戦争後に結ばれたポーツマス条約によって、我が国はロシアが持っていた満州の支配権をそのまま受け継いだほか、当時の重要な交通手段であった南満州鉄道(=満鉄)の経営権も得ました。これらは当時の外交によって我が国が得ることのできた、満州における「正当な権益」だったのです。
ロシアとはその後4次にわたって日露協約を結び、お互いの権益を承認しあってきましたが、1917(大正6)年に起きたロシア革命が、我が国と満州との運命を大幅に狂わせることになりました。ソビエト政権は1921(大正10)年に外蒙古(がいもうこ、または「そともうこ」)に軍事侵攻し、傀儡(かいらい)政権である蒙古人民革命政府を樹立したほか、同じ1921年にコミンテルンの指示によって中国共産党が結成されるなど、当時のワシントン体制を尻目に、極東の共産化を着々と進めていました。
こうしたソ連による共産主義の攻勢を最大の脅威と感じたのが、地理的に近接していた他ならぬ我が国でした。多くの血を流した末に正当な手段で手に入れた満州の権益を奪われることは、満州に隣接する当時は日本領の朝鮮半島、ひいては我が国の安全保障において、日露戦争前夜のように最大の危機を迎えてしまうことが分かっていたからです。
※下記の映像は6月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
ロシアにもロシアの背に腹変えられね事情があったのだとは言えども、戦って勝利して得た権益である以上、潔く負けを認め、引き下がるべきが本当だと思いますが、ロシアという国は、漁夫の利を狙う様な攻め方をして来るようで、常に動向を注視していかなければなりませんよね。
満州は、日本の領土
青田です。 黒田先生
青田です。
現在、中国は、『尖閣諸島は、歴史的に中国の領土、
沖縄も中国の領土。』と主張しています。
(日本のかつて、左翼思想の方達も、共同開発して、
曖昧にしたらイイと主張していますが。)
中国の『歴史的には、中国の領土。』という主張が通るなら、
中国東北部(満州)は、日本の領土という主張も通ると思いますが、いかがでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ロシアにもロシアの背に腹変えられね事情があったのだとは言えども、戦って勝利して得た権益である以上、潔く負けを認め、引き下がるべきが本当だと思いますが、ロシアという国は、漁夫の利を狙う様な攻め方をして来るようで、常に動向を注視していかなければなりませんよね。
そのとおりですね。
当時のソ連は君主制の廃止を訴えていましたから、皇室をいただく我が国には非常に恐怖に映っていました。
現在でも油断がならない国であることは言うまでもありません。
青田さんへ
黒田裕樹 良いご提案ですね。
そもそも「中国東北部」という言葉がおかしいんです。
満州は「満州」なのですから。
右翼??
青田です。 黒田先生
青田です。
よく、あの満州事変は、『侵略戦争ではない。』と言うと国内からは、『右翼だ。』周辺諸国からは、
『悪者だ。』と大騒ぎしますが
その程度の発言で、『右翼、悪者。』と言うのなら
現在の中国、19世紀の欧米列強は、600%極右翼で、超侵略国です。
個人的には、
『日本が満州国を現在、残せなくて、現在の中国の膨張を招いた。それが人類の悲劇だ。』くらいのことは、言いたいところです。
青田さんへ
黒田裕樹 > よく、あの満州事変は、『侵略戦争ではない。』と言うと
この件については、後日詳しく紹介します。
ネタバレになるので今回は敢えて言いません。
そんな折の昭和3(1928)年6月、蒋介石(しょうかいせき)率いる国民革命軍は北京に入城して北伐を達成し、また軍閥の張学良(ちょうがくりょう)も参加したために中国の統一が実現して、新たに南京を首都とした国民政府を、アメリカやイギリスなどが承認しました。なお、我が国が国民政府を承認したのは昭和4(1929)年6月のことです。
我が国としては、万里の長城よりも南の大陸を国民政府が支配することには問題なかったのですが、国民政府がかつての清朝時代に締結した条約の廃棄(はいき)を昭和3年7月に宣言し、日本が保持する権益を国民政府が回収して国権を回復するという、近代国家の手法とは思えない政策に乗り出したため、我が国との関係が悪化しました。なお、これらの政策は国権回復運動または革命外交と呼ばれています。
また、国民政府に合流した張学良が満州における主権回復をめざし、国民政府の青天白日旗(せいてんはくじつき)を、それまでの五色旗に替えて満州の主要都市に掲(かか)げました。これを易幟(えきし)といいます。
張学良による易幟は「満州は国民政府(=中国)のものである」と宣言するに等しく、満州に権益を持つ我が国への宣戦布告と同じ意味を持っていました。この後、我が国は満州において高まる排日運動や、在留邦人あるいは満州における権益への度重なる被害に悩まされるようになり、まさに「満蒙(まんもう)の危機」と言えました。
※下記の映像は6月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
中国は今でも他国の領海、領域を全く無視し、
自国のモノだと言い張る悪い癖が有りますよね。
何を根拠にと思いますが、中国の様な考え方の国ばかりが存在したら、それこそこの地球はいづれ生き物が住んでくられない星になってしまいますね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
いつまでも地球が自分中心に回っていると慢心するのはご遠慮願いたいものです。
もっともこれは中国ばかりとは限りませんが…。
しかし、そのような弱腰な姿勢は相手を増長させるばかりとなり、昭和6(1931)年に入ると、我が国の軍人が殺害されるなど、中国側による不法行為が相次いで起きた際に、それらを黙って見過ごそうとした幣原外交の軟弱ぶりに業(ごう)を煮やした、石原莞爾(いしわらかんじ)ら一部の関東軍将校が、昭和6年9月18日に柳条湖(りゅうじょうこ)付近の鉄道線路の爆破事件を起こしました。これを柳条湖事件といいます。
関東軍は自ら起こした柳条湖事件を、張学良軍の仕業として直ちに全面的な軍事行動を起こし、満州事変が始まりました。しかし、事変開始当時の兵力は、関東軍の約14,500人に対して、張学良軍は合計で約265,000人と圧倒的であり、普通に考えれば張学良軍の優勢は動きません。
ところが、かねてより自分たちに乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を続けてきた張学良軍に対する満州の住民の不満は強く、住民の支持を得られなかった張学良軍が各地で敗北を重ねたことで、戦いは関東軍の優位に展開しました。一方、当時の第二次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣や参謀本部は、自分たちに対して何の連絡もせずに勝手に兵を動かした関東軍の行動を牽制(けんせい)して不拡大方針を発表したものの、関東軍はこれを無視して攻撃を続け、事変から半年以内で満州全土を統一しました。
当時の日本国民世論は、関東軍の独断専行が満州の権益を、すなわち我が国の権益を守るものとしてこぞって支持し、そのあおりを受けて昭和6年12月に第二次若槻内閣が総辞職すると、代わって立憲政友会総裁の犬養毅(いぬかいつよし)内閣が成立しました。
※下記の映像は6月15日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 黒田先生
青田です。
現在でも、年配の方で、『満州生まれ』というのを
たまに聞くことがありますが
なぜ、日本人が、この満州に多く住むようになったのかが、あまり、よく、わかりません。
以前、日本のテレビドラマで
『満蒙義勇開拓団として、日本人が多く入植し、
中国を自国の領土として、中国支配しようとした。』というふうに描いているものを観た記憶があります。
これは、捏造だとは思いますが、
この満州(東北部)は、昔から、土地がやせていたはずなのに
単純になぜ、日本人が多く住むようになったのかが、どうも理解できません。
青田さんへ
黒田裕樹 満州からは石炭がとれましたし、昔から我が国が権益を持っていました。
だからこそ、ニューフロンティアとして多くの人々が移住し、わずか十数年でしたが大いに発展したのだと思います。
ぴーち こんばんは!
