これは、外国を征するのに別の外国を利用するという「以夷制夷(いいせいい)」と呼ばれた、チャイナの伝統的発想に基づくものでしたが、領土の返還を受けて喜んだのもつかの間、日清戦争の敗北で「眠れる獅子」のメッキがはがれた清国は、欧米列強から成功報酬ともいうべき「落とし前」をキッチリと付けさせられることになってしまいました。
まず1897(明治30)年に、山東省(さんとうしょう)で自国のカトリック宣教師が清国人に殺害されたことを口実として、ドイツが膠州(こうしゅう)湾を占領すると、翌1898(明治31)年には同湾を清国から租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りることだが、ここでは事実上の占領という意味)するとともに、山東省内の鉄道敷設(ふせつ)権を獲得(かくとく)しました。
他にも、イギリスが九龍(きゅうりゅう)半島や威海衛(いかいえい)を租借し、フランスは広州(こうしゅう)湾の租借権と付近の鉄道敷設権を得ました。欧米列強が、まるで清国を「生体解剖(せいたいかいぼう)」するかのように支配権を強めていった当時の流れは、今日では「中国分割」と呼ばれています。
なお、アメリカは中国分割には直接参加しなかったものの、1898(明治31)年にハワイを占領し、またフィリピンの支配に成功すると、翌1899(明治32)年に、国務長官のジョン=ヘイが「門戸(もんこ)開放・機会均等」を列強に通告しました。国務長官の宣言の背景には、アメリカが中国分割に出遅れたことで「自国の分も残してほしい」という本音(ほんね)がうかがえます。
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また、ロシアは清国が我が国から返還を受けた遼東半島の旅順・大連の港をも租借しましたが、これはロシアが間接的に我が国の領土を奪ったことを意味していました。
さらにロシアは、東清鉄道から大連湾までの鉄道敷設権をも獲得しましたが、これらによって、ロシアが鉄道開通後に、自国と満州や遼東半島とを自由自在に通行できるようになることから、結果的に満州や遼東半島全体がロシアの支配を受けることを意味していました。
ロシアを含む列強によるこれらの動きに対し、我が国は清国との間で、台湾の対岸に位置する福建省(ふっけんしょう)を他国に割譲あるいは租借させないように約束したものの、列強の動きそのものを封じることはできず、満州を事実上占領したロシアの圧力に苦しむことになりました。
こうしたロシアの不気味な動きが、やがては我が国と朝鮮半島との関係にも暗い影を落とすことになってしまうのです。
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このような「自分よりも大きくて強い国に自国を委(ゆだ)ねる」という事大主義が、朝鮮政府内のいわゆる親露派の動きを強めることになりましたが、その最たる存在が朝鮮王妃の閔妃(びんひ)でした。
閔妃によって朝鮮が親露政権と化し、ロシアが朝鮮に対して影響力を強めれば、日清戦争以前の清国の立場がそっくりそのままロシアに移動することになりますから、これでは我が国が何のために大勢の犠牲者を出してまで日清戦争を戦ったのか分からなくなってしまいます。
こうした動きを憂慮(ゆうりょ)した朝鮮の日本公使の三浦梧楼(みうらごろう)が、国王高宗(こうそう)の父である大院君ら現地の反閔妃派と結ぶと、1895(明治28)年に、閔妃が我が国の援助でつくられた訓練隊を解散させようとして、王宮が混乱状態になった際に、閔妃が暗殺されてしまいました。これを「乙未(いつび)事変」といいます。
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閔妃の暗殺を知って驚いた日本政府は直ちに関係者を逮捕するなどの素早い処置をとったこともあって、乙未事変は当時の大きな国際問題にはなりませんでした。
乙未事変が大きな問題にならなかった背景には、朝鮮半島内において、かつての壬午事変や甲申事変などで多数の日本の民間人が殺害されていたこともありますし、また乙未事変後に朝鮮国王の高宗がロシア大使館に移った際にも、多くの日本人が巻き添えとなって殺されています。
要するに、当時の世界各国から我が国と朝鮮とが「お互い様」と思われていたからだともいえます。乙未事変における我が国の失態は肝(きも)に銘(めい)じておくべきではありますが、同時に当時の国際情勢も視野に入れたうえで考えなければいけない問題であるといえるでしょう。なお、事変後に閔妃は大院君によって身分を剥奪(はくだつ)され平民に落とされましたが、後に我が国からの助言もあって王位を回復しています。
乙未事変後に、朝鮮改め韓国(=大韓帝国)がロシアとの結びつきをますます強めたことで、ロシアが朝鮮半島を足掛かりとしてしきりに我が国に圧力をかけるようになるなど、我が国の外交問題に深刻な影響をもたらすようになりました。
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いわゆる「上からの改革」に失敗した清国内では、白人排斥(はいせき)への動きが次第に強くなり、「扶清滅洋(ふしんめつよう、清国を助けて西洋を滅ぼすという意味)」を唱えた排外主義団体の義和団(ぎわだん)が、1900(明治33)年に国内各地で外国人を襲撃しはじめました。
