徳川家による江戸幕府の大政奉還から王政復古の大号令を経て、政治の実権を握った明治新政府でしたが、その前途は多難であり、なさねばならない課題が山積していましたが、なかでも最大の問題は、「いかにして我が国の独立を守り、他国からの植民地化を防ぐか」ということでした。
明治維新が始まった頃の19世紀後半のアジアは、帝国主義を標榜する欧米列強による植民地化が進んだ、いわゆる「草刈り場」のような状態であり、超大国と思われていた清国ですら、アヘン戦争やアロー戦争の敗北によって香港などの主要都市を諸外国の支配下に置くことを認めざるを得ない、という厳しい状況だったのです。
そんな大変な時期に、我が国の命運を託された明治新政府の責任感や重圧、加えて周囲が外敵だらけという心細さは、現代の私たちには想像もつかないほど大きかったのではないでしょうか。
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しかし、それまで260年以上も政治を行ってきた江戸幕府に比べ、産声(うぶごえ)をあげたばかりの新政府が、いくら優れた政策を実行しようとしたところで、果たしてどれだけの国民がついてくるというのでしょうか。
そこで、新政府は我が国の元首であり長い歴史を誇る天皇の意味について深く考え、至高の権威をお持ちの天皇の名の下で政治を行う以外に、国民をまとめると同時に彼らの支持を得る方法は無いという結論に至りました。
また、折からの尊王攘夷(そんのうじょうい)運動によって、皇室に対する尊敬の思いが国民の間で高かった当時の世情も、新政府を後押しする流れにつながりました。
明治元(1868)年旧暦1月、新政府は兵庫に欧米列強の代表を集め、王政復古と今後は天皇が外交を親裁(しんさい、君主が自分で裁決すること)することを通告するとともに、旧幕府が列強と結んだ条約を引き継ぐことを約束して、対外関係を整理しました。次はいよいよ内政の番です。
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五箇条の御誓文の主な内容としては、公議世論(=世の多くの人々の様々な議論のこと)の尊重や、攘夷をせずに開国和親を推進することなどが挙げられますが、これらは明治新政府にとっての、いわゆるマニフェストでもありました。
御誓文には、明治新政府の当面の基本方針を、天皇が神々に誓われるというかたちにすることによって、国民に信頼感や安心感を与えるという意味も込められていました。そして、それだけの覚悟を決めたマニフェストは、21世紀の某政党のように簡単に破ることは許されず、絶対に実行しなければならないものだったのです。
なお、御誓文の内容は、参与の由利公正(ゆりきみまさ)や福岡孝弟(ふくおかたかちか)が起草したものに、木戸孝允(きどたかよし)が修正を加えて完成しています。
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一、広ク会議ヲ興シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スヘシ
[意味:広く会議を開いて、あらゆることを公(おおやけ)の議論の場で決定すべきである]
一、上下(しょうか)心ヲ一(いつ)ニシテ盛(さかん)ニ経綸(けいりん)ヲ行フヘシ
[意味:上の者も下の者もお互いに協力して、国家を治める政策を行うべきである]
一、官武(かんぶ)一途庶民ニ至ル迄各(おのおの)其(その)志(こころざし)ヲ遂ケ人心ヲシテ倦(う)マサラシメン事ヲ要ス
[意味:役人や軍人、あるいは庶民に至るまで、それぞれの意志が達成できるようにし、途中で人々があきらめたり、やる気を失ったりするようなことがないようにすべきである]
一、旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ
[意味:過去のあやまった風習や弊害をやめ、何事も天地の道理たる人としての道にのっとるべきである→「攘夷をやめ、国際法に従うべきである」とも解釈されています]
一、智識ヲ世界ニ求メ大(おおい)ニ皇基(こうき)ヲ振起スヘシ
[意味:知識を世界に求め、天皇が国を治める基礎をなすように奮い立つべきである]
ちなみに、五箇条の御誓文が発表された明治元(1868)年旧暦3月14日は、江戸で西郷隆盛と勝海舟との会談が成立した日でもあります。当時の御所は京都にありましたから、我が国の西と東で同じ日に歴史的な出来事があったんですね。