こういう話を伺っていると、世論の考え方が合致した時の勢いは怖いものが有りますね(^_^;)
こうして、日本の軍事力が次第に支持され、勢いづかせてしまったというのは、結果的に日本国民そのモノだった気がしてしまいました(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こういう話を伺っていると、世論の考え方が合致した時の勢いは怖いものが有りますね(^_^;)
> こうして、日本の軍事力が次第に支持され、勢いづかせてしまったというのは、結果的に日本国民そのモノだった気がしてしまいました(^_^;)
さすがに鋭いですね。
仰るお考えは、この後に再検討することになります。
まずはっきり言えることは、満州事変は侵略戦争ではない、ということです。確かに柳条湖事件が関東軍の自作自演という事実は動きませんが、ではなぜ関東軍はわざわざそんなことをしてまで満州事変を起こしたのでしょうか。
これまで述べてきたように、我が国は国際的な条約によって満州に正当な権益を持っていました。にもかかわらず張学良軍や国民政府が不法行為を繰り返したのに対して、当時の幣原(しではら)外相による協調外交は弱腰でしかなく、日本が何もして来ないと見越した中国側の嫌がらせがますますエスカレートしていきました。
やがて昭和6(1931)年には、先述した中国側による不法行為が相次いで発生し、このままでは満州に在住する日本人の生命や財産が風前の灯となるまで追いつめられていました。だからこそ、満州を守る義務を負っていた関東軍が、もはや政府や陸軍参謀が頼りにならないと覚悟を決めて柳条湖事件を起こし、結果として満州から国民政府軍や張学良軍を追い出すことに成功したのです。
関東軍の行為に対しては賛否両論あるとは思いますが、少なくとも彼らに「中国侵略」の意思がなかったことは明らかであり、むしろ大陸の混乱を鎮(しず)めることで、現地の人々にも喜ばれることを確信して起こした行動だったことは疑いがありません。ということは、満州事変が十五年戦争の始まりであるという解釈が当てはまらないのは言うまでもないことなのです。
※下記の映像は6月15日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 黒田先生
青田です。
このことは、公民の授業でマーマストン宣言を
教えていれば、スグわかることだと思います。
【古のローマ市民が『私はローマ市民である』と言えば侮辱を受けずにすんだように、
イギリス臣民も、彼がたとえどの地にいようとも、
イギリスの全世界を見渡す目と強い腕によって不正と災厄から護られていると確信できるべきである。】
これを当時の先進国の標準とすると
幣原外交が、おかしく、関東軍の行動は
正当だと思います。
おそらく、関東軍の首脳部は、このパーマストン宣言を知っていたと思います。
ぴーち こんばんは!
「事件は会議室で起きているんじゃない!現場で起きているんだ!」(以前にも書かせて頂いたかも知れませんw)
確かに、その現場に居る人間にしか分からない事は沢山あると思います。ましてや(平和で安泰な)遠く離れた異国に居ながら、何が判る事でしょう。(想像すら付かなかったのではないでしょうか)
どんな職場でも、現場を経験したことのない人間が官僚になったりすると、そういう温度差に困惑する部下が少なくないはずですよね。
確かに命令、法律は無くてはならないものでしょうけれど、
(私はこれまで命令は絶対なので、例えそれが理不尽極まりない命令だとしても順守出来ない人間は排除するべき。という考え方をしていましたが)窮地に追い込まれた時には臨機応変な対応は必要だと思います。
勿論、処罰覚悟で自分の起こす行動に何の他意も無いと胸張れる人は尊敬します。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにそうですね。
だからこそ、関東軍は堂々と満州事変を起こしたのかもしれません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 勿論、処罰覚悟で自分の起こす行動に何の他意も無いと胸張れる人は尊敬します。
私もそう思います。だからこそ国民も支持したと考えられますが…。
ところで、張学良による圧政に反発を強めていた満州の各省は、満州事変の勃発(ぼっぱつ)後に相次いで張学良軍からの独立を宣言しましたが、その大半はまだ関東軍が進出していない地域でした。これは、満州事変がそのきっかけではありながらも、関東軍による満州独立の強制が行われなかったという事実を明らかにしています。
満州全土における独立の機運は、やがて昭和7(1932)年3月に、日・朝・満・蒙(もう)・漢の諸民族の協和、すなわち五族協和を理想に掲げて満州国の建国が宣言され、清朝最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)が執政として迎えられました。なお、溥儀はこの2年後に満州国の皇帝に即位します。当時の犬養毅内閣は満州国の承認に消極的でしたが、五・一五事件で犬養内閣が崩壊すると(詳しくは後述します)、次に成立した斎藤実(さいとうまこと)内閣が昭和7年9月に両国間で日満議定書を締結して、満州国を承認しました。
ちなみに日満議定書の主な内容は、満州における日本の権益の承認や、満州国防衛のための日本軍の駐屯(ちゅうとん、軍隊が一定の地にとどまっていること)だけであり、これは満州事変以前と基本的に変わっていません。ちなみに誕生したばかりの満州国には、国家の運営を手助けするために、多数の日本人が要職に就きました。
なお、満州国建国後の昭和8(1933)年5月に日中軍事停戦協定が結ばれて、満州事変が終息しました。この後、日中間においては昭和12(1937)年の盧溝橋(ろこうきょう)事件まで停戦状態が続きます(詳しくは後述します)ので、この事実だけでも、いわゆる「十五年戦争」のウソがはっきりします。
※下記の映像は6月15日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 黒田先生
青田です。
この満州国について、大前提となることを日本人は、知らないと思います。
それは、シナは、日本のような禅譲ではなく、
勝てば官軍の国で、
三国志の時代に人口が10分の1になり、それ以降は、周辺の国からの人口流入(人狩り)で、
人口を保ち、
唐以降は、外国に支配されてきた土地(国ではありません。)だったということです。
唐・隋は、かなり、外国人の支配王朝でしたが、
その後、元(モンゴル)、清(女真人)も外国人はシナを支配した土地でした。
シナの歴史では、別に外国が支配して、王朝を創っても、問題ありません。
しかし、明以降、それ以前のシナの歴史は、断絶してしまい、歴史がありません。
(前の王朝の歴史を書くのが慣習だったのに。。)
極端な話、豊臣秀吉が明を支配して、王朝を創っても問題ないわけです。
今の中国が、文化大革命で、過去を全て、否定してから、日本=悪の支配者のイメージが定着したと思います。
日本の中の親中派の自称『平和主義者』も
シナの歴史を勉強してから、とやかく、騒いで欲しいですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
ただ、自分の脳内で都合よく歴史を改ざんしている人々ですから、何を言っても馬耳東風なのでしょう。
ぴーち こんばんは!
