ポート・ニコラスを手に入れたということは、遼東半島沿岸や朝鮮半島の西海岸における制海権を握ったことを意味しており、我が国の安全保障にとって重大な脅威(きょうい)となりました。
勢いに乗ったロシアは、朝鮮半島の南部にあり、我が国の対馬(つしま)を挟(はさ)んで対岸の馬山浦(ばざんほ)や鎮海(ちんかい)湾、さらには対馬の竹敷(たけしき)港までをも目標と定めました。
もしこれらの地域をロシアに奪われれば、かつての元寇(げんこう)のように、我が国が外国からの侵略を受けるのは目に見えていました。ましてや、相手は世界有数の軍事国家であるロシアであり、まともに戦えば勝ち目は全くありません。
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たとえ満州はロシアの支配を許したとしても、朝鮮半島における安全保障だけは死守したい、という我が国にとっての苦肉の妥協案でしたが、国力や軍事力に勝るロシアが承知するはずもありません。
そんな我が国にとって、大いなる希望の光となったのが日英同盟でした。同盟国であるイギリスがロシアやその他のヨーロッパ諸国に圧力をかけてくれれば、ひょっとしたらロシアに勝てる糸口が見つかるかもしれません。
折しも国内では、社会主義者の幸徳秋水(こうとくしゅうすい)や、キリスト教徒の内村鑑三らがそれぞれの立場から非戦論を唱えた一方で、対露同志会を中心に主戦論が高まり、国民の世論は次第に開戦へと傾いていきました。
ロシアによるこれ以上の南下政策を何としても止めなければ、我が国の未来がないことを悟(さと)った政府は外交交渉をあきらめ、シベリア鉄道の全通が迫った明治37(1904)年2月に、両国がそれぞれ宣戦布告し、ついに日露戦争が始まりました。
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英米が外国債の発行に応じた理由としては、自国の東アジアに関する権益を日本に守ってもらいたいという思惑があったのも確かですが、何よりも日英同盟が大きな効果をもたらしていたことは言うまでもありません。
この他、我が国はアメリカ在住のユダヤ人からも多額の貸し付けを得ることができました。これは、当時のロシアがユダヤを迫害していたため、我が国に積極的に援助したのではないかと考えられています。
こうして何とか資金の都合をつけたことで、戦争を続けることが可能になった我が国でしたが、国力や戦力の圧倒的な違いがあったことから、世界では我が国がロシアに敗北するであろう、という見方が圧倒的でした。
ところが、いざ戦争が始まると、我が国は予想外の戦いぶりを見せました。そこには「ロシアの南下をこのまま許せば、我が国の未来はないから戦うしかない。戦うからには勝たねばならず、もし敗れるようなことがあれば、我が国はそれこそ滅亡するしかない」という、まさに「背水の陣」ともいうべき悲壮(ひそう)な覚悟があったのです。
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しかし、ロシアが清国から租借(そしゃく)後に大要塞(だいようさい)を構築した旅順攻囲戦において、我が国は苦戦を強(し)いられました。総指揮を任された乃木希典(のぎまれすけ)は何度も総攻撃を仕掛けたもののうまくいかず、この戦いだけで、乃木の息子を含めて約15,000人もの死者を出してしまいました。
翌明治38(1905)年1月に、乃木将軍が旅順攻略に成功すると、勢いに乗った我が国は、同年3月の「奉天(ほうてん)会戦」でも勝利しました。なお、奉天は現在の瀋陽(しんよう)であり、また奉天を占領した3月10日は、後に「陸軍記念日」と定められました。
陸戦で勝利を収められなかったロシアでしたが、無敵艦隊と言われたバルチック艦隊が健在であり、海戦において巻き返しは十分可能であると考えていました。
一方の我が国も、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)率いる連合艦隊がバルチック艦隊を撃(う)ち破らない限り、真の勝利は有り得ないと気を引き締めており、両国の命運をかけた一大決戦が目前に迫っていました。
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「日本海海戦」と呼ばれたこの戦いにおいて、バルチック艦隊は戦力の大半を失って壊滅状態となった一方で、我が国の損害はわずかに水雷艇(すいらいてい)3隻(せき)のみであり、世界海戦史上における空前の大勝利となりました。なお、海戦が行われた5月27日は、後に「海軍記念日」となっています。
日本海海戦を勝利したことで、制海権を確定させた我が国でしたが、実はここが一番の正念場でした。戦争が始まって既に1年3か月が過ぎており、兵站線(へいたんせん、本国と戦場を連絡する輸送連絡路のこと)も資金面も限界に達した我が国には、これ以上戦争を続けることが不可能に近くなっていました。
一方のロシアも、度重なる敗戦で軍の士気が低下していたほか、明石元二郎(あかしもとじろう)による諜報(ちょうほう)活動の成果もあって、国内で革命運動が起きるなど、政情が不安定となり、講和を模索(もさく)するようになっていました。
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この大原則は日露戦争においても同様であり、国力の限界を見極めていた日本政府は、長期戦となって我が国が劣勢(れっせい)とならないうちに戦争を終わらせるため、開戦前から講和への道を探っていました。
