大東亜戦争は決して「無謀な戦争」ではなく、当時の軍事力や国力の比較からすれば、日清戦争あるいは日露戦争よりももっと勝てる可能性の高かった戦争だったともいえるのであり、実際にそのような見解も存在しています。
今回のように大きな歴史の流れを見てゆくと、日清・日露両戦争当時と比べ、大東亜戦争においてはいかに我が国の政治家も軍人も、その中枢(ちゅうすう)の人材が払底(ふってい)あるいは堕落(だらく)し、自壊するように負けていったかということがよく分かります。
我が国の未来のためにも、単なる「戦争は良くない」という否定的な見解のみに終始するのではなく、今回のような「大東亜戦争で我が国が勝てなかったのは何故なのか」ということこそが、歴史教育で学ばねばならない重要な課題ではないでしょうか。
「あの戦争は勝てたのではないか」という観点を、我々は絶対に見失ってはならないのです。
※下記の映像は8月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに最初の頃の戦局は
日本が有利であったと伺った事が有ります。
結果的には敗北せざるを得なかった戦争ですが、
仰るとおり結果ばかりを見て「もう二度と」と
目を背けるのでは無く、これから先もいついかなる時に
日本は戦いたくなくても、
戦いの火の粉が降り注ぐやも知れない事を
考えると、過去に学ぶべき
反省点を見つけ出して、来るべき時の為
最善を尽くす努力をすべきなのかも知れませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 過去に学ぶべき
> 反省点を見つけ出して、来るべき時の為
> 最善を尽くす努力をすべきなのかも知れませんね。
そのとおりです。
今回の講演でも、この観点を見失うことなく更新を続けてまいります。
昭和17(1942)年4月18日、東京の東方海上1,200kmの太平洋上の航空母艦(=空母)ホーネットからアメリカB25爆撃機16機が飛び立ち、東京・名古屋・神戸を爆撃した後に中国の基地へと逃げ込みました。これをドーリットル空襲といいます。
それまでハワイやフィリピン、あるいはインドネシアの海上決戦において、我が国に連戦連敗だったアメリカにとっては、ドーリットル空襲の成功は溜飲(りゅういん)を下げたかたちとなりましたが、本土を空襲された日本海軍の衝撃は大きいものがありました。
屈辱(くつじょく)を味わった日本海軍は、ハワイ諸島の西にあり、アメリカ海軍の中継基地となっていたミッドウェーを攻撃することにしました。いわゆるミッドウェー海戦の始まりです。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
詳しくは存じませんが、アメリカは日本軍の
零戦の弱点を
短期間で攻略し、またその作りを盗んだ様ですね。
そういう面は、やはりアメリカの技術の高さや経済力には敵わなかったのかも知れませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 詳しくは存じませんが、アメリカは日本軍の
> 零戦の弱点を
> 短期間で攻略し、またその作りを盗んだ様ですね。
> そういう面は、やはりアメリカの技術の高さや経済力には敵わなかったのかも知れませんね。
零戦の話はそのとおりですね。
今回はどうなるのでしょうか…。
さて、ミッドウェーの開戦当時の戦力は、我が国の主力空母が4隻だったのに対して、アメリカのそれは3隻とほぼ互角でしたが、全体の戦力としては米軍の方が明らかに劣勢であり、通常で考えれば日本軍が圧勝してもおかしくありませんでした。
しかし、日本海軍の暗号が解読されてアメリカ側に筒抜けになっていたことや、相手の諜報を全く傍受(ぼうじゅ)しないなど、事前の索敵(さくてき)活動を十分に行わなかったり、戦闘の作戦にも詰めの甘さが見られたりするなど、これまで連戦連勝を続けていた日本軍には、明らかに驕(おご)りや油断が見られました。
こうした中で始まったミッドウェー海戦は、我が国が誇るべき戦闘機である36機の零戦(ゼロせん、零式艦上戦闘機)が、アメリカの戦闘機のうち約50機を撃墜(げきつい)するなど完全に制空権を握り、また敵空母から襲ってきた雷撃機約70機も落とした一方で、零戦は一機も失われないなど、日本軍は鬼神のごとき活躍を見せました。
ところが、日本軍が攻撃を急ぐあまり、空母の上に護衛の戦闘機を一機も配置しなかったという油断があったために、米軍の奇襲による悲劇が起きてしまったのです。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど!