なるほど。
結局、どう日本が正当性を明確にしようとしても
その根源である日本が嫌い。憎い。という
思いがある限り、まともな通史が成り立たない。
そういう印象を強く受けますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
日本のやることがすべて正しいという考えも良くありませんが、その逆もいただけません。
しかも、それを我が国側から主張するというのは…。
シナの歴史は自己申告
青田です。 黒田先生
青田です。
シナの歴史は、自己申告なので、彼らは、改ざんと
思っていないと思います。
シナの歴史の特徴は、最初の皇帝は、英雄で、最後の皇帝は全て、悪者です。
それは、シナの歴史は、新しい王朝が、前の王朝の歴史を書くのが慣習だからです。
当然、今の王朝を正当化するために、その前の王朝を全て悪にします。
そう考えると、日本が大東亜戦争に勝って、現在も満州国があれば、日本=悪には、ならなかったわけです。
逆にいえば、日本が、大東亜戦争に負けて、満州国がなくなり、中華自民共和国を生んだことが、人類の悲劇だと思います。結局、アジアが赤化して、多くの罪のない人々が亡くなったわけですから。。
青田さんへ その2
黒田裕樹 なるほど、確かにそのような見方もありますね。
赤化の件は仰るとおりだと思います。
もし満州国が、我が国の傀儡国家として植民地のような厳しい対応をしていれば、少なくとも執政(後に皇帝)となった溥儀を強引にその座に就かせたはずなのですが、実際には、溥儀は自ら望んで執政や皇帝の地位に就きました。
なぜなら、清朝はもともと満州から中国大陸に進出した国家であり、満州国の建国は、元来の発祥(はっしょう)の地に清朝が復活したことを意味していたからです。だからこそ、溥儀は父祖の故郷である満州への帰還を自ら希望したのであり、言わば満州族の正当な皇帝が故郷に戻っただけなのです。
さらに付け加えれば、万里の長城の北に位置する満州は、それまで歴史的に中国の領土になったことは一度もありません。確かに清朝は満州を自己の領土としましたが、同時にそれは中国が満州に併合されたことを意味していました。
また、満州国の統治者として満州族の本来の皇帝が就任するというアイディアは、民族自決(=各民族が自らの意志によって、その帰属や政治組織、あるいは政治的運命を決定し、他民族や他国家の干渉を認めないとする集団的権利のこと)という意味でも理に適(かな)っており、当時の国際常識からすれば、非常に穏健(おんけん)な方法でした。何しろ他の列強は、1915(大正4)年にアメリカがハイチを侵攻した際に、約20年間も占領し続けたように、明らかな侵略の意図を持っていたのが当然だったからです。
※下記の映像は6月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
日本という国は、俗っぽい言い方をすると
「弄られキャラ」的な存在として見なされて言うのでしょうかね?(^_^;)
何をされても余り怒らない存在と言うのは、
よくイジメの対象としてされがちですものね。
(本当の意味では、芯は強いタイプでしょうけれど)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かにそういう一面がありますよね。
ただし、一度キレれば大変なことになりますが…。
それに満州国は我が国のみが承認したわけではありません。満州の権益を狙っていたアメリカは、満州事変を「九ヵ国条約違反」として我が国を非難しましたが、イギリスは「満州国の独立宣言は九ヵ国条約によって禁じられない」という見解を示し、満州国を事実上容認しました。
なぜなら、満州事変や満州国の建国が、日本人居留民の保護を目的としていたことを、同じように中国大陸に利権を持っていたイギリスが理解していたからです。また、イギリスにとっては、自国の利権を侵害さえしなければ、満州国の存在が対ソ連の防波堤としてかえって好都合であることを見抜いていたと思われます。
しかし、国民政府が柳条湖事件を日本の侵略として国際連盟へ提訴したため、その後に連盟理事会が満州へ調査団を派遣することになり、昭和7(1932)年にイギリスのリットンを団長とするいわゆるリットン調査団が、約5ヵ月にわたって日本や満州・中国など各地を訪問した後、同年10月にリットン報告書を連盟理事会に提出しました。
※下記の映像は6月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
これだけの情況証拠が揃っているにも関わらず、日本が悪者扱いされるという事は、日本政府がキチンと分かるように説明責任を果たして居ないのか。
あるいは、濡れ衣を着せている側の国が全く
耳を貸さない状態なら、そちらの国の態度も
大きな問題では無いかと思われます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、本来であれば現政府が積極的に発言して、我が国の正しい歴史観を取り戻すべきなのです。
いつまで他国に対して卑屈になるつもりなのでしょうか。
宋三姉妹の存在
青田です。 黒田先生
青田です。
私は、満州事変からの日本へのアメリカの嫌がらせ、
日本=悪者のプロパガンダでは、
宋三姉妹がかなり、影響している気がします。
この三姉妹のアメリカでのプロパンダ、ロビー活動は、もの凄かったです。
宋姉妹は、徹底的な日本嫌いで、
しかも、
長女の宋靄齢は、カネを愛しました。
大財閥家の国民政府財政部長を務めた孔祥熙と結婚。ソオドアルーズベルトのパーティーにも参加するほどアメリカに太いパイプがありました。
次女の宋慶齢は、革命家を愛しました。
孫文と結婚しました。
三女の宋美齢は、権力を愛しました。
蒋介石と結婚しました。
ルーズベルト大統領とその妻のエレノアと非常に親密な関係を創りました。
この三姉妹は、徹底的にアメリカで、ロビー活動をしまくり、日本潰しを訴えました。
ただ、それだけのことをするということは、頭も良かったのでしょうが。。
青田さんへ
黒田裕樹 まさに「歴史の陰に女性あり」ですね。
しかし、我が国にとってリットン調査団の主張は到底承認できるものではありませんでした。なぜなら、満州における我が国の軍事行為には日本人居留民の保護という正当な理由がありましたし、またそのために現地の満州族による国家を建国したということは、欧米列強による植民地化に伴う簒奪(さんだつ)行為とは雲泥(うんでい)の差がありました。
