そんな折の慶長(けいちょう)5(1600)年、オランダ船のリーフデ号が豊後(ぶんご、現在の大分県の大部分)に漂着(ひょうちゃく、ただよい流れて岸に着くこと)した際に、豊臣秀吉(とよとみひでよし)にかわって天下統一をめざしていた徳川家康(とくがわいえやす)は、リーフデ号の航海士であるオランダ人のヤン=ヨーステンと、イギリス人の水先案内人(=波や水深など湾や港特有の専門知識を持ち、出入りする船に乗り込んで安全に航行させる職種のこと)であるウィリアム=アダムスを江戸に招き、彼らを外交や貿易の顧問(こもん)として、両国との貿易をめざしました。
つまり、江戸時代の初期において、家康は外国との貿易を積極的に行おうとしていたのです。ちなみにウィリアム=アダムスは日本名で三浦按針(みうらあんじん)、ヤン=ヨーステンは耶楊子(やようす)となり、ヤン=ヨーステンが家康から与えられていた屋敷の場所は、彼の名前から、現在の「八重洲(やえす)」と呼ばれるようになりました。
イギリスは1600年、オランダは1602年とほぼ同時期に東インド会社を設立し、東アジアに進出して東洋での貿易に乗り出しました。また両国は、カトリックではなくプロテスタントであったことや、イギリス人やオランダ人が紅毛人(こうもうじん)と呼ばれていたという共通点がありました。
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家康はイスパニアとの交易にも積極的で、慶長14(1609)年に上総(かずさ、現在の千葉県の一部)に漂着した、ルソンの前総督ドン=ロドリゴを翌慶長15(1610)年に船で送還する際に、京都の商人であった田中勝介(たなかしょうすけ)らを同行させ、イスパニア領ノヴィスパン(=メキシコ)との通商を求めました。
また、仙台藩主の伊達政宗(だてまさむね)は、慶長18(1613)年に家臣の支倉常長(はせくらつねなが)をイスパニアに派遣(はけん)して、ノヴィスパンで直接交易を開こうとしましたが、いずれも目的を果たすことができませんでした。
なお、支倉常長の使節団は、当時の年号から「慶長遣欧(けんおう)使節」と呼ばれています。また、田中勝介は後に帰国を果たし、太平洋を横断した最初の日本人とされています。
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当時の貿易の主な輸入品は、チャイナで生産された生糸(きいと)でしたが、マカオを拠点(きょてん)とするポルトガル商人が、生糸を長崎に持ち込んで巨利を得ていました。この事態を重く見た幕府は、慶長9(1604)年に「糸割符(いとわっぷ)制度」を設けて、糸割符仲間と呼ばれた京都・堺・長崎・江戸・大坂の五ヵ所商人に一括して購入させることで、生糸の価格を抑制(よくせい)しました。
ちなみに、輸出品は石見(いわみ)銀山や生野(いくの)銀山などから、当時の我が国で豊富に産出していた銀が中心でした。なお、当時の我が国の銀の輸出高は、世界の銀の産出高の3分の1にも及びました。
朱印船貿易が盛んになると、海外に移住する日本人も増加し、東南アジアの各地で、数百人から数千人の日本人が日本町(にほんまち)をつくりました。また日本人の中には、山田長政(やまだながまさ)のように、アユタヤ朝(現在のタイ)の王室に重く用いられ、後に六昆(りくこん、別名をリゴール)の太守にまで出世した者も現れました。
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理由の第1は、キリスト教(=カトリック)の問題でした。幕府は始めのうちはカトリックを黙認していましたが、一神教(いっしんきょう)であるキリスト教の性質から、仏教や儒教(じゅきょう)との対立が深刻化しており、キリシタンと呼ばれた信者たちが団結して、幕府に反抗する可能性もありました。
しかし、何よりも問題視されたのは、カトリックによる布教が、秀吉の時代から続いていた「我が国侵略の野望」と結びついていたことでした。また、同じキリスト教でも、プロテスタントを信仰していたイギリスやオランダが、自国の貿易の利益を守るために、カトリックに潜(ひそ)む領土的野心を幕府に警告していたのも大きく影響しました。
幕府は慶長17(1612)年に直轄領(ちょっかつりょう)を対象として禁教令を出すと、翌慶長18(1613)年には全国に拡大し、高山右近(たかやまうこん)らの信徒を国外へ追放するなど、カトリックへの弾圧(だんあつ)を本格的に開始しました。
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外国から「輸入する」ということは、その商品が我が国では手に入らなかったり、手に入ったとしても非常に高価だったりするのが普通です。と言うことは、輸入によって仕入れた商品は、相手がどんなに高価でも手に入れようとしたり、あるいは安く大量に手に入れたりすることによっても、結果的に大儲けにつながるというわけです。もちろん「輸出」の場合も理論的には同じです。