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具体的には、王政復古の大号令で定められた総裁・議定(ぎじょう)・参与のいわゆる三職を廃止し、太政官(だじょうかん)にすべての権力を集中させ、その下に立法権を持つ議政官(ぎせいかん)・行政権を持つ行政官・司法権を持つ刑法官を置くとする、三権分立制を採り入れました。
三権分立制についてはアメリカの憲法を参考にしており、議政官は上局(じょうきょく)と下局(かきょく)に、また行政官は神祇官(じんぎかん)・会計官・軍務官・外国官にそれぞれ分かれていました。
議政・行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法の各官を総称して七官とも呼ばれます。なお、三権分立といってもそれぞれの独立性は低く、また政体書によって高級官吏を4年ごとに互選させるようにしていましたが、実際に行われたのは一回だけでした。
ちなみに、明治政府の組織については、この後も短い期間で次々と変更されるので注意が必要です。
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そこで、政府は応急の措置として、五箇条の御誓文が発表された翌日の明治元(1868)年旧暦3月15日に、全国の庶民に向けて五榜(ごぼう)の掲示を公布しました。
五榜の掲示の主な内容としては、君臣や父子あるいは夫婦間の道徳を守ることや、徒党や強訴の禁止、キリスト教の禁止、外国人への暴行の禁止、郷村からの脱走の禁止など、旧幕府の政策を引き継いだものでした。
このうち、キリスト教の禁止については欧米列強の反対が強く、明治6(1873)年に廃止されましたが、これによって、我が国で鎖国と呼ばれた状態が完成して以来、約230年ぶりにキリスト教が公認されたことになりました。
なお、一部の教科書では、「五箇条の御誓文」について「五箇条の誓文」と表記していますが、当時の正式な名称は「五箇条の御誓文」です。
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新政府の内部では、大久保利通(おおくぼとしみち)が大坂(=現在の大阪)への遷都を主張しましたが、江戸城が無血開城となり、江戸の街が戦火によって都市機能を破壊されることなく新政府に引き渡されてからは、江戸に新首都を置くべきである、という意見が強くなりました。
江戸に遷都する理由の一つとしては、それまで幕府の本拠地として栄え、100万人以上の人口を抱える世界有数の大都市である江戸が、幕府がなくなったことで寂れてしまう危険性があったことでした。
もう一つの理由は非常に現実的なものでした。新たに首都を定めるということは、役所などの政治システムや、商業施設などの経済システムなども新たに備えなければいけませんが、新政府には首都の機能を一からつくる資金もなければ、それだけの広い土地も我が国にはありません。
しかし、江戸には約260年間続いた幕府の組織がそのまま残っているほか、商業の流通網も長年のノウハウが活かされていますし、かつての武家地の面積は非常に広大で、再開発が容易であるというメリットがあったのです。
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明治の元号は慶応4年旧暦1月1日からさかのぼって適用され、以後は天皇一代につき元号一つと決められました。これを一世一元の制といいます。
一世一元の制によって、天皇が交代するまでは同じ元号を使用するとともに、天皇の崩御後には元号をそのまま追号とすることになりました。この制度は現代にも受け継がれています。
明治元(1868)年旧暦9月20日、明治天皇は東京へと行幸(ぎょうこう、天皇が外出すること)され、10月に到着されると、江戸城を東京城と改められました。その後、一旦京都へ戻られた明治天皇は、翌明治2(1869)年旧暦3月に再び東京へと行幸され、その後は東京城を皇城(こうじょう、現在の皇居)として定住されるようになりました。
明治天皇が一旦京都へと戻られたのは、それまで1000年以上も首都であった京都の市民の落胆をお慰めされるためだったといわれています。その後、明治2(1869)年に我が国の首都が東京と正式に定められましたが、これを東京遷都、または東京奠都(てんと、奠都とは「都を定める」という意味)といいます。
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