加えて満州への進出は、アメリカやイギリスなどがブロック経済と化していく中で、資源を持たない我が国が生き残るための正当な手段であるとともに、広大な満州の権益以外に我が国が頼れるものがないに等しいという深刻な事情もあったのです。
それなのに、欧米列強は自分たちが好き勝手に植民地から収奪しておきながら、我が国による正当かつ人道的な統治行為を一切認めようともしない。これまで我が国は世界の一流国をめざして欧米列強と妥協(だきょう)に妥協を重ねてきたが、これ以上の欧米による身勝手にもはや我が国が付き合う必要はないのではないか。
そんな我が国の思いが、国際的に重大な決断をすることにつながったのです。
※下記の映像は6月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに欧米列強と同じように、目的は自国の安定、反映の為とは言え、その手段や理由には日本と欧米列強とは雲泥の差があるんですね。
何事にも筋道を通そうとする日本。
正当な理由なんて、何のその。
力尽くでも自分の物にしようと手段を選ばない国とは根本的に考えの相違があり、これではついていくことは出来ませんよね。
お金を人から借りたいと思う場合でも、
しっかりと説明し、何度も足を運んでお金の必要性を分かって貰おうと努力する方法なら、
相手の同意を得られるかも知れませんが、
強引に脅しながら、無理やり奪うとなると
恨みを買うこと必須ですしね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。他国を「支配」すると一口に言っても、そのやり方は全く違いましたからね。
「グローバルスタンダード」にもおかしな面がありますから、ついていけないと思えば…。
その後、我が国は昭和9(1934)年12月にワシントン海軍軍縮条約の廃棄を通告し、翌昭和10年12月には第二次ロンドン海軍軍縮会議が開かれたものの意見が合わず、我が国は翌昭和11(1936)年1月に脱退しました。ワシントン海軍軍縮条約並びにロンドン海軍軍縮条約はいずれも昭和11年12月に失効し、以後は無制限の建艦競争が各国で繰り広げられるようになるのです。
ところで、満州の日本人居留民保護を目的として始まった満州事変や、その後の満州国の建国は、欧米列強による侵略行為あるいは植民地化による収奪とは全く性格が異なるものでしたが、それらが出先機関である関東軍の独断で行われ、結果として政府や陸軍参謀の意向を無視するものであったという事実には大きな問題がありました。
関東軍による独断の背景には、いわゆる統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)問題がありました。なぜなら「軍部は内閣の指示を受ける必要がない」という思いが、軍部内における下剋上(げこくじょう)の空気を生み出し、やがては「大義のためなら上官の言うことを聞かなくてもよい」という雰囲気が軍部全体を支配するようになったからです。このため、本来であれば軍令違反で厳罰の対象であった満州事変が起きた際も、軍の首脳部は当事者に対して何も言えず、また政府も軍部に遠慮して強く出られませんでした。
そんな政府や軍首脳の対応を見た一部の青年将校の中から「大義のためなら何をしても許される」という考えが生まれていくのは自然な流れでもありました。この後、我が国は軍部を中心とした様々な事件が発生するとともに、彼らの行動を誰も止められなくなってしまうようになるのです。
※下記の映像は6月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
>「大義のためなら上官の言うことを聞かなくてもよい」という雰囲気が軍部全体を支配するようになったからです。
そこですよね・・
以前、海上保安庁保安部員が政府の方針を無視して
勝手に尖閣諸島沖で中国船と衝突した映像を流出させた事件が有りましたが、確かに彼は世論には英雄視されましたが、ああ言った行動がまかり通るとなると、政府の意向が無視されても良いと言う風潮になり兼ねないのが怖い気がしますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、やむにやまれず…という思いが日常になれば、確かに危険な兆候ですからね。
それを防ぐには、やはり政府の普段からの正当な判断なのでしょう。
上が間違えれば、下もついてはいけません。
満州国の建国にしても、もし政府が主体となって事前に欧米列強を中心に根回しを行い、諸外国の承認のもとに満州国の独立を援助していれば、話は全く異なっていたことでしょう。しかし、現実には後手に回った政府が諸外国に対して軍部の暴走という異常事態を上手に説明できず、列強が「日本は二重政府の国か」と我が国に対する不信感を強める結果となり、それが満州国の不承認、さらには我が国の国際連盟からの脱退にまでつながってしまったのです。
その後の満州国ですが、昭和20(1945)年に我が国が終戦を迎えるまでの十数年間で飛躍的な発展を遂げました。しかし、我が国の敗戦とともに満州国の歴史は闇に葬(ほうむ)られ、現在において、すでに満州語は絶滅し、満州族は地球上から滅亡の危機にさらされているという厳しい現実があります。
政争に明け暮れて国益を見失った政党政治や、国民の生活の現状よりも世界に向けたアピールを優先した金解禁がもたらした昭和恐慌(しょうわきょうこう)、世界中でブロック経済が進む中で取り残されそうになる資源のない国・日本、協調の名のもとに相手になめられ続けるだけだった幣原外相による弱腰外交、さらには統帥権干犯を盾(たて)にした軍部の暴走…。
これらの複雑な背景が重なり合うことによって、満州事変から満州国建国の流れが生まれ、やがて我が国は国際社会の信頼を失うとともに、未曽有(みぞう)の混乱を迎えることになってしまうのですが、それらは少なくとも「侵略戦争」という言葉だけで片付けられるような単純な問題ではないことは明らかなのです。
※下記の映像は6月15日までの掲載分をまとめたものです。





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万里ママ 満州事変、今なお歴史に大きく残る
日本の汚点ですよね・・・。
政治上の的確な判断と外交、
今更ながらとても大事だと痛感します。
万里ママさんへ
黒田裕樹 満州事変はやむにやまれぬ事情があったとはいえ、我が国の外交などに大きな影響を与えました。
平素の心がけが重要ですよね。
ぴーち こんばんは!
