私は平成28(2016)年4月より、これまで蓄積してきたブログにおける通史の内容を、「まぐまぐ!」様のシステムを活用したうえで、新たに「無料メルマガ」として再編成しました。また、メルマガで紹介する時代に関しては、受験での出題頻度が高いとともに、日本史の中でも特に重要である近現代史のうち、明治時代から始めております。
現在、メルマガは約310名の多くの皆様がご覧くださっておられるほか、週一回(毎週水曜日)のペースで続けている連載は、通算で84回を数え(平成29年11月15日現在)、翌年1月からは「昭和時代・戦中編」が始まる予定です。
今回は、これまでメルマガで紹介してきた内容の一部を、ブログ上で再現することにしました。基本的には以前の通史での連載をベースにしていますが、加筆修正している箇所も多くありますので、改めてお楽しみいただければと思います。
また、今回の再現を機に、お一人でも多くの方々に私のメルマガをご購読いただければ幸甚です。
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慶応(けいおう)3(1867)年旧暦10月14日、朝廷は薩長両藩に対して討幕の密勅(みっちょく、秘密に出された天皇による命令のこと)を下し、ついに薩長は武力による討幕のお墨付きを得ることができました。
薩長両藩からすれば、それこそ待ちに待ったお墨付きだったことでしょう。しかし、討幕を実際に武力で行おうとすれば、江戸をはじめ全国各地が戦場と化すのは避けられず、またその犠牲者も多数にのぼることは容易に想像できることでした。
いかに新政権を樹立するという大義名分があったとはいえ、日本国内で大きな内乱が起きるということは、事後の混乱と諸外国の介入によって、我が国が存亡の危機を迎える可能性も十分考えられることだったのです。
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公武合体の立場をとり続けた土佐藩は、何とか徳川家の勢力を残したまま、武力に頼らずに新政権に移行できないかと考えた結果、討幕派の先手を打つかたちで政権を朝廷に返還してはどうか、と将軍慶喜に提案しました。
このままでは武力討幕が避けられず、徳川家の存続すら危ういことを察した慶喜はこの策を受けいれ、討幕の密勅と同じ旧暦10月14日に、朝廷に対して大政奉還(たいせいほうかん)を申し出ました。
朝廷が慶喜からの申し出を受け、大政奉還を受理したことで、徳川家康(とくがわいえやす)以来260年余り続いた江戸幕府が、その終焉(しゅうえん)を迎えることになったのです。
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そもそも幕府という言葉には、中国における「王に代わって指揮を取る将軍の出先における臨時の基地」という意味がありました。この場合、中国の皇帝は将軍に戦争をさせやすいように、戦地における徴税権や徴兵権を将軍に与えていました。
征夷大将軍も、本来は東北地方の蝦夷(えみし)を討伐するために設けられた臨時の役職でしたが、同じような権限が与えられたことで、いつしか「朝廷から独立した軍事政権を確立するための地位」と拡大解釈され、1192年に源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任じられたことで、軍事政権が朝廷から公認される、という扱いとなったのです。
朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、頼朝は政治の実権を「朝廷から委任される」、つまり「朝廷から預かる」という立場となりました。この考えは後の室町幕府、そして今回の江戸幕府も全く同じですが、一度「預かった」ものは、いずれは必ず「返す」ことになりますよね。
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なお、大政奉還は土佐藩の坂本龍馬(さかもとりょうま)が考案し、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)から前藩主の山内容堂(やまうちようどう、別名を豊信=とよしげ)を通じて、慶喜に働きかけて実現したとされています。
さて、幕府による大政奉還によって、徳川家がほぼ無傷で生き残ったことで、来るべき新政権の中心的存在として、そのまま政治の実権を握り続けるという可能性をも秘めていました。
しかし、そんなことを許しては苦労して討幕運動を続けてきた意味がない、と憤(いきどお)った薩長両藩や公家の岩倉具視らの討幕派は、慶応3(1867)年旧暦12月9日に、武力を背景に朝廷内で政変を実行しました。これを王政復古の大号令といいます。
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なお、総裁には有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が就任し、議定には公家の中山忠能(なかやまただやす)や前土佐藩主の山内容堂らが、参与には岩倉具視(のち議定に異動)や、雄藩の代表として、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)、長州藩の木戸孝允(きどたかよし、別名を桂小五郎)、土佐藩の後藤象二郎らが任命されました。