何事にも通じる事だとは思いますが、
「慢心」してしまうことが一番の命取りだと
思います。
例えば、これまで点取には慎重に
バントで確実に進めていた試合を
打撃に自信があるからと、極力バントをしなくなった
ある球団のやり方には少々不安を感じるこの頃です。。(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 分かりやすい例えですね(^^;
慢心は大怪我の元。これはいつの時代も変わりません。
米軍による乾坤一擲(けんこんいってき)の奇襲によって、我が国の空母4隻のうち3隻が炎上し、残りの1隻も後に爆撃を受けて沈没するなど、日本海軍は大敗を喫してしまったのです。
もし我が国がアメリカ軍の奇襲を許していなければ、日本海軍が勝利する可能性は高かったでしょう。日本軍がミッドウェーを制すれば、アメリカはすぐ近くにあったハワイを持ちこたえることができず、陸軍を西海岸に集結せざるを得なかったでしょう。
そうなれば、アメリカはヨーロッパにまで手が回らなくなりますから、イギリスを援護することができず、イギリスはドイツの軍門に下った可能性が高いですし、アメリカも我が国と講和を結ぶしかなかったはずです。
ミッドウェー海戦は、結果として大東亜戦争のみならず、第二次世界大戦全体の分水嶺となりました。そして主力空母という物的資源や、少数精鋭のベテラン飛行士が戦死するなど人的資源を失ったのみならず、太平洋における制海権の確保が難しくなった我が国は、この大敗北を境目として劣勢に転じていくことになったのです。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
こうして伺っていると
これまで、アメリカとの戦争に敗れた決定的な敗因は経済的や物質的な面で
明らかにアメリカに劣っていたせいなのかも知れないと思っていましたが、
アメリカの戦いに対するノウハウが日本よりも
上だったことが勝敗を決めていたのかも知れないと
感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こうして伺っていると
> これまで、アメリカとの戦争に敗れた決定的な敗因は経済的や物質的な面で
> 明らかにアメリカに劣っていたせいなのかも知れないと思っていましたが、
> アメリカの戦いに対するノウハウが日本よりも
> 上だったことが勝敗を決めていたのかも知れないと
> 感じました。
結果論ですが、そういわざるを得ませんね。
大変残念な戦いでした。
また同年5月には、北太平洋のアメリカ領アラスカ州西のアリューシャン列島の先にあるアッツ島にて、日本軍の守備隊が全滅するという、いわゆる玉砕(ぎょくさい)の悲劇が初めて起きてしまいました。
なお、アッツ島での玉砕直後に悲報を耳にされた昭和天皇は「最後までよく戦った」という惜別の電報を、二度と聞くことのできない部隊に対して発するように命じられたと伝えられています。
また、アッツ島の玉砕を受け、すぐそばにあったキスカ島の約5,000人の部隊も全滅の危機に瀕(ひん)しましたが、樋口季一郎(ひぐちきいちろう)将軍の指揮によって全員の帰還を達成するという奇跡もありました。
ただし、アメリカ軍はアリューシャン列島の戦いにおいて、我が国の零戦をほとんど無傷の状態で手に入れており、その零戦を徹底的に研究し、新鋭機器の開発と大量生産に没頭したアメリカによって、零戦の優位性は失われ、やがて我が国は制空権すら奪われるようになっていったのです。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
状況が劣勢になり、もはやここまでという
所まで追い詰められた時には、退避させるという
判断も勇気が居る決断だったと思いますし、
命を本当に重んじるのであれば、
そのような判断は不可欠だと思います。
生き恥を掻く・・という考え方こそ、今思うと
恥な事では無いかと案じます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お気持ちはよく分かりますが、当時の価値観など様々な事情もありますからね。
一方で、キスカ島の「パーフェクトゲーム」は今振り返っても見事だと思います。
ぴーち おはようございます!