当時の貿易は、幕府だけではなく西国の大名も行っていました。大名が「おいしい」貿易を行って、その利益で強大な経済力と軍事力を持つことによって、幕府に反逆するようになることを恐れたのです。
元和(げんな)2(1616)年、幕府はチャイナの船を除く外国船の寄港地を平戸と長崎に限定すると、寛永(かんえい)元(1624)年には宣教師(せんきょうし)の活動と関係が深かった、イスパニア船の来航を禁止しました。なお、その前の元和9(1623)年には、イギリスがオランダとの競争に敗れ、商館を閉じて撤退(てったい)していました。
さらに寛永10(1633)年には、従来の朱印状の他に「老中奉書(ろうじゅうほうしょ)」という許可状を受けた「奉書船」以外の日本商船の海外渡航を禁止し、寛永12(1635)年には、日本人の海外渡航や在外日本人の帰国を全面的に禁止しました。また、この間にチャイナの船の寄港を長崎に限定したほか、長崎に出島(でじま)を築いてポルトガル人を移動させ、日本人との接触(せっしょく)を制限しました。
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その後、有馬氏が日向(ひゅうが、現在の宮崎県)の延岡(のべおか)に領地替えとなり、幕府直轄の天領を経て、松倉氏(まつくらし)が新たに藩主となりました。
新たに藩主となった松倉勝家(まつくらかついえ)は、幕府に認められたいという意思があったのか、キリシタンへの厳しい弾圧を開始し、同時に農民への過酷(かこく)な年貢(ねんぐ)の取り立てを行いました。キリシタンから改宗しない者が雲仙岳(うんぜんだけ)の火口に放り込まれたり、年貢を納められない農民が蓑(みの)でしばりあげられ、生きたまま火を付けられるという、「蓑踊り」と呼ばれた拷問(ごうもん)を加えられたりしました。
また、同じくキリシタン大名だった小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原の戦いで処刑された後に、唐津藩(からつはん)が領有していた肥後(ひご、現在の熊本県)の天草(あまくさ)においても、藩主の寺沢堅高(てらざわかたたか)による農民への圧政とキリシタンに対する弾圧が続いており、島原や天草のキリシタンや農民たちは、日々追いつめられていきました。
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これに対し、幕府は板倉重昌(いたくらしげまさ)を島原へ派遣しましたが上手くいかず、板倉は翌寛永15(1638)年の旧暦元日に総攻撃をかけた後に討死しました。幕府は老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)を新たに派遣して、12万以上の軍勢で、陸と海から原城を取り囲みました。
信綱は、オランダに頼んで大砲を原城めがけて砲撃しましたが、外国人の助けを借りることへの批判が高まって、すぐに中止されました。しかし、原城に立てこもった一揆勢にとっては、頼りにしていたキリスト教(=カトリック)のポルトガルからの救援が来ないどころか、プロテスタントのオランダが攻撃を仕掛けてきたことで、心理的に大きな影響を与えたのではないかと考えられています。
さて、先の総攻撃で、板倉など4,000人以上の死傷者を出した幕府側は、一揆勢に対して兵糧攻めの作戦に出ました。長引く戦いで兵糧や弾薬が尽きた一揆勢は、次第に苦しくなりました。
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しかし、信綱の動きを察した肥前藩(=佐賀藩)の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が抜け駆(が)けをしたために、一日総攻撃が早まっただけでなく、指揮系統が乱れたことで幕府軍は混乱し、死者1,000人以上、負傷者を合わせれば1万人を超える被害を出してしまいました。
一方の一揆勢も壊滅(かいめつ)状態となって、天草四郎が討ち取られるなど、ほとんどが殺害されました。こうして島原の乱はようやく鎮圧されましたが、幕府が受けたダメージはかなり大きなものがありました。
なお、乱後に松倉勝家は領地を没収されただけでなく、大名としては異例の斬首刑に処せられ、寺沢堅高は唐津藩の領地のうち天草領を没収されると、ショックを受けたのか後に自害して、寺沢家は御家断絶になりました。また、抜け駆けした鍋島勝茂も罰を受けています。
