもしれません。しかし、伊藤が韓国人によって殺されるということは、現実には絶対にあってはならない出来事でした。
伊藤は維新の元勲で我が国にとって至宝(しほう、この上なく大切な宝のこと)ともいうべき存在でしたし、何よりも併合に最後まで反対していた人物です。日本政府内に併合に前向きな勢力が多い中であくまでも友好的だった人物に対し、テロ行為でお返しするというのは、どう考えても言語道断であると言わざるを得ません。
安重根によるテロ行為は、それがどのような思いのものからであったとしても、結果として我が国と韓国との歴史をそれぞれ大きく変えてしまう出来事となってしまったのです。なお、安重根は現在の韓国(=大韓民国)では英雄として称(たた)えられています。
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しかし、我が国は併合に対してあくまで慎重でした。日韓併合が国際関係にどのような影響をもたらすのかを見極める必要があったからです。そこで、我が国が関係国に併合の件を打診すると「我々が韓国と不平等条約を結んでいた条件を変更さえしなければ問題ない」という虫が良い話があっただけで、表立って反対する国は存在しませんでした。
その後、イギリスやアメリカの新聞も、東アジアの安定のために併合を支持するという姿勢を見せたことで、我が国は初めて日韓併合条約を結んだのです。時に明治43(1910)年8月22日のことでした。なお、併合後には朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)が置かれ、後に内閣総理大臣となった寺内正毅(てらうちまさたけ)が初代総督を務めています。
日韓併合は、このような慎重な手続を踏まえたうえに、国際的な世論の同意も得て初めて実現したのでした。なお、平成13(2001)年に、日韓併合条約の有効性が日本と韓国(=大韓民国)との間で議論された際に、韓国側が「強制的に併合されたから無効である」として国際会議に訴えましたが認められず、21世紀においても、国際社会が日韓併合における我が国による朝鮮半島支配の正当性を認めていることが確認されています。
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この他、明治45(1912)年には土地調査令を公布して、地税の公平な賦課(ふか、租税などを割り当てて負担させること)を実現するとともに、土地の自由売買が行えるようにしましたが、所有権の確認を厳密に行ったことで、土地を占有(せんゆう)していただけの農民が、自分の所有権を失ってしまうという一面もありました。
ちなみに、地税統計に基づいた、土地調査令以後の朝鮮半島における日本人と朝鮮人との所有面積は、昭和13(1938)年現在で1:9となっており、併合によって土地の多くが日本人の所有となったという説が誤りであることがよく分かります。
なお、併合の前後には朝鮮半島の各地で日本の統治に抵抗する義兵運動が本格化しましたが、憲兵や警察によって鎮圧されています。
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なぜなら、日韓併合によって、韓国は日本の領土となりましたから、朝鮮半島の安全保障も、当然のように本国並みの基準に引き上げなければならないからです。日露戦争の勝利によって、ロシアは確かに朝鮮から手を引きましたが、だからと言って、朝鮮半島における国境付近を中心とした防衛をおろそかにして良いはずがありません。
このため、陸軍は朝鮮半島への駐留を目的として、二個師団の増設を要求しましたが、日露戦争で戦費を使い果たしたうえに、賠償金がもらえなかったことで、国内のみならず世界中に負債を背負った我が国の財政事情を考えれば、不可能に近いことでした。
師団増設は当時の大きな政治問題となり、大正時代に入ってようやく増設が実現したものの、それまでに何度も内閣が交代しているという複雑な現実があるのです。
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結局、我が国は朝鮮に対して、保護国の頃に当時の費用で1億円(現在の価値で約3兆円)を支援したのみならず、併合時代の35年間においても、約20億円(現在の価値で約60兆円)を援助し続けました。
この他にも、朝鮮半島への鉄道建設に当時で6,600万円の巨費をかけるなど、軍事関連を除く民間資産は、第二次世界大戦後に我が国を占領統治したGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)の調査で53億ドル(現在の価値で約15兆円)にものぼっています。
我が国が朝鮮にもたらした資産は、モノばかりではありません。我が国は併合当時100校に過ぎなかった朝鮮半島における小学校を、5,000校にまで増やしました。また帝国大学を朝鮮の京城(けいじょう、現在のソウル)に設置しましたが、これは大阪や名古屋よりも早かったのです。
要するに、我が国は毎年のように朝鮮半島に対して多額の資金を投入していましたが、その一方で、本土への予算が十分に行きわたらなかったことが、恐慌や飢饉(ききん)が連続して発生したことも重なって、昭和初期を中心に我が国で不穏(ふおん)な動きが相次いだ遠因になったとも考えられています。
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なお、この場合の関東とは、旅順・大連とその付属地域を指していたことから、当地が「関東州(かんとうしゅう)」と呼ばれたほか、現地の軍隊は「関東軍(かんとうぐん)」と称されました。
一方、チャイナでは、清国による長年の専制支配に抵抗した反乱軍が次々とたちあがって、1911(明治44)年に「辛亥(しんがい)革命」が起こり、翌1912(明治45)年には、三民(さんみん)主義を唱えた孫文(そんぶん)を臨時大総統とする中華民国(ちゅうかみんこく)が成立しました。
しかし、北京において実権を握った袁世凱(えんせいがい)が、清朝最後の皇帝である宣統帝溥儀(せんとうていふぎ)を退位させて、自らが中華民国大総統に就任すると、政敵となった孫文は日本に亡命しました。
かくして、劇的な外交史が展開した明治の御世(みよ)が終焉(しゅうえん)し、時代が大正に入ると、我が国は次第に諸外国によって追いつめられていくようになるのです。
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(※第64回歴史講座の内容はこれで終了です。次回(4月6日)からは第65回歴史講座の内容の更新を開始します)
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一方、チャイナでは、清国による長年の専制支配に抵抗した反乱軍が次々とたちあがって、1911(明治44)年に「辛亥(しんがい)革命」が起こり、翌1912(明治45)年には、三民(さんみん)主義を唱えた孫文(そんぶん)を臨時大総統とする中華民国(ちゅうかみんこく)が成立しました。
しかし、北京において実権を握った袁世凱(えんせいがい)が、清朝最後の皇帝である宣統帝溥儀(せんとうていふぎ)を退位させて、自らが中華民国大総統に就任すると、政敵となった孫文は日本に亡命しました。
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