よく戦争関連の番組の中で、仲間は皆戦死をしたのに自分だけが生き残ってしまったことを「恥」と思いながら自分自身を責め続けてこれまで生きてきた方の話を伺ったりすると、やるせない思いを抱いてしまうんですよね。
そう言う方たちに、どうかこれ以上苦しまずに
歴史の生き証人として、堂々と
ご自分が体験した辛い記憶と向き合い、今の世の中に役立つ良い知恵を与えて貰いたいと願うと同時に、恥では無い事を自覚して頂きたいと切に願いたいのです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、恥でも何でもありません。
私自身も元帝国軍人の皆様に何度かお会いする機会に恵まれておりますが、皆様が誇りをもって生きておられます。
同志に対する思いやりや愛情に満ちあふれた素晴らしい方々ばかりです。
日本人としての気概を私たちも学ぶべきですね。
昭和18年11月5日、東條英機首相は大東亜新秩序の建設の方針を協議するため、アジア各地域の代表を東京に集め、世界史上初めて有色人種のみで行われた首脳会議でもあった大東亜会議を開催しました。
大東亜会議には東條首相の他に南京国民政府の汪兆銘(おうちょうめい)行政院長、満州国国務総理の張景恵(ちょうけいけい)、タイ首相代理のワン=ワイタヤコーン、フィリピン大統領のラウレル、ビルマ首相のバー=モウ、またオブザーバーとして自由インド仮政府代表のチャンドラ=ボースが出席しました。
大東亜会議において、各国は「お互いを尊重し、それぞれの民族が歴史や文化、あるいは伝統を活かしながら文化交流を深め、経済関係を強化することで相互に発展し、世界各国とも進んで仲良くすべきである」という内容の大東亜共同宣言を採択しました。なお、戦後の1960(昭和35)年の第15回国連会議で植民地独立宣言が決議されていますが、その内容は大東亜共同宣言とほぼ同じでした。
ところで、戦局の悪化につれて、中国大陸では日本軍が中国共産党のゲリラ戦に悩まされた際、我が国側から「三光作戦」と呼ばれた虐殺(ぎゃくさつ)を行ったり、また中国戦線において毒ガスを使用したり、あるいは捕虜の兵士を細菌の生体実験に利用したりしたという記載が歴史教科書に見られますが、これらはいずれも根拠もない捏造(ねつぞう)であることが明らかになっています。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
捏造した内容が堂々と教科書に記載されているのは
非常に遺憾な事ですよね。
教科書に記載されていれば、それを最初に覚えた子供はそういうものだと認識してしまいますものね。
考えてみれば、怖い話です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 全くもってそのとおりです。
どんなことがあろうと、嘘や捏造を教えることは絶対に許されません。
我が国は絶対国防圏として、千島・小笠原・マリアナ・西部ニューギニア・スンダ・ビルマを含む圏域と定め、この外郭線(がいかくせん)において敵の侵攻を食い止めながら、航空戦力を中心とした反撃戦力を整備し、来襲する敵に対する攻勢を強めようとしました。
その一方で、日本軍はチャンドラ=ボースの自由インド仮政府を支援するために、ビルマ(現在のミャンマー)からインド北東部の要衝(ようしょう)であったインパールを攻略しようとして作戦をたて、昭和19(1944)年3月に行動を開始しました。これをインパール作戦と言います。
絶対国防圏の基本戦略外でもあったインパール作戦において、日本陸軍は倍近くの兵数を擁(よう)したイギリス軍を相手に健闘しましたが、多数の犠牲者を出した末、同年6月に退却せざるを得ませんでした。
ただし、日本軍の鬼気迫る奮闘ぶりはイギリス軍を恐怖に陥(おとしい)れ、作戦後のインドにおけるイギリスの支配に重大な影響を与えるとともに、戦後のインドの独立につながっていったとも考えられています。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち おはようございます!