関東軍にせよ、活躍をすれば
日本国民はそれをよくぞやったと褒め称えるのに、
国政を担う大臣は、世界と協調出来る人物で
あれと願う。
なんとも矛盾した国民性だなとつくづく思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かにそうですね。
そうさせてしまった原因が何であったのかを真剣に考えなければならないでしょう。
また、大正14(1925)年に成立した普通選挙法によって選挙費用が増大し、政党が財閥(ざいばつ)などからの献金に頼らざるを得ないという事情があったにせよ、「三井と立憲政友会」「三菱と立憲民政党」といった、財閥と政党との結びつきが、政界と財界との癒着(ゆちゃく、好ましくない状態で強く結びつくこと)につながっているという国民の批判が高まっていました。
こうした中で、昭和5(1930)年に浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣が金解禁を断行しましたが、経済活動に詳しい財閥は、金解禁の際にあえて円高に設定した政策が遠からず失敗する可能性が高いとみていました。もし金輸出再禁止となれば、円高に設定されていた円の価値が暴落するため、財閥系の銀行は大量の「円売りドル買い」を実行して、自己の財産を失わないようにしたのです。
財閥の読みは当たり、昭和6(1931)年に犬養毅(いぬかいつよし)内閣が金輸出再禁止を行ったことで、結果として「財閥が為替相場を利用して巨額の富を得た」ことになりましたが、当時の我が国が不況の真っ最中であったことから、日々の生活に苦しんでいた国民の財界への不信を強めました。
財閥が行ったリスクヘッジ(=相場変動などによる損失の危険を回避すること)はもちろん合法的な経済活動であり、現代でも当然のように行われていますが、当時は「世の中が不況で苦しんでいるのに、財閥だけが為替相場で儲(もう)けているのは許せない」という主張がまかり通るようになってしまい、このような社会的な背景が、当時の我が国を震撼(しんかん、人をふるえあがらせること)させたいくつかの「血の粛清(しゅくせい)」を生んでしまうのです。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 黒田先生
青田です。
こういうことを言うと左翼と言われそうですが、
国民が貧しさで、喘いでいる時に
『「世の中が不況で苦しんでいるのに、財閥だけが為替相場で儲(もう)けているのは許せない。』という風潮が起こるのは、感情レベルでは理解できます。
実際に、目の前で観える風景だからです。
これは、この時代だけの話ではありません。
現代でも、格差が広がり、そのことで、共産党に入る若者が増え、共産党が議席数が増えたのも
物語っています。
大事なことは、格差を無理になくした社会が、どんな社会になったのかも、歴史から、学ばないといけないですね。(共産主義の末路)
青田さんへ
黒田裕樹 確かに気持ちは理解できなくはないですが、当時の思想や経済論が未発達だったのが惜しまれますね。
昭和維新という言葉
青田です。 黒田先生
青田です。
私は、昔(20歳の時)、図書館で、その当時の新聞を閲覧したことがありましたが、
アレを観ると、国民の間での不満は仕方ないように思いました。
かなり、過激な内容です。
(現代のように、インターネットがない時代なので仕方ないとは、思いますが、)
しかし、この共産主義思想の恐ろしいことは
『暴力革命』を全面肯定していたことです。
さらに、この当時、『昭和維新』がスローガンになりました。
、『昭和維新』=『明治維新×社会主義思想』とどんどん負の拡大解釈になった気がします。
そうなると、拡大解釈で、歯止めが効きません。
最初は、財閥憎しでも、それがやがて、政治家憎し、マスコミ憎し、知識者憎しへの負の連鎖へと繋がります。
青田さんへ その2
黒田裕樹 まさしくそうですね。
ただ、昭和維新という言葉はいずれ講座で紹介しますので、ネタバレ厳禁でお願いします。
何度も同じことをずっと長いあいだ時間をかけてお願いしていると思いますが…。
ぴーち こんばんは!
この問題は今現在の日本にも通じるお話だなと思いながら読ませて頂きました。
国民感情がこの状況まで追い詰められて居ないのは、親の世代がまだ裕福な家庭が多いために
そこからの援助が多少なりとも有るからだと
思いますが、それも無くなってしまった時には
やはり同じようになってしまう気がします。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
同じことを繰り返すことのないように願いたいものです。
彼らは、我が国が行きづまった原因が、財閥や政党政治の腐敗(ふはい)ぶりにあると断じて、これらを打倒して軍部を中心とする強力な内閣を誕生させ、内外政策の大転換を図ろうと考えましたが、それは同時に、国家社会主義の実現のために自由主義経済を攻撃する生贄(いけにえ)として、財界首脳や政治家などを選び、彼らに「血の粛清」をすることを意味していました。
昭和6(1931)年に入ると、陸軍の幕僚将校(ばくりょうしょうこう、司令部に直属し参謀事務に関与する将校のこと)である橋本欣五郎(はしもときんごろう)を指導者としたほか、陸軍の中堅将校を構成員とした政治結社の桜会が中心となり、民間の思想家である大川周明(おおかわしゅうめい)らも参加して軍部内閣樹立のクーデターを2度も計画しましたが、いずれも事前に発覚して失敗に終わりました。
二つの未遂事件は、起きた時期からそれぞれ三月事件・十月事件と呼ばれていますが、これらの行動によって青年将校や民間団体が大きな刺激を受け、翌年の昭和7(1932)年2月に、金解禁の際に大蔵大臣だった井上準之助(いのうえじゅんのすけ)が、翌3月には三井財閥幹部の団琢磨(だんたくま)がそれぞれ射殺されました。この二つの事件は、実行犯が所属していた団体名から血盟団事件と呼ばれています。
なお、血盟団は日蓮宗の僧侶(そうりょ)である井上日召(いのうえにっしょう)を指導者とし、政党や財閥の関係者を「一人一殺(いちにんいっさつ)主義」で暗殺しようとしました。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
何やら「生贄」やら「一人一殺」などと
血生臭いワードが多く出てきましたね(^_^;)
本来、出家された人の口からは
出る言葉(出してはいけない言葉)では無いだけに、この時代の異様さを
垣間見る事が出来ますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに、僧職にふさわしくない言葉ですね。
当時の異様さが垣間見えると同時に、今の世の中であってはならないことだと強く認識します。
最後は、政治家の決断
青田です。 黒田先生
青田です。
私は、たとえ血の粛清があったとしても
最後は、政治家の決断・決意・覚悟だと思います。
忘れてはいけないのは、
幕末も血の粛清は、薩摩藩、長州藩でもありました。
そして、明治維新後も明治政府の高官の暗殺は
非常に多かったです。
(例、大久保利通、森有礼など)
しかし、それでも明治の先人は、その屍を越えて、
歯を喰いしばって、前に進みました。
不思議に政党政治が定着化してから、政治家が小粒化した気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにそうですね。
血の粛清にもびくともしなかった政治家もいましたが、そうでない政治家が増えていたのが当時の現実でもありました。
こうした「目的達成のためには暗殺などの非常手段も辞さない」という精神はその後も続き、昭和7(1932)年5月15日に、それまでの政治や外交に強い不満を持っていた海軍の青年将校を中心とした一団が首相官邸を襲い、犬養毅首相を射殺しました。この事件は今日では五・一五事件と呼ばれています。
犬養首相の暗殺という非常事態を受けて、後継の首相には元老の西園寺公望(さいおんじきんもち)の推薦によって海軍大将で穏健派の斎藤実(さいとうまこと)が選ばれ、約8年続いた政党内閣は中断を余儀なくされました。
斎藤内閣は立憲政友会や立憲民政党からも閣僚を迎え、いわゆる挙国一致内閣をめざしたことで世論の支持を集めました。また、その後を継いだ岡田啓介(おかだけいすけ)も同じく穏健派の海軍大将の出身でした。
三月事件・十月事件から血盟団事件、さらには五・一五事件と続いた一連のテロリズムは為政者や財界を震え上がらせましたが、海軍の穏健派の重鎮を次々と首相に選んだことによって、表向きは動揺が収まったように見えました。しかし、その裏では国家社会主義思想が軍部を中心に確実に浸透(しんとう)し、やがては我が国全体を巻き込んだ前代未聞の大事件が起きてしまうのです。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど!