王政復古の大号令が発せられた旧暦12月9日の夜、三職による小御所(こごしょ)会議が、明治天皇ご臨席のもとで開かれました。議定の山内容堂らは、この会議に前将軍の徳川慶喜が出席できないことを抗議しましたが、岩倉具視らが受けいれないなど話し合いは紛糾(ふんきゅう)し、やがて休憩に入りました。
休憩時、岩倉は外で警備をしていた西郷隆盛に意見を求めると、西郷は「短刀一本あれば用は足りる」と答えたそうです。つまり、相手と差し違えるだけの覚悟をもてば道は開ける、と岩倉を勇気づけたのでした。
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結局、慶喜は将軍のみならず、内大臣の辞任と領地を一部返上させられることで決着したのです。なお、慶喜に対する措置(そち)は「辞官納地(じかんのうち)」とも呼ばれています。
会議後に京都から大坂城に引きあげた慶喜は、当初は新政府との表立っての衝突を避けようとしていましたが、江戸の薩摩藩の屋敷が旧幕府兵によって焼き討ちされてしまうという事件が発生すると、最終的に新政府軍と武力で戦うことを決断しました。
世にいう戊辰(ぼしん)戦争の始まりです。
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戦い当時の兵力は、旧幕府軍が15,000名に対して、新政府軍は5,000名しかおらず、旧幕府軍は有利な戦いが出来ると思い込んでいました。しかし、いざ蓋(ふた)を開けてみれば、新政府軍の勝利に終わったのです。
新政府軍が勝利した大きな理由の一つとしては、旧幕府軍と比べて最新鋭の鉄砲などの火器が充実していたことが挙げられます。戦いはもはや兵力の多寡(たか)ではなく、いかに優れた火器を多く使用できるか、という点が重視されていたのでした。
さらにもう一つの大きな理由は、新政府軍が明治天皇から下賜(かし)された「錦(にしき)の御旗(みはた)」でした。戦場に錦の御旗が掲げられたということは、新政府軍が官軍となった一方で、旧幕府軍が賊軍、つまり朝敵(ちょうてき、朝廷にそむく敵のこと)になったことを意味していました。
そして、この厳然たる事実にもっとも敏感に反応したのが、前将軍の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)だったのです。
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戦いに勝利した新政府軍は、慶喜を正式に朝敵とみなし、征討軍を江戸へと向かわせました。この中には、赤報隊(せきほうたい)を結成し、年貢を半減すると公約して農民の支持を得ようとしたものの、新政府から偽(にせ)官軍として処刑された相楽総三(さがらそうぞう)もいました。
江戸城に戻った慶喜は、幕臣の小栗忠順(おぐりただまさ)による徹底抗戦の意見を退け、フランス公使のロッシュの援助も断り、江戸城を出て、上野の寛永寺(かんえいじ)で謹慎しました。
いかに鳥羽・伏見の戦いで敗れたとはいえ、旧幕府を支持する兵力はまだ多く、今後の展開次第では軍事的勝利も十分考えられたはずなのに、なぜ慶喜は朝廷に対して恭順(きょうじゅん)の姿勢をとり続けたのでしょうか。
その背景には、慶喜に隠された「血の秘密」があったのです。
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ところが、幕末の頃の水戸学は、「主君としてふさわしいのは、幕府よりもむしろ天皇を中心とする皇室である」とし、また欧米列強からのいわゆる外圧に対してはこれを排除すべきであるとする、いわゆる「尊王攘夷(そんのうじょうい)」の考えが中心となっていました。
慶喜も当然のように水戸学を学んでおり、徳川家の将軍でありながら、皇室を尊敬する学問を幼い頃から身に付けていたため、自らが朝敵となることが、たとえ将軍という武家の棟梁(とうりょう)の地位を投げ出してでも、絶対に認められないことだったのです。
こうした慶喜の姿勢が、一般的には「弱腰」と見なされることが多いのですが、逆から見れば、慶喜が朝廷と争わずに謹慎したからこそ、徳川家が滅ぼされることもなければ、欧米列強の介入を招くこともなく、また、後述するように、江戸の町を戦火にさらすことを防ぐこともできたのでした。
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江戸を動くことが出来ない勝は、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を使者として駿府へ向かわせ、明治元(1868)年旧暦3月9日に、官軍参謀の西郷隆盛(さいごうたかもり)と会見させました。山岡は勝の手紙を西郷へ渡して、朝廷に取り計らうよう依頼しましたが、西郷は山岡に対して複数の条件を突き付けました。
西郷の条件は、江戸城の引き渡しや旧幕府軍の武装解除などであり、山岡はそれらの要求を大筋で受けいれたものの、一つだけは断固として拒否しました。
その要求とは、「徳川慶喜の身柄を備前藩(びぜんはん)に預けること」でした。勝と同じく旧幕臣の山岡鉄舟にとって、自らの主君が流罪になってしまうことだけは、他の旧幕臣をなだめるためにも、絶対に受けいれられなかったのです。
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「西郷さん、もしあなたと私の立場が逆になって、島津侯(しまづこう、島津の殿様のこと)を他藩に預けろと言われれば、あなたはその条件を受けいれるつもりですか!」