日本人の気質なのでしょうか。
日本は何事にも一生懸命になれる国なのでしょうね。
それが受け入れる国によって、
様々に変化してしまうものですが
素直にそれを快く受け入れてくれる国とは
これからも友好的な関係を保とうと努力
出来そうですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 素直にそれを快く受け入れてくれる国とは
> これからも友好的な関係を保とうと努力
> 出来そうですね。
経過はどうあれ、大東亜戦争後に次々と独立を果たした東南アジア諸国とは比較的友好を保っていますからね。
分かる国は分かってくださいます。
昭和19(1944)年6月にアメリカ軍がマリアナ諸島のサイパン島に上陸すると、日本軍は同月のマリアナ沖海戦に大敗するなど、圧倒的物量を誇るアメリカ軍の前に次第に追いつめられるようになりました。
そして7月7日には「今ここに米軍に一撃を加え、太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋(うず)めんとす。勇躍全力を尽くして従容(しょうよう)として悠久(ゆうきゅう)の大儀に生きるを悦(よろこ)びとすべし。米鬼(べいき)をもとめて攻勢に前進し、一人よく十人をたおし、以て全員玉砕せんとす」との最後の命令を発して、指揮官が自決しました。
指揮官の命令を受けた我が国の将兵は、同日から8日にかけてアメリカ軍めがけて最後の突撃を敢行して壮絶な玉砕を遂げ、多くの民間人も自決した末に、翌9日にアメリカ軍はサイパン島占領を宣言しました。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
アメリカという国もこうした無念の死を遂げた多数の命の上に今の平和と繁栄が有るという事を
肝に銘じて欲しいと願うばかりです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 全くもって仰るとおりです。
どの国も、戦争の勝利の意味を深く思い知るべきですね。
一方、サイパン島のマッピ岬に取り残された民間人が、アメリカ軍の目前で岬の絶壁から「天皇陛下、万歳!」と叫びながら次々に身を投げて自決したことから、マッピ岬はやがて「バンザイクリフ」と呼ばれるようになりました。
なお、平成17(2005)年6月に、天皇・皇后両陛下が戦没者慰霊の目的でバンザイクリフをご訪問され、岸壁まで歩まれた後に、多くの方々が身を投げた海に向かわれ、黙祷(もくとう)を捧(ささ)げられました。
さて、サイパン島の陥落によって我が国の絶対国防圏が崩壊したのみならず、太平洋全域における制海権並びに制空権をアメリカ軍に奪われました。さらにはサイパン島の基地を飛び立った新開発の長距離重爆撃機B29が、日本本土の工業地帯に爆撃を加え始めるなど、我が国は本土の防衛すらままならない状況へと追いつめられていったのです。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
同じ「ばんざい」でも、
この万歳の光景は、想像しただけでも
背筋が凍る光景です。
二度とこのような意味で
万歳をしないようにしたいものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るお気持ち、お察しします。
戦争は一方だけではできませんから、このような悲劇を起こさないためにも、安全保障の枠組みをしっかりと構築すべきですね。
当初はドイツが優勢だったヨーロッパ戦線は、1943(昭和18)年を境にイギリスやアメリカ・ソ連などの連合国が反攻に転じ、同年2月にはドイツが東部戦線で壊滅的な打撃を受けました。
さらに同年7月にイタリアのムッソリーニが国王に解任され、彼が率いたファシスタ党が解散すると、連合軍がイタリア本土に上陸した9月にはイタリア新政府が降伏し、枢軸国の一角が崩れ落ちました。
その後、同年11月にイランのテヘランでアメリカ・イギリス・ソ連の首脳が一堂に会した初めての会談が行われ(これをテヘラン会談といいます)、ドイツに占領されていた北フランスの上陸作戦が協議されると、これにもとづいて翌1944(昭和19)年4月には連合軍がノルマンディに上陸しました。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
この時まではドイツもイタリアも
日本と同じような結末を歩んでしまった訳ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この時まではドイツもイタリアも
> 日本と同じような結末を歩んでしまった訳ですね。
そういうことになりますね。
イタリアが早くも降伏して、残りの2国は…。
カイロ宣言の主な内容は、第一次世界大戦後に日本が取得した南洋諸島の奪還や、満州・台湾などの中国への返還、朝鮮の独立などに向けた同盟諸国の行動継続を呼びかけたものであり、日本の無条件降伏も求めていました。
カイロ宣言がもたらした影響は、後に昭和20(1945)年に発表されたポツダム宣言において「カイロ宣言を履行(りこう)すべきである」と書かれるなど、決して少なくありませんでした。
ただし、カイロ宣言には3首脳の署名がないこともあり、最近では「カイロ宣言は外交的に有効な宣言ではなかった」とする説も主張されています。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
どうして3首脳の署名が得られなかったのでしょうかね??