臭いものに蓋をしただけの政策では
一時的には治まるものの、
内部では濃度が高まり、いつ爆発するか
分からない状態に陥ってしまったわけですね。
更に大きな揉め事とは何だったのでしょうか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、本質的には何も変わっていませんからね…。
だからこそ、暴発した際の恐ろしさが凄まじいのです。
国家社会主義は、当時の「エリート中のエリート」でありながらも決して裕福ではなかった若手の青年将校たちが、それゆえに富裕層である地主や資本家あるいは財閥に対してやるせない怒りを向けるとともに、彼らと癒着(ゆちゃく)している(と思い込んでいた)政党政治をも敵視したことによって、大きな広がりを見せるようになりました。
我が国における国家社会主義の拡大は、やがて陸軍内に皇道派と統制派という二つの大きなグループをもたらしました。このうち皇道派が荒木貞夫(あらきさだお)や真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)などを中心として、直接行動で既成の支配層を打倒することによって国家体制の転換を狙った一方、永田鉄山(ながたてつざん)や東條英機(とうじょうひでき)らを中心とした統制派は、革新官僚と結んで合法的に総力戦という名の社会主義体制を実現しようとしていました。
昭和10(1935)年には、統制派の永田鉄山が陸軍省内で執務中に皇道派の陸軍中佐に殺害されるなど、両派は激しい派閥争いを繰り広げていましたが、その一方で「天皇の名によって議会を停止し、私有財産を国有化して社会主義的政策を実行する」という目的は両派共通のものでした。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
日本における社会主義とは、やはり天皇を中心に・・という理念は共通課題だったわけですね。
そのような日本独自の考えに基づく
社会主義理論が存在しても良い気がしますが、そういうわけにも行かないのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 国家社会主義の本質は、天皇の存在をスターリンやヒトラーのに置き換えれば、共産主義の思想そのままであったことが大きな問題でした。
ただ、ソ連の失敗という教訓を知っている現代ならともかく、共産主義に幻想を抱いていた当時は…。
これを岡田内閣打倒の好機と見た政友会が、昭和11(1936)年1月に内閣不信任案を帝国議会に提出したのに対し、岡田内閣は衆議院を解散して総選挙に打って出ましたが、同年2月20日に行われた投票結果は、政権与党である立憲民政党の勝利に終わり、政友会は惨敗しました。与党の躍進(やくしん)という結果を受け、岡田内閣の政権基盤は安定化すると思われましたが、選挙結果に衝撃を受けた皇道派による「直接行動」によって、選挙からわずか6日後に、我が国史上稀(まれ)に見る惨劇が起きてしまうのです。
昭和11年2月26日未明、皇道派の一部青年将校が「昭和維新」を目標として第一師団などの兵約1,400名を率いて決起し、首相の岡田啓介や大蔵大臣で元首相の高橋是清、内大臣で同じく元首相の斎藤実、侍従長(=天皇・皇后の側近として仕える侍従の長官)の鈴木貫太郎(すずきかんたろう)らを襲撃しました。
岡田首相は危うく難を逃れましたが(ただし、当時は死亡と伝えられました)、高橋蔵相や斎藤内大臣は殺害され、鈴木侍従長は重傷を負いました。その後、勢いに乗った将校たちは国会を含む国政の心臓部を4日間にわたって占拠しましたが、このクーデターは今日では二・二六事件と呼ばれています。
前代未聞の大事件を受け、将校たちに同情する姿勢を見せた陸軍首脳部は、彼らの意図を認めるか否(いな)かで動揺しましたが、ご自身にとってかけがえのない「股肱(ここう、最も頼りになるという意味)の臣」を失われた昭和天皇は激怒され、当時は岡田首相が死亡したと伝えられたことで内閣不在の緊急事態ということもあり、自らのご意志で事件の解決に乗り出されました。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
この頃の若者は政治に対して関心が高く
行動力も決断力もあったので、これ程までの
事件に発展してしまったのでしょうね。
現代の若者は、政治に対してここまでの反発心が無い代わりに、政治にも無関心で
投票にも出向こうとしない。
関心が高すぎても、危ぶまれるし、
無さ過ぎても、今度は未来的に不安を感じる。
なかなか程よい状態を保つ事は難しいものですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに仰るとおりですね。
政治の関心の高さが仇にならないためにも、よりいっそうの「国民を幸福にする政治」が求められますが…。
私の勘違い
青田です。 黒田先生
青田です。
私が、20代の時、この『226事件』を美化する映画が多く、創られ、
私も、今より、無知で、アホだったので、
友人に
『あの事件を起こした青年将校は、カッコイイな。』というと
その友人は、私に、
『あいつらは、アホや。有能な人材であった高橋是清を殺し、鈴木貫太郎を殺そうとした。』と
言われました。
この年になり、その友人の言う意味がよくわかります。
ただ、言い訳になりますが、
『226事件』をテーマにした映画は
青年将校=正義の味方、殺された政治家=私腹を肥やす悪者。
というストーリーで描かれます。
見事に洗脳された馬鹿な私でした。(苦笑)
戦前=悪のイメージ
青田です。 黒田先生
青田です。
戦前=オール悪のイメージですが、
これは、GHQの洗脳だけでない気がします。
というのも、
私の父親は、昭和7年生まれ、母親は、昭和12年生まれです。
昭和11年に226事件が起きていますから、私の両親は、幼い時にこういう国内の軍の暴走を観て育って世代です。
団塊世代だけが洗脳教育を受けたと思われていますが、この時期に生まれた世代もあまり、戦前の日本にいいイメージを持っていない気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 必要以上の美化は、かえって今の国民に誤解を与えますからね。
事実を淡々と紹介することが重要だと思います。
戦前生まれの人々は、昭和20年を境に価値観から何からすべてが変わってしまったので、大変ではなかったかと思います。
なお、二・二六事件をきっかけとして陸軍内部で皇道派はその力を失い、統制派が主導権を握ることになったのですが、クーデターによる「血の粛清」の爪痕(つめあと)は想像以上に大きく、この後は統制派の意思が陸軍の意思、ひいては我が国全体の意思として大きな影響を持つようになるのです。
二・二六事件によって岡田内閣は総辞職し、かわって広田弘毅(ひろたこうき)が首相となって新たな内閣を組織しました。挙国一致内閣として成立した広田内閣でしたが、陸軍の主導権を握った統制派の影響は避けられず、その目標に経済の国家統制強化をめざした「広義国防国家」を掲げました。
また、陸軍の強い要求を受けた広田内閣が、廃止されていた軍部大臣現役武官制を復活させたため、軍部の政治に対する影響力をさらに強めることになってしまいましたが、このことが大東亜戦争後に開かれた極東国際軍事裁判(=東京裁判)において、文官でただ一人A級戦犯にされて死刑となった理由の一つではないかといわれています。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんにちは!