大名への斬首刑など厳しい処罰を行ったということは、それだけ幕府が島原の乱が起きたことに大きな衝撃を受けていたということであり、この後、幕府はますますキリスト教(=カトリック)への弾圧を強めることになりました。
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この結果、我が国と貿易などの交渉を行ったのは、同じキリスト教でもプロテスタントを信仰し、我が国でキリスト教の布教をしないと約束したオランダと、同じ東アジアの国で、キリスト教とは無関係のチャイナ・朝鮮・琉球(りゅうきゅう)のみとなり、厳しい統制下による制限貿易の様子が、まるで国を閉ざしたように見えることから、後に「鎖国(さこく)」と呼ばれるようになったのです。
なお、幕府によるキリスト教への弾圧はその後も続けられ、寛文(かんぶん)4(1664)年に「寺請(てらうけ)制度」を設けて、民衆が信仰する宗教の調査のために「宗門(しゅうもん)改め」を実施し、すべての国民を寺院の檀徒(だんと)として、宗旨人別帳(しゅうしにんべつちょう)に登録させました。
寺請制度によって、全国民が在住する周辺の寺院の檀家(だんか)として、寺院への参詣や父祖の法要、あるいは付け届けを義務付けられ、これらに応じなければキリシタンとみなされるようになってしまいました。
この他にも、キリストやマリアの聖画像などを踏ませる「絵踏(えぶみ)」を行ったり、キリシタンの密告を奨励(しょうれい)したりするなどの政策を行いました。
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最初に考えられるのは、鎖国の状態に入った頃の我が国は戦国時代が終わったばかりで、数十万の兵士や鉄砲が存在していたことでした。これだけの兵力や武器を所有している国は、当時は他になく、ヨーロッパ諸国といえどもそう簡単には攻められません。
また、この頃はヨーロッパ諸国において大きな変化があり、それまでのイスパニアやポルトガルの国力が衰える一方で、新たにイギリスやオランダが勢力を伸ばしつつありましたが、両国はプロテスタントを信仰しており、カトリックと違って領土的野心を持っていなかったことも、我が国には良い結果をもたらしました。
さらには、当時の我が国が、鉄砲の増産を可能とするなど先進的な文化を持っており、海外との結びつきがなくても、自国だけで十分に経済や文化が発展できたことや、島国であるがゆえに、海という「天然の防壁」が、我が国の防衛力を高めていたことも考えられます。
しかしながら、これは同時に、もし当時の我が国にとって「長所」となっていた様々な利点が失われてしまえば、一転して我が国は苦しい立場に追い込まれてしまうことも意味しました。そして、その不安は、約200年後に現実のものとなってしまうのです。
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幕府は長崎を窓口として、チャイナで生産された生糸や砂糖、あるいは欧州産の毛織物などの様々な貿易品をオランダから輸入するとともに、オランダ船が入港する度に、商館長(=カピタン)が長崎奉行を通じて提出した「オランダ風説書(ふうせつがき)」によって、幕府が独占的に海外の情報を得ました。
また、この頃までにチャイナで漢民族の明(みん)が滅び、満州(まんしゅう)民族が清(しん)を建国すると、清国の私貿易船が我が国に来航するようになり、貿易額は年々増加しました。当時の我が国は貿易の代金を金銀で支払っていましたが、貿易額の増加が大量の金銀の流出をもたらしたため、幕府は貞享(じょうきょう)2(1685)年にオランダや清国からの輸入額を制限し、元禄(げんろく)元(1688)年には清国船の来航を年間70隻(せき)に限定しました。
また同じ元禄元(1688)年には、密貿易を防止する目的で、それまで長崎領内で自由に雑居していた清国人の居住地を限定するために唐人屋敷(とうじんやしき)の建設を開始し、翌元禄2(1689)年に完成しました。
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家康から日朝の交渉を任された対馬(つしま)藩主の宗氏(そうし)によって、慶長12(1607)年に朝鮮使節が我が国に来訪し、慶長14(1609)年には朝鮮との間に「己酉約条(きゆうやくじょう)」が結ばれました。
日朝貿易は宗氏に独占権が与えられ、貿易がもたらした利潤(りじゅん)によって、宗氏は家臣との主従関係を結びました。領地の対馬が耕地に恵まれなかったこともあり、日朝貿易は対馬藩にとって文字どおり生命線だったのです。
寛永12(1635)年、幕府は日朝貿易を監視するために京都五山(ござん)の僧を対馬に派遣しました。貿易は朝鮮が釜山(プサン)に設置した倭館(わかん)で盛んに行われましたが、金銀の流出を防ぐ目的で、オランダや清国と同様に、貞享3(1686)年には幕府によって対馬藩の貿易額が制限されました。
