慶応(けいおう)3(1867)年旧暦10月14日、朝廷は薩長両藩に対して討幕の密勅(みっちょく、秘密に出された天皇による命令のこと)を下し、ついに薩長は武力による討幕のお墨付きを得ることができました。
薩長両藩からすれば、それこそ待ちに待ったお墨付きだったことでしょう。しかし、討幕を実際に武力で行おうとすれば、江戸をはじめ全国各地が戦場と化すのは避けられず、またその犠牲者も多数にのぼることは容易に想像できることでした。
いかに新政権を樹立するという大義名分があったとはいえ、日本国内で大きな内乱が起きるということは、事後の混乱と諸外国の介入によって、我が国が存亡の危機を迎える可能性も十分考えられることだったのです。
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公武合体の立場をとり続けた土佐藩は、何とか徳川家の勢力を残したまま、武力に頼らずに新政権に移行できないかと考えた結果、討幕派の先手を打つかたちで政権を朝廷に返還してはどうか、と将軍慶喜に提案しました。
このままでは武力討幕が避けられず、徳川家の存続すら危ういことを察した慶喜はこの策を受けいれ、討幕の密勅と同じ旧暦10月14日に、朝廷に対して大政奉還(たいせいほうかん)を申し出ました。
朝廷が慶喜からの申し出を受け、大政奉還を受理したことで、徳川家康(とくがわいえやす)以来260年余り続いた江戸幕府が、その終焉(しゅうえん)を迎えることになったのです。
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そもそも幕府という言葉には、中国における「王に代わって指揮を取る将軍の出先における臨時の基地」という意味がありました。この場合、中国の皇帝は将軍に戦争をさせやすいように、戦地における徴税権や徴兵権を将軍に与えていました。
征夷大将軍も、本来は東北地方の蝦夷(えみし)を討伐するために設けられた臨時の役職でしたが、同じような権限が与えられたことで、いつしか「朝廷から独立した軍事政権を確立するための地位」と拡大解釈され、1192年に源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任じられたことで、軍事政権が朝廷から公認される、という扱いとなったのです。
朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、頼朝は政治の実権を「朝廷から委任される」、つまり「朝廷から預かる」という立場となりました。この考えは後の室町幕府、そして今回の江戸幕府も全く同じですが、一度「預かった」ものは、いずれは必ず「返す」ことになりますよね。
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なお、大政奉還は土佐藩の坂本龍馬(さかもとりょうま)が考案し、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)から前藩主の山内容堂(やまうちようどう、別名を豊信=とよしげ)を通じて、慶喜に働きかけて実現したとされています。
さて、幕府による大政奉還によって、徳川家がほぼ無傷で生き残ったことで、来るべき新政権の中心的存在として、そのまま政治の実権を握り続けるという可能性をも秘めていました。
しかし、そんなことを許しては苦労して討幕運動を続けてきた意味がない、と憤(いきどお)った薩長両藩や公家の岩倉具視らの討幕派は、慶応3(1867)年旧暦12月9日に、武力を背景に朝廷内で政変を実行しました。これを王政復古の大号令といいます。
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なお、総裁には有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が就任し、議定には公家の中山忠能(なかやまただやす)や前土佐藩主の山内容堂らが、参与には岩倉具視(のち議定に異動)や、雄藩の代表として、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)、長州藩の木戸孝允(きどたかよし、別名を桂小五郎)、土佐藩の後藤象二郎らが任命されました。
王政復古の大号令が発せられた旧暦12月9日の夜、三職による小御所(こごしょ)会議が、明治天皇ご臨席のもとで開かれました。議定の山内容堂らは、この会議に前将軍の徳川慶喜が出席できないことを抗議しましたが、岩倉具視らが受けいれないなど話し合いは紛糾(ふんきゅう)し、やがて休憩に入りました。
休憩時、岩倉は外で警備をしていた西郷隆盛に意見を求めると、西郷は「短刀一本あれば用は足りる」と答えたそうです。つまり、相手と差し違えるだけの覚悟をもてば道は開ける、と岩倉を勇気づけたのでした。
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結局、慶喜は将軍のみならず、内大臣の辞任と領地を一部返上させられることで決着したのです。なお、慶喜に対する措置(そち)は「辞官納地(じかんのうち)」とも呼ばれています。
会議後に京都から大坂城に引きあげた慶喜は、当初は新政府との表立っての衝突を避けようとしていましたが、江戸の薩摩藩の屋敷が旧幕府兵によって焼き討ちされてしまうという事件が発生すると、最終的に新政府軍と武力で戦うことを決断しました。
世にいう戊辰(ぼしん)戦争の始まりです。
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