非常に素朴な疑問で恐縮ですが
アメリカも中国も無条件降伏までさせて
日本を抑えこんでおきながら、
現代でも日本に対してあらゆる欲求や
言いがかりを寄せて来る某国は
日本に対して今でも多大な恐れを感じている
為なのでしょうか・・・?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 署名が得られなかったというよりも、そもそも宣言自体が捏造であったという説もあります。
いずれにせよ分からないことだらけですが、はっきりした検証を待ちたいですね。
戦時下の朝鮮半島において、一般的な歴史教科書では「太平洋戦争において日本の戦局が悪化すると、数十万人の朝鮮人を日本本土に強制連行し、鉱山や土木工事現場などで無理やり働かせた」という記述がみられることが多いようですが、これらは本当のことなのでしょうか。
確かに朝鮮半島や台湾の人々が、日本各地の炭鉱や工場で働いたことは事実ですが、それらは昭和14(1939)年7月に制定された国民徴用令に基づくものであり、しかも台湾では本土と同時に施行されたのに対して、朝鮮半島ではしばらく徴用を免除されていました。その後、戦局の悪化に伴って、昭和19(1944)年9月から朝鮮の人々にも国民徴用令が適用されましたが、日本本土への徴用が行われたのは、昭和20(1945)年3月までの約7ヵ月間だけでした。
つまり、現代の朝鮮の人々などによって主張されてきた、いわゆる「強制連行」は、当時の「日本国民全員」が等しく受けていた「徴用による労働の強制」に過ぎず、しかもその期間は一般的な日本人よりもはるかに短かったのです。
ちなみに、戦時中に徴用されて我が国に渡航し、戦後の昭和34(1959)年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうちわずか245人だった事実が国会での質疑の中で判明しており、しかもその245人は、自分の自由意思によって日本に留まった者か、あるいは日本生まれであり、日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は、犯罪者を除いて一人もいなかったということが明らかになっています。
※下記の映像は9月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち おはようございます!
きっと日本政府に対して
不満が生じると例えその出来事が数時間足らずだったとしても、それを発端に色々な事を言い出すのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > きっと日本政府に対して
> 不満が生じると例えその出来事が数時間足らずだったとしても、それを発端に色々な事を言い出すのでしょうね。
まずそう考えて問題ないでしょうね。
そういう人種と国家として付き合わねばならないという現実に私たちは向き合わねばなりません。
植民地とは、一般的に「ある国からの移住者によって経済的に開発され、その国の新領土となって本国に従う地域のこと」を意味しますが、これが世界中で行われるようになったのは、いわゆる大航海時代以降に西欧諸国が海外に乗り出し、アフリカやアメリカ大陸を中心に先住民への侵略を始めてからでした。
西欧諸国はアフリカやアメリカ、あるいはアジアの各地域の先住民を従わせて植民地化すると、本国の経済力を高めるために、先住民を奴隷(どれい)として強制連行したり、白色人種に都合の良い作物ばかりを育てさせようとしたりしました。
例えば、ブラジルではサトウキビの栽培を広い範囲で行わせたり、スリランカでは紅茶を栽培させたりしましたが、これらの利益のほとんどは本国が吸い上げ、先住民はそれこそ無給に等しい状態で過酷な労働を強いられたのです。
なお、このような熱帯・亜熱帯地域の植民地において、奴隷や先住民の安い労働力を使って、世界市場に向けた単一の特産的農産物を大量に生産することを「プランテーション」といいます。プランテーションはその国が輸出によって外貨を得るための唯一の手段となりますから、仮に自然災害などによって農産物が不作になれば、経済が立ち行かなくなるという大きな問題を抱えています。
※下記の映像は9月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かにこれまでの日本の動向を伺っていると
日本が外国の領土や政策を取り仕切ったとしても、
現地の住民に対して
奴隷の様に扱い、散々絞りとった美味しい汁だけを
吸い上げてしまうという行為には及ばなかったと記憶しております。
どちらかというと、日本人は
原住民の手を借りて互いにより良い国造りを
目指して努力していく性質の方が勝っているのでは