勢いに乗った義和団は、首都の北京に入って各国公使館を包囲しましたが、清国政府は義和団を鎮圧するどころか、義和団に同調して列強各国に宣戦布告するという行動に出ました。
かくして「義和団の乱」(または「義和団事件」)は、単なる国内の反乱から対外的な戦争へと変化しましたが、これら一連の動きに、列強各国は大パニックになりました。
なぜなら、このまま放置していれば、清国内に残した自国の公使館員や居留民(きょりゅうみん)らが、清国の正規軍によって虐殺(ぎゃくさつ)されるのは目に見えていたからでしたが、だからと言って、遠くヨーロッパなどから援軍を派遣したとしても、間に合うはずもありません。
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数多くの列強の中には、日本に対して必ずしも良い感情を持っていない国も存在します。もしここで、我が国が独自に動いて北京を制圧できたとしても、「日本は混乱のドサクサに紛(まぎ)れて清国を侵略した」と言い出す国が列強の中から出てくるに違いない、という思いが我が国をためらわせていました。
結局、我が国はヨーロッパ各国の総意に基づくイギリス政府からの正式な申し入れを受けて、初めて重い腰を上げることになったのですが、こうした背景には、白人中心の帝国主義の世の中で、有色人種の日本が生き残るためには、それこそ優等生のように節度ある行為を取らなければならない、という当時の日本政府の涙ぐましい努力もあったのです。
出兵を決意した我が国は、アメリカやヨーロッパなど8か国の連合軍の中心となって活躍したほか、救援軍が到着するまでの間に、義勇軍として奮戦した柴五郎(しばごろう)の功績などもあって、戦いは連合国軍の勝利に終わり、清国は降伏しました。なお、この戦いは「北清(ほくしん)事変」と呼ばれています。
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さて、北清事変をきっかけとして、ロシアがドサクサに紛れて満州全域を完全に占領し、我が国への圧力をますます強めるようになりましたが、その一方で、我が国は国際社会から大いに認められるようになりました。
我が国の評価が高まった背景には、日本軍が事変の際に連合軍の先頭に立って勇敢に戦っただけでなく、北京占領後に、他国の軍隊が当然のように略奪(りゃくだつ)や暴行を繰り広げた中で、我が国の軍隊だけが略奪行為を一切行わなかったという事実がありました。
加えて、先述のように、救援軍が到着するまでの間に日本人が中心となって義勇軍を形成し、孤軍奮闘(こぐんふんとう)のうえ持ちこたえられたという現実も、他国に対する我が国の信頼を高めました。
それまでアジアのちっぽけな有色人種の国に過ぎないと思われていた日本が、抜群の規律の正しさや勇敢さを見せたことは、列強諸国をして「日本は同盟相手として信頼に値(あたい)する」と評価せしめるとともに、やがてロシアとの決戦を覚悟することとなる我が国に「強力な援軍」が出現する流れをもたらしたのです。
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一方、イギリスは「名誉ある孤立(Splendid Isolation)」を唱え、他国と同盟を結ばずに独立独歩の道を歩んできましたが、ロシアによる露骨な南下政策が活発化するようになると、東アジアにおける植民地などの自国の権益をどのようにして守るか、ということが大きな課題となりました。
世界に冠たる大英(だいえい)帝国といえども、極東に多数の兵士を配置するまでの余裕はありません。やがてイギリス政府内において、東アジアの権益を守るためには、利害関係のない国との同盟が必要ではないかという声が高まりました。
そんなイギリスの目に留(と)まった国こそが、我が日本でした。先述した北清事変の際に、我が国が数々の「優等生」的な態度を示したことによって、イギリス政府の日本への信頼度が高まったことが大きな効果をもたらしたのです。
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日英同盟の主な内容は以下のとおりでした。
1.清国における両国の権益や、韓国における日本の特別な政治経済上の利益を承認する
2.日英両国の一方が利益保護のために第三国と開戦した場合、もう一方は中立を守る
3.日英両国の一方が2国以上と開戦した場合、他の同盟国も参戦する
両国の同盟は、イギリスはもちろん、我が国にも大きな効果をもたらしました。なぜなら、我が国が仮にロシアと戦うことになった場合、イギリスが中立を守る以上は、他のヨーロッパ諸国もうかつには手を出せませんし、もしロシアと同盟関係にあるフランスなどが戦いに参加すれば、同盟の規定によって、イギリスをも敵に回して戦わなければならなくなるからです。
なお、イギリスと我が国との同盟は日露戦争の終結後も延長され、大正10(1921)年までおよそ20年間も続いています。
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