なお、朝鮮からの使節は、その後も幕府の将軍の代替わりの慶賀(けいが)を名目に続けられ、「朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)」と呼ばれました。
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薩摩藩は琉球を属領としながらも、表向きは独立国として、当初は明、後には清を宗主国(そうしゅこく)とする朝貢(ちょうこう)関係を続けさせるとともに、チャイナとの貿易で得た物資や、琉球産の黒砂糖を薩摩へ納めさせました。
また、琉球は徳川将軍の代替わりごとに慶賀使(けいがし)を、琉球王の代替わりごとに謝恩使(しゃおんし)をそれぞれ幕府に派遣しましたが、これらはいずれも薩摩藩の指導によって、異国風の服装や髪型、あるいは旗や楽器を用いることで、琉球人を異民族のように振る舞わせる形式でした。
なお、薩摩藩によって、琉球とチャイナとの貿易はその後も続けられ、藩の貴重な財源となったほか、後には、貿易による輸入品を薩摩藩が長崎で売却するようになりました。
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それまでの自由な取引から松前藩の独占となったことで、不利益を受けることになったアイヌの不満は次第に高まり、やがて寛文9(1669)年にシャクシャインが戦闘を行いました。これを「シャクシャインの戦い」といいます。
松前藩は近隣の津軽藩(つがるはん)の協力を得て戦いの鎮圧に成功すると、以後アイヌは松前藩に全面的に服従することになりました。なお、その後18世紀前半頃には、近江(おうみ、現在の滋賀県)の商人をはじめとする場所請負人(ばしょうけおいにん)が商場の経営を請け負うようになり、彼らからの運上金(うんじょうきん)が藩の財政を支えるようになりました。これを「場所請負制(ばしょうけおいせい)」といいます。
アイヌは和人商人に使われる立場となり、やがて交易をごまかされるなどの不利益を受けました。こうしたアイヌの人々の生活事情を改善しようとしたのが、18世紀後半に政治の実権を握った田沼意次(たぬまおきつぐ)だったのです。
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また、先述のとおり、当時のオランダや清国との貿易に際して、幕府は金銀で支払っていたのですが、長年の貿易の結果として大量の金銀が流出していたため、白石は正徳5(1715)年に年間の貿易を制限しました。これを「海舶互市新例(かいはくごししんれい、別名を長崎新令または正徳新令)」といいます。
次に、朝鮮通信使に対するこれまでの待遇が丁重(ていちょう)過ぎたと感じていた白石は、家宣の将軍就任の慶賀を目的に新たな通信使が我が国に派遣されてきた際に、その処遇を簡素化するとともに、それまでの朝鮮からの国書に「日本国大君殿下(たいくんでんか)」と書かれていたのを「日本国王」と改めさせました。
これらは、一国を代表する権力者である将軍の地位を明確にする意味が込められていましたが、同時に将軍と皇室との関係において、将軍家の地位を下げる結果ももたらしていました。なぜなら「国王」は「皇帝=天皇」よりも格下と考えることも可能だったからです。
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しかし、西洋の文書を無条件で輸入してしまえば、禁止しているキリスト教(=カトリック)の復活にもつながりかねません。そこで吉宗は、享保5(1720)年にキリスト教とは無関係で、かつ漢文に訳した漢訳洋書に限って輸入を認めました。
また吉宗は、当時ヨーロッパで我が国と唯一貿易を行っていたオランダの言葉であるオランダ語によって、西洋の学術や文化を研究した蘭学(らんがく)を積極的に導入しようとしました。この際に吉宗が蘭学を学ばせたのが、青木昆陽(あおきこんよう)と野呂元丈(のろげんじょう)です。
吉宗の時代に種がまかれた西洋の知識により、世界の様子が少しずつ我が国に広まっていったことで、近い将来に開国のチャンスが生まれることになりました。
なお、新井白石が変更した朝鮮からの国書における「日本国王」の表記を、元禄以前に使用されていた「日本国大君殿下」に吉宗が戻しています。
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意次は、長崎における貿易にも力をいれました。それまで縮小気味だった貿易の規模を拡大し、金銀を積極的に輸入するという、いわゆる外貨の獲得を目指したのです。しかし、輸入の量を増やそうと思えば、それに見合うだけの輸出量を確保しなければいけません。