無いかと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。だからこそ、日本による朝鮮統治を単なる植民地化と断ずることは許されません。
こういう場合、一番分かりやすいのは国内における総人口の違いを調査することです。なぜなら、もし我が国が朝鮮半島を植民地化して朝鮮の人々を強制的に労働させているのであれば、結果として人口が減少するのが当然だからです。
日韓併合後に我が国が朝鮮半島を統治するために置いた朝鮮総督府が記録として残した「朝鮮総督府統計年報」によると、併合した明治43(1910)年の朝鮮の人口は1,312万8,780人でした。一方、大東亜戦争末期の昭和19(1944)年では2,512万174人です。
わずか35年足らずで、朝鮮半島の人口が倍増しているのです。植民地化で朝鮮人が被害を受けているのであれば減っていてもおかしくないのに、逆に2倍になっているのはどういうことなのでしょうか。
※下記の映像は9月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
数字一つ見ても明らかですよね。
少し注意深く検証してみれば
直ぐに分かる事だとは思いますが、
世間と言うのは、声が多い方、大きい方に
どうしても注目してしまうものですね。
皮肉な事に。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
歴史教育に携わる者として、真実を教えないことは絶対にできませんから、今後も頑張ってまいります。
我が国は併合の段階で、朝鮮半島に対してかなりの負担をしていたことになりますね。だとすれば、併合後には搾取していたのでしょうか。
事実は全く逆です。我が国が終戦を迎えるまでの35年間の統治において、我が国は朝鮮半島に対して約20億円(現在の価値で約60兆円)を支援し続けています。この他にも、朝鮮半島への鉄道建設に当時で6,600万円の巨費をかけるなど、軍事関連を除く民間資産は、GHQの調査で53億ドル(現在の価値で約15兆円)にものぼっています。
我が国が朝鮮半島にもたらした資源は、モノばかりではありません。我が国は併合当時100校に過ぎなかった朝鮮半島の小学校を5,000校にまで増やしました。また、帝国大学を京城(現在のソウル)に設置しましたが、これは大阪や名古屋よりも早かったのです。この他にも、京城医学専門学校をはじめとした各種単科大学を設立し、朝鮮人弁護士制度もつくりました。
要するに、我が国は毎年のように朝鮮半島に対して多額の資金を投入していましたが、その一方で、本土への予算が十分に行きわたらなかったことが、恐慌や飢饉(ききん)が連続して発生したことも重なって、昭和初期を中心に我が国で不穏(ふおん)な動きが相次いだ遠因になったとも考えられています。
※下記の映像は9月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
このお話を伺っただけでも、日本の尽くし方が
尋常では無い程の功績であったことが分かります。
それなのに、朝鮮半島から(或いは世界の国々から)謂れ無き中傷を浴びるのですか?
恩を仇で返す事を平気で成し遂げる根拠が
知りたい気もします。
これはあくまで推測ですが、
当然受けるべき報いがあるはずなのにそれが日本からは
全く受けなかった場合や、人から媚びられたり、余りに頭を下げられたりすると、相手はその態度を
有り難いと思わずに、逆に軽視したり、軽蔑したり
するものですよね。
日本の親切心が仇となってしまったのではないかと懸念します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ひとつ言えるとすれば、お国柄の違いかもしれませんね。
我が国が良かれと思って尽くしたことであっても、それが額面どおりに受け入れられないこともある。難しいものです。
歴史教科書を中心に「日本は朝鮮人から朝鮮語を奪った」という主張がよくなされているようですが、事実は全く逆なのです。
また、同じように「朝鮮人から名前を奪った」とされる、いわゆる「創氏改名」ですが、これも実際には全く逆であって、元々は朝鮮人が日本名を名乗るのを禁止していたのを、1930年代に「同じ日本人でありながら半島の人間が日本名を名乗れないのは差別である」との声が高まったことで、昭和14年に導入されたものであり、その件数は、届け出期間中に全戸数の79%にまで達しています。
しかも、この制度は日本名を強制させるものではなく、当時の朝鮮総督が「氏の創設は強制ではない」と何度も指示を出しています。また、改名しなかったからといって差別を受けることもなく、新聞紙上において朝鮮名の選手の活躍ぶりを称える記事が、創氏改名後の当時の大阪朝日新聞に掲載されています。
※下記の映像は9月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