民衆の怒りが留まる所を知らずに
大きく拡大し、それを押しとどめようとしても
何の効力も発揮せずに、押し流されてしまう
時が有りますよね。
いくらその流れを変えようと頑張ってみても
多勢に無勢。
勢いに身を任せる他為す術が無いものですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
だからこそ、国民の真の幸福を追求した政治が求められています。
対立が多すぎます。
青田です。 黒田先生
青田です。
この当時の対立軸が多すぎますね。
対外的には
●日本vsアメリカ、シナ
国内的には、
● 政党間対立。
● 政府 vs 軍。
● 陸軍 vs 海軍。
● 陸軍の皇道派vs統帥派。
それにしても、国外は、ともかく、国内で
なぜ、ココまで、バラバラになったのかと不思議に思います。
いつの時代でも、内部抗争は、国力を弱体化させますね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに多すぎますね。
こうなった原因は一体なんだったのでしょうか…。
最終的に利益を得た国家や人物などを疑うべきかもしれませんが。
その一方で、満州のさらなる防衛強化のためには、華北を日本の影響下に置いた方が良いと関東軍が考えていたことから、昭和10(1935)年に冀東(きとう)防共自治政府が樹立されるなど、いわゆる華北分離工作が進められました。なお、日本政府は昭和11(1936)年1月に「第一次北支処理要綱」を閣議決定していますが、これは華北分離工作を国策としたものと解釈されているようです。
国民政府との激しい勢力争いを続けていた中国共産党は、事態を打開するために抗日救国運動を提唱し始めましたが、これはヨーロッパにおいてソ連が支援した人民戦線運動(人民戦線とは自由主義から無政府主義まで幅広く結集した組織のこと)と同じ性格を持っていました。なぜなら、抗日救国運動や人民戦線運動は救国のためとか、あるいは世界の人民と連携して行動するといった建前ばかりではなく、各国でナショナリズムをあおることによって、共産主義への敵対心を緩和させることが本当の目的だったからです。
中国共産党が提唱した抗日救国運動は、1935年から1936年にかけて数多くの在留日本人が殺されるなどのテロ事件を起こしましたが、その間に共産党が山西省(さんせいしょう)に侵入するなど勢力の拡大をもたらしたため、国民政府の蒋介石(しょうかいせき)は中国共産党に対する本格的な掃討作戦を開始しました。
蒋介石の動きに対し、中国共産党は陝西省(せんせいしょう)の延安(えんあん)にまで追いつめられましたが、ここで起死回生の事件を起こすことによって、共産党の勢力が回復するとともに、国民政府や我が国に対して深刻な影響を与えてしまったのです。
※下記の映像は7月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
日本と中国共産党と、中国政府との
三つ巴の戦いが繰り広げられたわけですね。
その後の結果が気になります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > その後の結果が気になります。
今回は途中経過で終わりますが、そこだけでも相当なストレスになるかもしれません。
いずれにせよ、およそ人間の所業とは思えない行為を平気でやる民族も存在する、ということですね…。
張学良がなぜ中国共産党に寝返ったのかは諸説ありますが、いずれにせよ西安事件によって、蒋介石は共産党との内戦を中止して抗日へと方針を転換することになりました。
なお、1937(昭和12)年9月に国民政府は正式に中国共産党との内戦停止と抗日民族統一戦線の形成に踏み切りましたが、これらの動きは今日では第二次国共合作といわれています。
西安事件をきっかけとして、中国大陸では国民党と共産党との内戦が中止され、彼らの牙(きば)が一斉に我が国に向けられることになるのですが、当時の日本政府がどこまで事態の深刻さを理解していたかは分かりません。
ただ、我が国で共産主義に共鳴し、ソ連のスパイであった尾崎秀実(おざきほつみ)をブレーンとした第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣が誕生した直後に、まるでそれを待っていたかのように「ある出来事」が起きてしまったという、偶然とは思えない歴史的事実があったことだけは間違いありません。
※下記の映像は7月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私が内容をよく理解して居ないのかも
知れませんが、
国民党と共産党の内戦が終息した際に
どうして日本へ一斉に牙をむく事態になってしまったのでしょうか?