我が国がロシアと講和するためには、その仲介役となる国を求めなければなりませんが、当時の主な列強のうち、イギリスは我が国と同盟を結んでいますし、またフランスは逆にロシアと同盟を結んでいますから、仲介役になり得ないのは明らかでした。
そんな我が国が、最終的に仲介国としたのがアメリカでした。当時のアメリカは日露両国に対して中立的な立場であったし、またかつては不平等条約の改正に前向きな姿勢を見せるなど、我が国に対する理解も深いと思われたからです。
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当時のアメリカの大統領はセオドア=ルーズベルトでしたが、実は金子とルーズベルトはハーバード大学の同窓であり、お互いに面識があったといわれています。そうした人物を送ることで、アメリカに有力な仲介国になってもらうとともに、あわよくばアメリカ国内における世論を、我が国に有利になるようにと導くことも視野に入れていた可能性もあります。
開戦前から講和への道を確保しようとした政府と、現場において命がけで戦い、勝利をつかみ続けた軍隊。政治家と軍人とがそれぞれの役割をしっかりと果たしていたからこそ、我が国は日露戦争において、戦局が有利なうちにロシアと講和を結ぶことが可能だったのです。
戦争は、始めることよりも「終わらせること」の方がはるかに重要であり、それを実現できたのが日露戦争であったのに対し、そうならなかったのが、いわゆる「昭和の悲劇」でした。
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日本全権の小村寿太郎と、ロシア全権のウイッテとの間で進められた交渉は難航しましたが、同年9月に両国はアメリカのポーツマスにおいて講和条約を調印しました。これを「ポーツマス条約」といいます。
ポーツマス条約の主な内容(ロシアが我が国に対して)は以下のとおりでした。
1.韓国における日本の政治・軍事・経済上の優越権を認めること
2.遼東半島における旅順・大連などの租借権(そしゃくけん)を譲渡すること
3.長春(ちょうしゅん)以南の鉄道と、それに付属する炭鉱の採掘権などを譲渡すること
4.北緯50度以南の樺太を割譲すること
5.日本海、オホーツク海およびベーリング海での日本の漁業権を認めること
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また、樺太・千島交換条約によってロシアの領土となった樺太も、南半分だけではあったものの取り戻せたことで、安全保障上において、我が国は戦争前より優位に立つことができたのです。
しかし、条約は良いことばかりではありませんでした。戦争における賠償金を、ロシアから一切もらうことができなかったからです。これは、早期の条約締結を優先した政府による苦渋の決断でもありましたが、我が国の優位を信じて疑わなかった日本国内における不満の声が高まりました。
講和条約が調印された明治38(1905)年9月5日に、東京・日比谷公園で講和反対国民大会が開かれましたが、勢いに乗った参加者が暴徒と化して、講和に賛成した新聞社や警察署などを次々と襲うという騒ぎになりました。これを「日比谷焼打ち事件」といいます。
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15世紀末のコロンブスによる新大陸の発見の頃から始まった大航海時代をルーツとして、白色人種の国家が世界の大陸を次々と侵略して植民地とするとともに、有色人種を奴隷(どれい)として支配するといった帝国主義が、20世紀初頭までの世界の常識でした。
しかし、我が国が日露戦争で勝利したことによって、この常識が根底から覆(くつがえ)されるとともに、それまで白人の支配に苦しめられていた有色人種の人々に、とてつもなく大きな希望を与えたのです。
「百聞は一見に如(し)かず」ということわざのように、日本の劇的な勝利を実際に目にした世界中の有色人種の人々が「ひょっとしたら自分たちにもできるかもしれない」とイメージするようになったのは、必然の流れでもありました。
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その一方で、敗れた白人国家は大きなショックを受けました。それまで当たり前のように拡大してきた植民地が、日露戦争以後は全く増えていないのです。
強国ロシアに勝った我が国に対して、敬意と畏怖(いふ)を感じた白人国家の多くは、日本を敵に回すよりも友好的な関係を築く道を選びましたが、そんな世界の流れに「待った」をかけた国が現れました。
その国こそが、かねてからアジアでの権益拡大を目指していたアメリカであり、日露戦争を境に、それまでの友好的な態度から一転して我が国への警戒を強め、やがては激しく対立するようになってしまうのです(詳しくは後述します)。
いずれにせよ、日露戦争は世界史上に燦然(さんぜん)と輝く20世紀最初の歴史的大事件でしたが、我が国の戦後の歴史教育において、日露戦争の世界史的意義がほとんど語られることがないのは残念でなりません。
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