これ程までに事実をネガティブに捉えられる
ものかと思うほどに、尽く悪者扱い
されていますね(^^ゞ
こうなると
日本が行った事実が良かろうと悪かろうと
日本そのものが敵視されてしまうと
どんな事も
悪い方向へ解釈されてしまうのでしょうね。
結局、日本の行いを論ずるよりも
どうしてここまで日本は敵視されなければ
ならなかったのかを論じる方が、的を得ているのでは
無いかと思ってしまいます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 結局、日本の行いを論ずるよりも
> どうしてここまで日本は敵視されなければ
> ならなかったのかを論じる方が、的を得ているのでは
> 無いかと思ってしまいます。
実際に、そのような研究を進めた方が解決が早いでしょうね。
もっとも、結論はすぐにでも出るかもしれませんが…。
結局は「恨(ハン)」の精神なんですよ。
いえねこ 朝鮮統治とはなんだったのか。日本の事情、朝鮮の事情ちゃんと理解しておかなければならないポイントですよね。
いえねこさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
正しい歴史を理解してこそ、真の国際交流が可能となるのです。
朝鮮半島では昭和13(1938)年に志願兵の募集が始まりましたが、定員の7倍以上の応募がありました。その後も驚くべき高倍率が続いて志願者が殺到し、昭和17(1942)年には62.4倍にも達しました。
高倍率の背景には、一部の下級官吏(かんり)による説得があったとされていますが、血書嘆願して志願する者もいたなど、朝鮮人全体の士気が高かったことは間違いなく、こうした流れがあったからこそ、昭和19(1944)年になってから、ようやく朝鮮半島でも徴兵制が実施されたのです。
ちなみに、朝鮮人で兵役に就いた人々の中には、難関を突破して陸軍士官学校や海軍兵学校に進み、日本軍の将校となったのも少なくありませんでした。軍の世界においても民族差別が存在しなかった何よりの証拠ですね。
なお、朝鮮人の将校としては、本名のまま陸軍中将にまで昇進した洪思翊(こうしよく)が有名ですが、彼は大東亜戦争後にB級戦犯として裁かれ、フィリピンで処刑されています。
※下記の映像は9月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんにちは!
前回のお返事の件の「恨」では有りませんが、
それまでの朝鮮の歴史から、朝鮮人の心の中には
長い間、虐げられて来た重い思いがいつの間にか
彼らの考え方まで偏屈に変えてしまったかの
様に思えてなりません。
それでも、根気よく膝つき合わせてお付き合いを
させて貰った事で、性根まで腐りきっては居ない事が
分かった様なお話だと思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰ること、私も理解できます。
外国との付き合いは国民性の違いなどもあって、大変難しいことをつくづく思い知らされますよね。
にもかかわらず、平成5(1993)年に当時の河野洋平(こうのようへい)官房長官が、慰安婦募集における強制性を認めたいわゆる「河野談話」を発表したことが「日本政府が旧日本軍による慰安婦の強制連行を認めた」と受け取られてしまい、自らを「歴史の被害者」と主張する韓国によって、単なる売春婦に過ぎない慰安婦が「性奴隷(=sex slave)」であるというデマが拡散され、アメリカのグレンデールを中心に、世界各地で慰安婦の像が勝手に建てられています。
しかし、産経新聞や民間の多くの学者の方々による慎重かつ詳細な調査によって、現在ではこの談話が杜撰(ずさん)な経緯でつくられたことが明らかになったほか、朝日新聞も平成26(2014)年8月に「従軍慰安婦問題」の根拠の一つとなった、いわゆる「吉田証言」の取り消しを発表しています。
その内容が極めて疑わしくなりつつある「従軍慰安婦問題」によって、我が国が長年にわたってこうむってきた様々な問題を解消する流れを形成するためにも、河野洋平氏自身から、談話を発表するに至った「真実」を公表すべきであるとともに、健全な青少年の育成に欠かせない歴史教科書において、慰安婦の存在自体を掲載することの是非を考慮すべきではないでしょうか。
※下記の映像は9月13日までの掲載分をまとめたものです。





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万里ママ 国際的にも広く言われている問題ですが、
実は諸説があり、今だ、真相は闇の中
・・・という感じですよね。
しっかりと当時の資料や証言を集め直し、
真実を証明・伝達していけるといいですね。
ぴーち こんばんは!