そこで意次は、輸出品として国内で産出量が増えていた銅や、海産物としてイリコ(ナマコの腸を取り出して煮た後に乾燥させたもの)やホシアワビ(アワビの身を取り出して煮た後に乾燥させたもの)、フカノヒレ(サメのヒレを乾燥させたもの)といった「俵物(たわらもの)」を使用しました。
外貨の獲得のために、我が国独自の特産物の増産をはかることも、重商主義による一つの成果といえますね。
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意次は工藤平助の意見を採用して、それまで松前藩に経営を任せていた蝦夷地の直轄を計画しました。天明(てんめい)5(1785)年には最上徳内(もがみとくない)らを蝦夷地に派遣して調査をさせ、その結果、当時の民間商人が蝦夷地のアイヌを通じてロシアと交易していたのを知ると、意次はこれらの交易も幕府の直轄にしようと考えました。
また意次は、アイヌの生活の向上を目指して、農作業を教えようとまで計画するなど、アイヌの自立も目指していました。これは、アイヌの生活を安定化させると、藩の財政を支えるサケや毛皮などをとって来なくなるからという、松前藩の身勝手な理由で農民化を禁止していたのとは、全く正反対の政策でした。
意次の蝦夷地に関する政策は実に開明的であり、またロシアとの交易も視野に入れていたという事実は、我が国の自主的な開国をうながしたことで、吉宗によってまかれたタネが、意次の政策で芽を出して成長し、大きな花を咲かせる可能性を期待させました。
しかし、自主的な開国へ向けての希望は、儚(はかな)く砕(くだ)け散ってしまいました。なぜなら、意次自身が失脚を余儀(よぎ)なくされてしまったからです。
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しかも、噴き上げられた灰が成層圏(せいそうけん、対流圏の上にある高さ約10~50キロの大気層のこと)にまで達し、その後も長く留まって日光の照射の妨(さまた)げになったことで、不作が助長されて大飢饉(だいききん)になってしまったのです。
この飢饉は、当時の年号から「天明の大飢饉」と呼ばれ、噴火以前の天明2(1782)年から天明8(1788)年まで長く続きました。
なお、浅間山と同じ年の1783年には、アイスランドのラキ火山が同じように噴火しており、天明の大飢饉の理由の一つに数えられるとともに、北半球全体が冷害になったことで、1789年のフランス革命の遠因にまでなったと考えられています。
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一揆や打ちこわしが多発する殺伐(さつばつ)とした世が続くなかで、意次の身にさらに悲劇が起きました。息子で若年寄(わかどしより)の田沼意知(たぬまおきとも)が、天明4(1784)年に江戸城内で襲撃を受けて死亡したのです。
意次の悲劇はさらに続き、後ろ盾(だて)となっていた将軍家治が天明6(1786)年に死去すると、政治に対する非難が殺到していた意次は老中を辞めさせられ、失意のうちに天明8(1788)年に亡くなりました。
そして、15歳で11代将軍となった徳川家斉(とくがわいえなり)を補佐するかたちで、意次にかわって天明7(1787)年に老中となったのが、松平定信(まつだいらさだのぶ)だったのです。
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定信は自分が他家の養子となって将軍後継の地位を失ったのは、当時の権力者であった意次のせいであると邪推(じゃすい、悪いほうに推測すること)し、個人的に深く恨んでいました。そのこともあったからなのか、定信は自らが政治の実権を握ると、意次が幕府や我が国のために続けてきた様々な政策を、ことごとく打ち切りにしてしまったのです。
また寛政3(1791)年には、工藤平助と親交があった林子平(はやししへい)が、我が国における海岸防備の必要性を説いた「海国兵談(かいこくへいだん)」を著しましたが、定信は「世間を騒がす世迷言(よまいごと、わけの分からない言葉のこと)を言うな」とばかりに直ちに発禁処分にし、ご丁寧(ていねい)に版木(はんぎ)まで燃やしてしまいました。
海国兵談の出版がもし田沼時代であれば、意次はまず間違いなく子平の考えを支持したでしょう。それを思えば、海国兵談の発禁処分は、定信による「痛恨の失政」でした。意次の進めた政策とは正反対となった定信の消極策によって、我が国は再び門戸(もんこ)を固く閉ざすようになってしまったのです。
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