山岡の気迫のこもった意見に対し、さすがの西郷も言葉が詰まりました。やがて山岡の論理をもっともだと思った西郷は折れ、慶喜の件を自分に一任することで話し合いは決着しました。
山岡は翌10日に江戸に戻って勝に結果を報告すると、西郷も13日に江戸の薩摩藩(さつまはん)の屋敷に入りましたが、征討軍の江戸城進撃の予定日は15日に迫っており、予断を許さない中で西郷隆盛と勝海舟との会見が行われたのです。
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この後、4月に江戸城は無血開城となり、戦いで多くの血が流されることを回避したほか、人口が100万人を超えた、世界でも最大規模の都市であった江戸とその住民を、戦火に巻き込まずに済んだことには大きな意義がありました。
なぜなら、江戸が焼け野原となり指揮系統が寸断されることで、欧米列強の軍事的介入を招くこともなく、また江戸の都市機能がそのまま残ったことによって、新政府による首都移転がスムーズに行われるようになったからです(詳しくは別の機会に紹介します)。
江戸城の無血開城の立役者は、西郷隆盛や勝海舟と一般的には言われていますが、その西郷と事前に命がけで交渉を行った、山岡鉄舟の功績も見逃せません。現実に、西郷は山岡に対して以下のような賛辞を贈っています。
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人物でなければ、天下の偉業は成し遂げられないものだ」。
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このうち、江戸の上野では彰義隊(しょうぎたい)が結成され、寛永寺に立てこもって抵抗しました。このため、新政府軍は長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう)が明治元(1868)年旧暦5月15日に総攻撃を加えました。これを上野戦争といいます。
戦争当時、彰義隊は約1,000人の兵力を持っており、簡単には決着しないと思われましたが、新政府軍が肥前佐賀藩(ひぜんさがはん)の所有するアームストロング砲などの最新兵器を活用したことで、戦いは一日で終わり、彰義隊は壊滅しました。
鳥羽・伏見の戦いと同様に、最新兵器の能力の高さを思い知らされる戦争となりましたが、敗れた彰義隊の残存兵力は東北地方などへ落ちのび、戦いはさらに続くことになりました。
なお、上野から少し離れた現在の東京都港区浜松町で、慶應義塾(けいおうぎじゅく)を開いていた福沢諭吉(ふくざわゆきち)が、遠くから聞こえてくる戦争の轟音(ごうおん)が響くなかでも、平然と自ら講義を続けていたというエピソードが残っています。
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なぜなら、会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)が、京都守護職として討幕派と何度も衝突していたからです。なかでも長州藩は、会津藩が預かっていた新選組(しんせんぐみ)による池田屋事件などで多くの藩士を殺されていましたから、その恨みは深いものがありました。
会津藩は会津若松城(別名を鶴ヶ城=つるがじょう)に籠城して抵抗を続けましたが、肥前佐賀藩のアームストロング砲による激しい砲撃もあり、明治元(1868)年旧暦9月22日に降伏しました。この戦いを会津戦争といいます。
会津戦争には、平均年齢が16~17歳の男子で編成され、壮絶な自刃を遂げた白虎隊(びゃっこたい)などの悲劇のエピソードが多く残されています。なお、旧幕府軍の残存兵力は、仙台から蝦夷地(えぞち、現在の北海道)の箱館(現在の函館)へと移動し、新政府軍との最終決戦が行われることになりました。
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しかし、新政府は蝦夷共和国を認めず、雪解けを待って翌明治2(1869)年に攻め込みました。これを箱館戦争といいます。榎本らは陸海それぞれで戦いましたが敗れ、同年旧暦5月に土方は戦死し、榎本は新政府軍に降伏しました。
こうして、鳥羽・伏見の戦いから約一年半にわたって続けられた戦いは、新政府による国内統一というかたちで終止符を打ちました。これらの戦いを総称して戊辰(ぼしん)戦争といいます。箱館戦争で降伏した榎本は、投獄されたものの生命は助けられ、出獄後に新政府に登用されて、その後長く活躍しました。
ところで、幕末から戊辰戦争の終結までに、多くの尊い生命が犠牲となったことに心を痛められた明治天皇は、その御霊(みたま)を慰められるため、明治2(1869)年旧暦6月に東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)を創建されました。東京招魂社はその後、明治12(1879)年に靖国神社(やすくにじんじゃ)と改称され、国難に際して祖国に殉じた尊い英霊(えいれい)をお祀(まつ)りする神社として、現在に至っています。
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徳川家による江戸幕府の大政奉還から王政復古の大号令を経て、政治の実権を握った明治新政府でしたが、その前途は多難であり、なさねばならない課題が山積していましたが、なかでも最大の問題は、「いかにして我が国の独立を守り、他国からの植民地化を防ぐか」ということでした。