やはり外国は敵であるという考えの元からなのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 国民党と共産党が内戦状態となれば、中国の国内で戦闘が行われるため、日本は直接関係ありません。
しかし、国共合作が実現すれば、内戦が終結して両党のエネルギーが一斉に我が国に向けられることになるからです。
しかも、日中の争いのうち、中国側はほとんどが国民党でした。国民党が戦っている間に共産党が力を蓄えたことで、戦後に再び起きた内戦で共産党が勝利し、中華人民共和国が誕生する流れをもたらしたのです。
昭和12(1937)年7月7日午後10時40分頃、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)付近に駐屯していた日本軍が演習を終えた時、何者かが軍に向けて発砲しました。日本軍の周囲には国民政府軍が駐屯していたので、彼らの仕業ではないかと思った日本軍は軍使を派遣しました。
ところが、翌8日の深夜3時25分頃に再び日本軍に向けた発砲事件が起きたため、さすがにこの時は日本軍も戦闘態勢に入りましたが、事件の拡大を恐れて直前で攻撃を中止しました。
すると、今度は日本軍が攻撃してこないと高をくくったのか、明け方の5時30分頃に国民政府軍が本格的な銃撃を浴びせてきたため、ついに日本軍も反撃を開始しましたが、最初の発砲からすでに約7時間も経過していました。
以上が盧溝橋事件の真相です。
※下記の映像は7月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
>最初の発砲からすでに約7時間も経過していました。
日本ってそういう所が有りますよね。
慎重なのは良いですが、どうもいつも一歩出遅れて
誤解される場面が多い様な(^_^;)
まあ、今回の場合は日本の汚名返上の為の誤解解きのお話なのでしょうけれど。
それにしても、今回の米国オバマ氏に関してもそうですが、アメリカが何も仕掛けて来ないと
言う思惑が広がると途端に中国はアメリカが攻めて来ない事を良いことに好き勝手し放題する。
昔からその傾向は続いて来ているんですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > まあ、今回の場合は日本の汚名返上の為の誤解解きのお話なのでしょうけれど。
今回はそのとおりですが、日本人には確かに誤解を招く行動が多いですね…。
> それにしても、今回の米国オバマ氏に関してもそうですが、アメリカが何も仕掛けて来ないと
> 言う思惑が広がると途端に中国はアメリカが攻めて来ない事を良いことに好き勝手し放題する。
> 昔からその傾向は続いて来ているんですね。
そのとおりです。
だからこそ、自衛隊などのような抑止力が必要なんです。
それに、発砲を受けた部隊はその直前まで夜間演習を続けていましたが、誤射事故を避けるために実弾を使用しておらず、鉄カブトさえかぶっていませんでした。
また事件勃発(ぼっぱつ)後の日本軍は、事態の拡大を恐れてできるだけ早く収拾しようと努め、8日には陸軍や外務省が不拡大の方針を決定したほか、現地においても9日午前2時に現場での停戦協議が成立し、事件から4日後の11日には早くも停戦協定が成立しました。なお、このときに我が国では盧溝橋事件のことを「北支事変」と命名しています。
ところが我が国の意に反して中国との衝突はこの後ますます激化し、ついには戦線が大陸全土にまで及んでしまうのです。なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。
当時は不明だったこれらの理由ですが、今では明らかになっています。実は、盧溝橋事件は中国共産党が仕掛けた罠(わな)だったのです。
※下記の映像は7月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
罠を仕掛けようとする人間にかかれば
どんな微かな反応であれ、(例え偶発的であれ)それが立派な証拠と
見なして事を大げさにしようとするものですね。
理不尽な事ばかり言う人間に正論で正そうとしても
聞く耳も持たれないばかりか、ここぞとばかりに攻め込んでくる姿勢に情けなさを感じますし
また、悔しくも有ります(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 全くそのとおりですね。
国際社会を生き抜くには、時には正攻法以外の方が良いのかもしれません。
実際に盧溝橋における国民政府軍に共産党のスパイが紛(まぎ)れ込んでいて、彼らが日本軍に向けて発砲したことが中国側の資料から明らかになっていますし、また日本軍側でも盧溝橋事件の直後に中国共産党司令部に向けて「成功せり」という緊急電報が打たれたのを傍受(ぼうじゅ)したという証言が出されています。
なお、第二次世界大戦後に開かれた極東国際軍事裁判(=東京裁判)では盧溝橋事件の審査も進められましたが、なぜか途中で中止されています。おそらくは中国共産党の陰謀と分かったことで、裁判の進行に都合が悪いと判断されたと考えられています。
また、盧溝橋事件の真相が明らかになるにつれて、最近では「そもそもそんなところに日本軍がいたから悪いのだ」という意見のすり替えが平然と行われているようですが、日本軍が北京郊外の盧溝橋付近に駐留していたのは、先述のとおり北清事変後の北京議定書によって認められていたからであり、日米安全保障条約によって現在の我が国にアメリカ軍が駐留しているのと同じ理屈です。
※下記の映像は7月3日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 黒田先生
青田です。
中国共産党軍の作戦は、日本人的な気質からは
卑怯と思うかもしれませんが、
孫氏の兵法では、戦いの常道です。
孫氏の兵法の大前提は
① 戦いとは、敵を騙すこと。
② 長期戦は避けるべし。
→ 勝てない場合は、偽りの和平を結ぶべし。
③ スパイの徹底活用。
④ 離間の策。(内部分裂を誘導する。)
→これは、明石元次郎は、ロシアで行いました。
⑤ 漁夫の利。
これを、感情論だけで、卑怯というのは、勝手ですが、かつのて、日本の戦国時代では、これは、定石でした。
(例、毛利元就、武田信玄など)
明治時代に、西洋の知識を吸収し、国際法を順守するのは、素晴らしいとは、思いますが、戦いとは、武器の性能だけでは、決まりません。
大事なのは、今の日本人が、国際社会のパワーゲームでは、生き残れません。
戦いとは、騙しあいだと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 全くその通りですね。
当時の日本人は、戦国時代のことを忘れていたのかもしれません。
ぴーち こんばんは!
正攻法で攻めても、相手がひとつも怯むことなく
むしろ、後から後から色々な条件を付けて
問題をすり替えようとするのは、相手の言っていることが、根本的に歪んでいる、つまり間違っているという証なのでしょうね。
よく言われている事ですが、テニスの試合などで
いかに相手が球を取りにくい場所にボールを落としてやるかで勝敗が決まると言われていますが、
スポーツで勝利するという事は、どんな手段を使ってでも相手を負かしてやるという気持ちで挑まなければいけないものですものね。
直球が好きな私の好みでは有りませんがww
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も好みではありません(笑)。
…とはいえ、国際社会で生きていくには、当時も含めて中国共産党のようなしたたかさが必要なんですよね。
毛沢東の能力
青田です。 黒田先生
青田です。
毛沢東は、(完全なサイコパスで、人類で一番、人を殺した人間。)ですが、
『戦争は、手段であって、目的ではない。』は、知っていました。
彼は、
思想的には、共産主義者ではなく、実は愛読書は
『韓非子』でした。
この『韓非子』は、秦の始皇帝が愛読したほどの
徹底的に人間を性悪説を説いています。
戦い方は、孫氏の兵法を活用しています。
わかりやすく、説明すると
日本(性善説)vs 毛沢東が指揮する共産党(性悪説)
日本(武器の性能で勝敗が決まると思っている。)vs毛沢東の指揮する共産党(戦いとは騙し合い。)
この構図は
なぜか、今も変わってない気がします。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かに変わっていないですね。
いい加減、お人よしを何とかすべきですが…。
こうすべきだった
青田です。 黒田先生
青田です。
個人的には、二枚舌で、中国国民党と共産党を戦わせて、日本こそ、漁夫の利を得るべきでした。
(シナ人は、自分勝手主義で、愛国心はないので、目先の利益には、弱いです。)
そして、北進して、ソ連のシベリア旅団を足止めさせます。
さらに、日英同盟の復活を強く、望んでいたチェンバレン首相の時に、日英同盟を復活させて、
アメリカには、中国の権益の一部を分割させ、
超反日の民主党の大統領であるルーズベルトに
たいして、ユダヤ人にロビー活動を頼んでおけば、
少なくとも、300万人の日本人の同胞がなくなることは、なかったと思います。
青田さんへ その3
黒田裕樹 今となってはどうしようもないですが、確かにそうすべきでしたね。
我が国の今後のためにも、反省点を活かすべきでしょう。