この問題も年月をいくら要しても
拉致があかない問題になってしまいましたよね。
要は「罪を憎んで人を憎まず」「戦争を憎んで日本人を憎まず」の考え方をして貰わないと
この先もこの問題は決して解決しない案件だと
思います。
万里ママさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、真実を追求したうえで嘘偽りのない事実のみを紹介すべきですね。
嘘をつかないと困る勢力でもあるのでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国側も売春婦の存在までを否定しているわけではありません。
嘘や偽りをいつまでも繰り返すこと自体が、問題解決の足を引っ張っていますからね。
台湾における徴用は、先述のとおり昭和14(1939)年に国民徴用令が施行された際に本土と同時に適用され、台湾本島や内地(=日本本土)、あるいは南方占領地への動員が開始されました。
また、日本統治下の台湾においては日本語が国語とされましたが、大正11(1922)年に新教育令が発布された当初は、日本語の習熟度の違いによって初等教育機関を区別するなど、台湾人と日本人との差別をなくそうとする姿勢が見られました。
この他、朝鮮半島での創氏改名にあたる改姓名も行われましたが、朝鮮と違って希望者の届け出を受けて台湾総督府が特別に許可する制度であったためか、手続きが無期限であったにもかかわらず、改姓は全人口のわずか1.6%に留まりました。
※下記の映像は9月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち おはようございます!
>改姓は全人口のわずか1.6%に留まりました
これは何を意味する事だったのでしょう。。?
日本を拒否する思いが強かったのか、
あるいは、台湾人である誇りを失いたく無かったのか・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 まず考えられるのは、本文中にあるように「希望者の届け出を受けて台湾総督府が特別に許可する制度であった」ことですが、それと同時に、台湾名であっても不都合がなかったからだと思われます。
それだけ当時の我が国による台湾統治が良かったのでしょう。
これを受けて、台湾でも昭和20(1945)年から徴兵制が始まりましたが、同年のうちに終戦となったために短期間で終わっています。
ところで、台湾における兵役の歴史は「高砂義勇隊」の存在抜きに語ることはできません。軍の要請を受けた台湾総督府が、昭和17年に高砂族に対する従軍者の募集を発表すると、約5,000人の応募者が殺到し、中には血書や血判の志願書を持参して嘆願する者まで現われました。
軍は応募者の中から500人を「高砂挺身(ていしん)報国隊(後に高砂義勇隊と改称)」として採用し、道路の構築や物資の輸送を主たる任務として、以後も7回まで募集を続けました。
また昭和19(1944)年からは正規の軍人の募集が「高砂特別志願兵」として始まり、ニューギニアなどの密林での戦闘に力を発揮するなど、我が国の戦争遂行に大きく貢献しました。
※下記の映像は9月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
これだけの志願があったと言うことは、
いかに日本という国が信頼が置ける国として
認識されていたかという事が数字に現れた
結果という判断でよろしかったでしょうか^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > これだけの志願があったと言うことは、
> いかに日本という国が信頼が置ける国として
> 認識されていたかという事が数字に現れた
> 結果という判断でよろしかったでしょうか^^
そう認識いただいて間違いありません。
その理由を次回の更新で明らかにします。
「日本軍がシンガポールを占領したとき、私たちの乗っている船に、現地の我々と同い年くらいの若い青年たちが物売りにたくさん来ました。その現地人たちと英語で話をするわけですが(当時の日本の中学生の学力なら簡単な英語は誰でも話せました)、彼らの誰一人として英語を文字で書ける人がいませんでした」。
「彼らは学校に行っていないから、英語を話しているのに書くことができないのです。私はこのときほど、台湾が日本に統治してもらって良かったと思ったことはなかったです」。
「私は小学校の成績が良かったから、家が貧乏だったのに、日本人の担任の先生のおかげで中学校まで卒業させてもらいました。当時は小学校に行っていない者など誰もいないし、小学校を卒業すれば、皆が日本語も中国語(=漢文)も文字が書けるようになりました」。
「しかし、イギリスの植民地となっていたシンガポールの現地人たちは、誰一人英語が書けませんでしたし、地図を示しても、見たことがないので全く理解できなかったのです。私は『日本人』であることが本当に嬉しかったですし、日本という国が本当に偉大だと思いました」。
※下記の映像は9月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
嬉しい言葉ですね!
日本の文盲率は世界的にも低いと思いますし、
識字率に関しても、世界一なのでは無いかと思います(違っていたらゴメンなさい)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、間違っていませんよ。
日本人の識字率の高さが台湾統治にも活かされ、当時の人々に感謝されたんですよね。