明治維新が始まった頃の19世紀後半のアジアは、帝国主義を標榜する欧米列強による植民地化が進んだ、いわゆる「草刈り場」のような状態であり、超大国と思われていた清国ですら、アヘン戦争やアロー戦争の敗北によって香港などの主要都市を諸外国の支配下に置くことを認めざるを得ない、という厳しい状況だったのです。
そんな大変な時期に、我が国の命運を託された明治新政府の責任感や重圧、加えて周囲が外敵だらけという心細さは、現代の私たちには想像もつかないほど大きかったのではないでしょうか。
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しかし、それまで260年以上も政治を行ってきた江戸幕府に比べ、産声(うぶごえ)をあげたばかりの新政府が、いくら優れた政策を実行しようとしたところで、果たしてどれだけの国民がついてくるというのでしょうか。
そこで、新政府は我が国の元首であり長い歴史を誇る天皇の意味について深く考え、至高の権威をお持ちの天皇の名の下で政治を行う以外に、国民をまとめると同時に彼らの支持を得る方法は無いという結論に至りました。
また、折からの尊王攘夷(そんのうじょうい)運動によって、皇室に対する尊敬の思いが国民の間で高かった当時の世情も、新政府を後押しする流れにつながりました。
明治元(1868)年旧暦1月、新政府は兵庫に欧米列強の代表を集め、王政復古と今後は天皇が外交を親裁(しんさい、君主が自分で裁決すること)することを通告するとともに、旧幕府が列強と結んだ条約を引き継ぐことを約束して、対外関係を整理しました。次はいよいよ内政の番です。
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五箇条の御誓文の主な内容としては、公議世論(=世の多くの人々の様々な議論のこと)の尊重や、攘夷をせずに開国和親を推進することなどが挙げられますが、これらは明治新政府にとっての、いわゆるマニフェストでもありました。
御誓文には、明治新政府の当面の基本方針を、天皇が神々に誓われるというかたちにすることによって、国民に信頼感や安心感を与えるという意味も込められていました。そして、それだけの覚悟を決めたマニフェストは、21世紀の某政党のように簡単に破ることは許されず、絶対に実行しなければならないものだったのです。
なお、御誓文の内容は、参与の由利公正(ゆりきみまさ)や福岡孝弟(ふくおかたかちか)が起草したものに、木戸孝允(きどたかよし)が修正を加えて完成しています。
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一、広ク会議ヲ興シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スヘシ
[意味:広く会議を開いて、あらゆることを公(おおやけ)の議論の場で決定すべきである]
一、上下(しょうか)心ヲ一(いつ)ニシテ盛(さかん)ニ経綸(けいりん)ヲ行フヘシ
[意味:上の者も下の者もお互いに協力して、国家を治める政策を行うべきである]
一、官武(かんぶ)一途庶民ニ至ル迄各(おのおの)其(その)志(こころざし)ヲ遂ケ人心ヲシテ倦(う)マサラシメン事ヲ要ス
[意味:役人や軍人、あるいは庶民に至るまで、それぞれの意志が達成できるようにし、途中で人々があきらめたり、やる気を失ったりするようなことがないようにすべきである]
一、旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ
[意味:過去のあやまった風習や弊害をやめ、何事も天地の道理たる人としての道にのっとるべきである→「攘夷をやめ、国際法に従うべきである」とも解釈されています]
一、智識ヲ世界ニ求メ大(おおい)ニ皇基(こうき)ヲ振起スヘシ
[意味:知識を世界に求め、天皇が国を治める基礎をなすように奮い立つべきである]
ちなみに、五箇条の御誓文が発表された明治元(1868)年旧暦3月14日は、江戸で西郷隆盛と勝海舟との会談が成立した日でもあります。当時の御所は京都にありましたから、我が国の西と東で同じ日に歴史的な出来事があったんですね。
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具体的には、王政復古の大号令で定められた総裁・議定(ぎじょう)・参与のいわゆる三職を廃止し、太政官(だじょうかん)にすべての権力を集中させ、その下に立法権を持つ議政官(ぎせいかん)・行政権を持つ行政官・司法権を持つ刑法官を置くとする、三権分立制を採り入れました。
三権分立制についてはアメリカの憲法を参考にしており、議政官は上局(じょうきょく)と下局(かきょく)に、また行政官は神祇官(じんぎかん)・会計官・軍務官・外国官にそれぞれ分かれていました。
議政・行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法の各官を総称して七官とも呼ばれます。なお、三権分立といってもそれぞれの独立性は低く、また政体書によって高級官吏を4年ごとに互選させるようにしていましたが、実際に行われたのは一回だけでした。
ちなみに、明治政府の組織については、この後も短い期間で次々と変更されるので注意が必要です。
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